★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

生成のとき

2023-02-02 23:10:14 | 文学


殿上童部、夜更けぬれば、候はぬうちにも、仲忠の朝臣は、承り得る心ありて、水のほとり草のわたりに歩きて、多くの蛍を捕らへて、朝服の袖に包みて持て参りて、暗き所に立ちて、この蛍を包みながらうそぶく時に、上、いと疾く御覧じつけて、直衣御袖に移しとりて、包み隠して持て参り給ひて、尚侍の候ひふ几帳の帷子をうち懸け給ひて、物などのたまふに、かの尚侍のほど近きに、この蛍をさし寄せて、包みながらうそぶき給へば、さる薄物の御直衣にそこら包まれたれば、残る所なく見ゆる時に、尚侍、「あやしのわざや」 とうち笑ひて、かく聞こゆ。
 衣薄み袖のうらより見ゆる火は満つ潮垂るる海女や住むらむ


尚侍の歌はそれまでの状況説明とは異なっている。帝がいかに蛍の光でしゃれたことをやっていようとも、それは日常的説明の平面をでないが、尚侍が直ぐさま歌でかえすと時間がとまって全体が作品となる。歌だけでなく、詞書きがあるのは、このジャンプの機能こそが作品の生成を示していて、その生成こそが重要だというのが分かっていたからだと思うのである。それは、ミメーシスでもポイエーシスでもなく、生成であり、われわれはそれが蛍とか帝、袖とかいうものと通じて出来上がってくると思っていたに違いない。

ヴィトゲンシュタインが『哲学宗教日記』のなかでたしか、映画は本質的に夢であってフロイトがうまく使えるんだと言ってた。ほんと、むしろ使えすぎるものに時々興奮するだけでなく、いまや掌サイズのスクリーンが手の中にあって常にそのなかを覗き込んでるわれわれはフロイトを手中に収めたといえるのだ。――まあそれは、冗談だとしても、ヴィトゲンシュタインはいつ読んでも何言っているのかわからんが、彼も日記と著作ではかなり別人であるのはわかる。おれたちの社会はスマホなどによる日記のやりとりばかりで生産力あげようとする社会になりつつある。フロイトの可視化がダリの絵画ではない。日記は詞書きである。