★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

日本人の肖像

2023-02-11 18:38:44 | 文学


外に出るのは誰も具合が悪かつた。
 それで、飽きもせず彼等は私の部屋に碌々とし続けた。(――と私は今、村での日日を思ひ出すのである。つい此間までの村の私の勉強室である。私は余儀なく村を立ち去つて、今は都に迷ひ出たばかりの時である。)
 向ひ側の人の顔だちが定めもつかぬ程濛々と煙草の煙りが部屋一杯に立こめてゐた、冬の、くもり日続きの、村の私の部屋なのだつた。誰も彼も、もう駄弁の種もすつかり尽き果てゝ稍ともすれば沈黙勝ちな、夜もなく、昼もなき怠惰な村の愛日抄を書かう。
 寝転んでゐる者がある、炬燵にあたつてゐる者がある。部屋の隅にある小机に凭つて手紙か何かを書いてゐる者がある。安らかに無何有の境に達して大鼾きをあげてゐる者がある――おそらく夢だけで消えてしまふであらう「ソクラテス学校」――そんな題名の小説を想つてゐる私が、何んな顔つきで日々彼等の仲間になり続けてゐたか私は知らない。


――牧野信一「くもり日つゞき」


ソクラテスとかプラトンを読んでいると、西洋って何だろう、、と思う。我々が進歩しない以上に、あちらも進歩していないではないのではないか。しかも進歩していると思っているところまで共通しているのだ。先日、永井路子がなくなった。みんなさんざ言っているんだろうけど、この人の影響は結構でかいんだよな、大河ドラマの人物のあり方だけでなく。大河ドラマでは、女性のキーマンとしての大きさを拡大したことは日本の文化に大きなものを残したと言わざるをえない。しかし、これは物語のなかの比重のようなもので、現実の女性の人権や本質的な扱いが大してかわらないのは周知の通りである。だいたい、物語のように女性を扱うからおかしいことになるのだ。このおかしさには本当は我々は気づいている。ぴんからトリオの「女のみち」は72年の大ヒット曲で、洗練されているから時代錯誤な歌詞が頭に入ってこない。こういうときに、我々はジェンダーの錯交を曲の中に溶かし込んでみることさえできたのである。

もとより、動物的状態から出発し最後にそこに回帰してゆくみたいな我々の人生に対する見方は、しばしば生成と滅びやビルドとスクラップみたいなイメージと重ねられ、それを無理矢理にビルドゥングスロマンとみなすと壊れても伸びる塔となる。しかし、それぞれの観点にのめり込む勇気が我々にはない。われわれの人生のイメージは、イメージに過ぎず、個々の場面場面において、我々が人間であるかどうかさえあやしいことを認められない。女性にしたって同じことである。

タラちゃんの貴家堂子氏がなくなっていた。タラちゃんが亡くなったのに、日本人がまだ生きているのが信じられない。もうみんなで亡くなった方がよいのではないか。――こんな風に我々は絶対に思わない。しかし、本当は少しは思うべきなのである。ところが、我々は、タラちゃんも声優も都合のいいときだけしか同質性を感じない。

わたくしは、じっさい「自分らしさ」みたいなこと考え始めた時点でその人はほぼ心理的に危機だし、人格的に終わってることが考えられるなあ、とおもいつつ、その「らしさ」みたいな自分と他者の荒涼たる中間地帯のおもしろさが、われわれをかろうじて支えていると思うものだ。

日本人の肖像画としては、お札の肖像画なんかもおもしろいものだ。今回、たいしたことのない人物?が選ばれたせいで、我々はすでにテンションが下がっている。もういっそのこと、空海の10000円札、松田聖子の5000円札、六条の御息所の1000円札、このぐらいやったらワンチャン景気浮上するかもしれない。しかし、もう捨て身で、孫悟空の100000円札、孫悟飯の10000円札、田舎っぺ大将の5000円札、ど根性ガエルのひろしの1000円札でもいいわ。――とはならないのだ。そこには野沢雅子氏の肖像に近くなってしまうからである。しかしだからといって、聖徳太子は日本人の肖像画といえたであろうか。

とはいえ、まったく自己が極端なものの投影から遁れられかといえばそうでもない。さっきオリコン1位の歴史を辿っていたら、やはりいまの中年がピンクレディーを何歳に体験したのかが重要だと思った次第だ。ピンクレディーの登場は何かを変えてしまったのである。そういえば、わたくしが大の大人になってから、緊張しすぎて「ぼく」と言ってしまったことがあるのは、小さい頃、「はじめての僕デス」を聞いたからかもしれない。たいした曲で、歌も巧い。だれかと思ったら、小学生の頃の宮本浩次(エレファントカシマシ)であった。それを早く言ってくれよと思うが、そのとうじ、まだ宮本氏は後年の宮本氏ではないのだからしょうがない。