★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

悪口・批評・人生

2023-02-18 23:47:21 | 文学


おとど、参り給へれば、宮入り乱し給へれば、え上り給はで、下に立ち給へれば、君たちはさながら土に立ち給へり。女これかれして、君に消息申し給へど、え聞こえ継がぬほどに、大殿の君の御方に言ふやう、「ここらの年月日燃えざりつる死人の、今宵、かく、からうして率て出でられぬべきかな。いかに腐り乱れたらむ。さかるいはくそむかしのことのはきそすめる」と言ふ。また、院の御方に、下仕へ・童など、 「今宵は、よき日なるべし。 縫殿の陣の方に、にはかに、物蒔きたる車ども、きたに立てりつ。今宵ぞ、持て出でらるべかめる。桃楚して、よく打たばや」など言ひ合へり。おとど、爪弾きをして、「女子持ちたらむ人は、よき犬・乞巧なりけり。なかに、らうたしと思ひし者をしも出だし立てて、かかる耳を聞くこと。なほ、犬・鳥にもくれて、込め据ゑたらましものを」と言ひ、立ち給ひつるを、宮は、いとよく聞こし召す。

むかしから悪口というものはリアルである。悪口は一種の批評である。わたくしは、職業柄、批評と悪口の関係について考えてきた。これは一種の虚構論を考えることでもある。藤壺(あて宮)と春宮の愛の物語が、長恨歌的に「物語」になりかけるのに対し、周りの人間がかれらを現実に引き戻そうとするようだ。うつほ物語の、あて宮と春宮への宮中の悪口の場面、これがある意味、長恨歌的な世界に対する大和魂の場面だと思う。

さんざ言われてるんだろうが、三谷幸喜氏の脚本はかなりみなもと太郎の「風雲児たち」の風味が入っている。しかしかなり別ものになっていて、、たぶん根本的には人生観のちがいか、とも思われるが、みなもと太郎には批評=現実への回帰がなく、三谷氏にはそればかりあるという違いもある。みなもと太郎は、有名なフィクションを現実紛いとみて、もっと虚構に追放しようとした作家である。これは、同時代の作家たちもおなじ動きをしていた模様だが、根本的にオタク的なものである。かれらは作家性を放棄し、楽しい虚構を世界と共存させようとしたのである。

さっき、谷川流の「涼宮ハルヒの憂鬱」で、試験問題が作れるかちょっと考えてみたんだが、――読解問題は簡単すぎるものになるかわりに、哲学青年ぽい問いをつくるしかないところがあり、ひろく中学生とかの疎外感情みたいなのをすくい取っていたのかもしれないなと思った。この語り手のいけ好かない評論家みたいな語りは、上から目線でも下から目線でもなく、だからといって、現実世界でやったら確実にいじめの対象であるような奇妙なものだ。このジャンルをほとんど知らないので、どのぐらい一般化しているのかしらないが、例えば、発想の元になっていると思われるエヴァンゲリオンなんかでは絶対にあってはならない語りの態度なのである。これは一種の絶望の語りだと思う。

なぜかといえば、エヴァンゲリオンでは、第三者的な批評は、登場人物全体が人類補完計画とやらの対象になってあるいみ対人恐怖的に病んでいなければならない、というかそれが人間が普遍性ということになっているので、ゆるされない。で、物語も終わることを許されないので永遠に物語は不可視の神によってループしているわけであった。しかしこれは、逆に人生に対する拘りより作品の永遠性に対する拘りが必要で、強烈な作家性にだけ許されるようなことである。これに対し、鑑賞者はそこに居座ることはゆるされず、批評者としてつねに疎外されることになり、ハルヒ=作者に対する常識者としての批評をしつづけることになるわけだ。これは、批評者が人生に閉じ込められるということでもある。つねづね思っていたけれども、エヴァンゲリオンはオタクへのテロ、その成功によるオタクの終焉であって、かれらの人生への追放だったと思う。

これは、オタク気質が、人生における哲学的妄想に閉じ込められることを意味している。この妄想に、テキスト(=作品)はない。エヴァンゲリオンをみたところで、哲学的ヒントは何もないからだ。ただ、作家と作品が閉じているということを示してくるだけであるからである。ところが、現実世界は、テキストと共存しなければならない世界である。

古文・漢文の卒業論文をよんでいると、壊滅的に現代語訳が出来なくなっているのが分かるけれども、これは近代文学でもまったくおなじである。だから他人の論文も理解出来ない。理解というのは飜訳能力で、解釈の自由とか恣意とか、ましてや思考力みたいなおばけみたいなものではない。やはり逐語訳を毎日ひたすらやりつづけるのは学習者にとって必要なのである。ベンヤミンが言う以上に飜訳は大事であった。コミュニケーション能力みたいなものはそういう飜訳能力を情報のノイズの除去みたいな概念にしてしまった。

今日は、「スターリン言語学」につづいて、戦時下にでたタカクラ・テルの「ニッポン語」を少し読んだ。唯物論研究会周辺でもあった、この表音文字に近づけた表記法は奇妙だが、まだこの時代は、柳田國男に限らず、生活世界に対する盤石な信頼と抵抗感があったから、言語は表意を失ってもなんとかなるみたいな安心感があったような気がする。エヴァンゲリオンは表記法を難解な戦時下風のスタイルをとっている(たしか、大塚英志氏が指摘していた)。これも案外、ネット世界での衒学趣味につながっていると同時に、生活への追放を享受者にもたらしたかもしれない。

その生活には、テキストはない。すなわち、表意性があらわな漢字の世界も、つぶやきが乱舞する悪口の世界への回帰もない。ここには、世界へも日本にも回帰しない世界がある。