★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

猿化でない猿

2023-02-07 19:05:03 | 文学


後は、お話しせずとも、大概お察しがつきませう。奈良島は、その日一日、禁錮室に監禁されて、翌日、浦賀の海軍監獄へ送られました。これは、あんまりお話したくない事ですが、あすこでは、囚人に、よく「弾丸運び」と云ふ事をやらせるのです。八尺程の距離を置いた台から台へ、五貫目ばかりの鉄の丸を、繰返へし繰返へし、置き換へさせるのですが、何が苦しいと云つて、あの位、囚人に苦しいものはありますまい。いつか、拝借したドストエフスキイの「死人の家」の中にも、「甲のバケツから、乙のバケツへ水をあけて、その水を又、甲のバケツへあけると云ふやうに、無用な仕事を何度となく反覆させると、その囚人は必自殺する。」――こんな事が、書いてあつたかと思ひます。それを、実際、あすこの囚人はやつてゐるのですから、自殺をするものゝないのが、寧、不思議な位でせう。そこへ行つたのです、私の取押さへた、あの信号兵は。雀斑のある、背の低い、気の弱さうな、おとなしい男でしたが……。
 その日、私は、外の候補生仲間と、欄干によりかゝつて、日の暮れかゝる港を見てゐますと、例の牧田が私の隣へ来て、「猿を生捕つたのは、大手柄だな」と、ひやかすやうに、云ひました。大方、私が、内心得意でゞもあると思つたのでせう。
「奈良島は人間だ。猿ぢやあない。」


――芥川龍之介「猿」


芸術家たちはいろんな関係性を駆使してものをつくっているけれども、それは「みんなでつくってる」のではない。かように、われわれは、人間の関係性に関する思考も創造性も脆弱になっている。関係をつくる道具に影響され、関係性そのもののバリエーションが減ったからだ。とくに、ラインに見られるような平面的な関係性は現実はありえない。にもかかわらず、平面的にとらえるくせがつくと平面にしかとらえられなくなる。しかもそれを人間の平等性みたいな観念で肉付けしたりもするのだ。平等はそういうときに使うべき観念ではない。

組織の役割分担みたいなのはきついもので、役相応のことしかいえないという制限がかかっていると同時に、役を盾にしていえることも出てくるし、権力を使って人を守れることもある。これが必ず必要なときがある。権力が人をいじめる力にしかなってないやつは子どものままで大きくなっただけなので論外。――こんなことは大人の常識であるが、我々はいつも人間であるとは限らないのだ。インターネットによって我々が猿化したと人は言う。違うと思う。我々は現実に猿だと思う。

組織のボスが「ボス猿」だとどうなるかというと、やつの命令をボイコットか仕事の最小化によって生き延びようとするとする小猿のなかで、過剰に命令をしかも命令に見えないように遂行する人間が少数で死ぬ気でたちまわるからである。命令に見えないようにするのは、これ以上命令性が見える化すると
もっとサボり猿が増えて自分の首を絞めるからにほかならない。いまの労働の過剰化は、その少数猿の実態とサボり猿の回避しようとする労働の妄想の総和である。ということで、定時に帰ります、ではまったく問題の解決になっていない。我々が、このことを忘れがちになるのは、もはやわれわれが人間でないからだ。

組織がトップの権力行使が唯一の権力行使で、中間がなくなると、構成員の力の行使は、ボス猿を狙ったつよい抗議の力(テロ的な何か)の行使か沈黙かという二択になってしまう。だから余計にボスは沈黙を求めて力を振るおうとする。そんななかで「抵抗の精神」を説いて、どの程度ナンセンスかは自明である。現実がそんな猿山なので、まったくナンセンスなのではない。しかも文化はそうやってにょきにょきでてくる側面はあり、長期的には効果があったりするから別にいいのだが、だからといって威張るほどのことでもない。

今日は、アニミズムやアクターネットワーク論の話を授業でしながらそんなことを思った。