★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

相撲的暴力

2023-02-17 19:45:04 | 文学


中学時代に相撲が好きで得意であったような友人の大部分は卒業後陸軍へはいったが、それがほとんど残らず日露戦役で戦死してしまって生き残った一人だけが今では中将になっている。海軍へはいった一人は戦死しなかった代わりに酒をのんでけんかをして短剣で人を突いてから辞職して船乗りになり、シンガポールへ行って行くえがわからなくなり、結局なくなったらしい。若くて死んだこれらの仲よしの友だちは永久に記憶の中に若く溌剌として昔ながらの校庭の土俵で今も相撲をとっている。いちばん弱虫で病身でいくじなしであった自分はこの年まで恥をかきかき生き残って恥の上塗りにこんな随筆を書いているのである。

――寺田寅彦「相撲」


寺田寅彦でさえ日和ってしまう、日本の暴力的性格については、何を言ってもわからない輩がたくさんいるが、相撲が神事だからとかいって人を説得しようとしているバカにはそれが何を意味しているのか分からないのだ。こういう連中が、暴力を、抑止効果とかスクリーニング効果とか言ってうまいことやっていると思っている。他人が自分のように反応すると信じているその頭の悪さがすさまじい。

アメリカが日本に原爆落としたのは、いろんな理由があったが、――たぶん最終的には、妙に真面目でしつこい文化が妙に発達してて死んでも詩が残るみたいな発想が不気味で、やたら決断力がなく奴隷根性のくせに頑強なずるさをもってそうで人数も妙に多い輩は、これぐらいしないと手を挙げないとおもったからではなかろうか。何が言いたいかというと、日本人は戦争やるととにかくめんどうくせえ輩なので過剰にたたいとかんとという心理が相手に働くんじゃねえかということだ。我々が信用されないのは独特なもんがあると思う。――むろん、西洋人たちを中心とする誤解である。われわれは荒っぽい性格をもっているに過ぎない。ただ、自分たちが相撲をとっていると思っているだけだ。

江藤淳に「過渡期と執念」という文章があって、ジャーナリズムの川に流されて長篇をかきとばしている作家たちに、漱石のような執念はないのか、と言っている。学生がこの前、この「執念」についての注釈をつけてて面白かった。執着ではなく、執念というところに、当時デビューした若者達、大江とか石原とか、井上靖とか三島の「鏡子の家」とかにある暴力的な性格を見ないわけにはいかない。三島だけが、それを持続しようとして果ててしまった。