★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

再帰的大和魂

2023-02-19 19:56:14 | 文学


若宮「わが見に出でたりしかば、宮の隠して見せ給はざりし」。小宮、「見せ給はざりしかば、いみじう泣きしかばこそ、見せ給ひしか。抱きしかば、うち落として騒がれき」。 大将、「さて、いかが御覧ぜし。憎げにや侍りし」。宮、「否、いとうつくしかりき。こなたに率て来などせさせしかば、ののしりてとどめき。ただ今、抱きておはせよ」とのたまへば、「ただ今は、汚げに、むつかしう、なめげなるわざもし侍れば、今、大きになりなむ時に、召して、らうたくして使はせ給へ」。宮、「いとうれしかりなむ。 遊ぶ人なくて、いと悪し」とのたまふ。大将、手づから賄ひして、たちに物含めつつ参り給ふ。車どもを、「雛に子の日せさせ給へとてて参りつる」とて奉り給へば、宮たちも、喜びて弄び給ふ。かくて、常に、をかしき弄び物は奉り給ひけり。


百日の祝いで、将来二人の結婚を望むひとがいた。しかし、子どもはまだ「汚げに、むつかしう、なめげなるわざもし侍」るのである。昔はおむつがないのでみんなの前でおしっこシャーということがありえたのであった。

それはともかく、あいつの子どもとおれの子どもを夫婦にみたいなことばかり考えている輩ばかりの社会は危険である。やはり勉強で縛る他はあるまい。いまも法律で我々は自分を縛っているが、平安時代はもっと縛るのは難しかったに違いない。それで、源氏のように、漢学を勉強しないと大和心をつかえませんよ、という説教が出てくる。これをどう解釈したらよいのか、わたしはいまだによく分からない。近代におけるケースを考えてみても、大和魂には洋学からの回帰性の性格しかない。主体性を付与するのは元々難しいのだ。源氏が、勉強しないと大和魂を使えないというのは思っている以上に深い意味――あるいは紫式部の悪意すらあるような気がするのだ。たんなる妄想だが、官僚が漢文を書いていたのは、大和魂というかはともかく、葬り去られてしまう心理をひそかに書き残すためだったのかもしれない。そういう二重言語みたいなやり方が、紫式部みたいな直截におんな文字で心を書く連中と争って、心はそもそもどういうものか分からなくなり、混迷の度を深めていったのではなかろうか。武士の暴発の原因にはそういう空気もあったのかもしれない。

心の世界は、混迷の度を高めると、明確なもののありそうな態度で自分を保つものである。それはしばしば物事に対する憫殺というかたちをとる。ネット社会が駄目なのは、せいぜい可能なのが嘲笑で、憫殺がないからだ。ネットでは、心はつねにテキストに解体され面目を失いつづける。平家物語の世界は、案外、こういう面目を失い続ける世界なのではなかったであろうか。

最近、文芸マンガの傑作「ホーキーベカコン」を読んだので、「春琴抄」を再読した。溫井検校が日蓮宗から浄土宗にかえて春琴の横に眠っている件を読み飛ばしてたことに気がついたが、思春期に読んだ時には、その物語の奇妙さに気をとられたが、この文章はは異様なほど語りと物語内容が、語り論のために書かれたように巧妙に相対的で相補的である。それは、漢学と大和魂の関係に似ている。これを、マンガをはじめとしたわれわれは、対立とか相対化としてうけとる癖がついている。