《試練》――現在史研究のために

日本の新左翼運動をどう総括するのか、今後の方向をどう定めるのか

清水議長がやるべきは革共同解散表明と即刻引退である

2020-09-01 03:13:07 | 日本の新左翼運動と共産主義運動をめぐって

清水議長がやるべきは革共同解散表明と即刻引退である
――『前進』夏季アピールは本多思想=プロレタリア暴力革命の思想を拒絶し“永遠の体制内変革運動”を標榜する歴史的犯罪

 

 

●はじめに

 革共同中央派の機関紙『前進』は近年ますます訴求力がなく、何の魅力もないものになっている。それというのも、帝国主義国家権力と対峙する気迫がなく、まして日本帝国主義を打倒する路線提起もなく、共産主義=世界革命=プロレタリア暴力革命の思想とはかけ離れたものとなっているからである。革共同という、本来は“過激派”であるべき党派が、武装闘争の“ぶ”の字もいわなくなれば、それも当然である。
 その中でも、毎年恒例の夏季特別号に掲載される今年の夏季アピール(『前進』第3154号、2020年8月3日付)は、それまでの路線――階級的労働運動=動労千葉特化路線――とは明らかに異なった音色を出している。
 推測するに、夏季アピールは、議長・清水丈夫氏を含む政治局討議にもとづいて文章化したものであろう。清水氏自身が校正の筆を入れたかもしれないと感じさせるフレーズもある。場合によったら、全文が清水氏執筆かもしれない。いずれにせよ、清水議長の政治的・組織的責任のもとで執筆、発表されたのが夏季アピールとみなしてよいであろう。
 その2020年夏季アピールは、詳しくは後に記すが、一読してすぐわかることは、「革命」「帝国主義打倒」の空文句が影をひそめ、替わりに「社会変革運動」なる新路線=珍路線が打ちだされたことである。また、「党の目的意識性」を放棄する文言が綴られていることである。それと表裏一体で、かつては革共同の綱領的生命線でもあった「帝国主義」概念を一掃し、「新自由主義」規定を経済主義的に平面化かつ自立化=全面化していることが、顕著である。
 すなわち、それは2006年3・14Ⅱ(関西における集団的・差別主義的テロ・リンチによる党内クーデターとその組織的容認)以来の中央派の歴史のなかでも特筆すべき変質と頽廃の文書である。中央派が存在すること自体が階級闘争の害悪であり、ただちに革共同(中央派)を解散すべきであることを裏書きするもの、それが2020年夏季アピールである。(以下、氏名の敬称は略する)


【1】なぜ、清水丈夫議長は責任をとって自己批判=引退しないのか

●革共同2019年問題(政治局崩壊)とは何だったのか
 
 革共同中央派の現議長は清水丈夫である。その清水は、すでに久しい前から政治的・組織的・人間的に議長崩壊状況にある。
 最近の事態をとっても、中央派は根底から混乱と頽廃の極みにある。にもかかわらず、清水は党外にたいしてはもちろん、党内においても何の態度表明もしていないのである。ひたすら沈黙し、ただただ議長の座にしがみつくだけという醜悪かつみじめな状態を続けている。
 周知のように、書記長の天田三紀夫、党内実権派の黒川(天田)純子(木崎冴子、関東地方委員会統括責任者、前FOB[中央女性解放闘争組織委員会]議長)、東京都委員会委員長の河村剛(坂木、高原洋三、前WOB議長[労対部長])、政治局スポークスマンの鎌田雅志ら政治局中枢の面々が由々しき組織的犯罪を追及され、自己批判もできないまま、辞任に追い込まれた(2019年7月)。
その前段では、党内労働者支配をほしいままにしてきた辻川慎一(大原武史、中央WOB[中央労働者幹部団全国会議]議長)が数々の階級的犯罪行為を開き直って、自己批判を拒否し、一方的に「離党届け」を出して逃亡した。ただ逃亡したのではなく、動労水戸を分裂させて逃亡した(2018年9月)。
 こうして06年3・14Ⅱ以来の政治局が崩壊したのだった。

●労働者幹部による反労働者的・階級的犯罪の数々

 それらの由々しき組織的犯罪とは何だったのか。
 (1)2014~17年に天田、辻川、田中康宏(松丘静司、当時動労千葉委員長、中央WOB)を先頭にして党組織ぐるみで、「動労総連合を全国に」をスローガンに急激に推し進められた国労共闘解体・国労脱退=国労分断→動労総連合単産デッチ上げであった。
 (2)辻川による①労働争議の私的政治的利用主義、当該女性との不倫・妻子の蹂躪・逃亡、②約20年もの長きにわたるフィリピン女性労働者の性奴隷化、③地域交通資本とのどろどろの癒着、④辻川動労総連合構想(動労東日本を新たにつくり、その委員長に辻川を据える案)による動労千葉支配の企図、⑤天田とともに高唱した「労働の奪還論」とその理論外的な党是化が同時に進行した。
 (3)2014年に神奈川県委員会湘南支部の山梨(動労総連合神奈川担当、地域合同労組担当、中央WOBメンバー)が中央WOBメンバーという労働者幹部の官僚主義的な権威と権力をかさに着て前進社α部局のPさんを任務と称して呼び出して計画的にレイプし、性暴力をふるう関係を何年も続けた。その一方で、黒川が率先して山梨を擁護し、Pさんに沈黙を強制し、鎌田(Pさん所属部局担当)と神奈川県委員会が黒川に従い、かつ伊達らFOB(中央女性解放闘争組織委員会)と洞口朋子(杉並区議)らがAさんを裏切って抑圧・隠蔽、加えて政治局員・坂本千秋(前進編集局サブキャップ、前FOB)が知っているのに知らん顔をするという、前代未聞の組織ぐるみの性暴力容認=構造的女性差別が続けられたのである。
 ある面でもっとも深刻かつ犯罪的なことは、黒川、坂本、伊達、洞口といった女性幹部たちがレイプ犯を擁護し続け、当事者である被害女性の必死の訴えを直接間接に抑圧し、ぎゃくに彼女の側に問題があるとして追いつめたことであった。
 (4)それら組織的犯罪の出発点および発生源は一つには第7回大会であった。そこでは「党と労働組合の一体的建設」と「動労総連合を全国に」がメインスローガンとして繰り返し強調された。また大会報告と議論のベースには「血債主義者とのたたかいに勝利した地平」ということが敷かれ、差別・抑圧とのたたかいの綱領的レベルでの否定が決定された。その「血債主義反対」の対極では、スターリン主義まがいの「労働者は労働者であるだけで革命的・階級的だ」とか「党は労働者党員独裁であるべきだ」という倒錯した労働者神格化が極点に達したのだった。
だからこそ、前記(1)(2)(3)の労働者幹部による組織的犯罪、とりわけ国労脱退や女性差別犯罪が発生かつ容認されてきたのである。
 その報告議案の基幹部分は清水の執筆にかかるものであり、大会実行委員長・黒川、第一報告=河村、第二報告=天田、特別報告1=田中(松丘)、同2=辻川という体制でもたれた翼賛会議が第7回大会なるものであった。
 (5)組織的犯罪のもう一つの発生源は、中央WOBなる組織機構であった。中央WOBは、06年3・14Ⅱが「党の革命」として肯定・美化された後、中野洋が労対すなわち中央労働者組織委員会(WOB)と区別して組織された。前者が職革(職業革命家)=常任によって構成されるのにたいして、後者は中野によって恣意的に全国から産別ごとに選抜された労働者幹部党員によって構成される中央労働者幹部団全国会議である。中野存命中は、中央WOBは政治局より上位にあり、また10年3月の中野死後は、ほどなく天田・黒川・河村サイドが党権力を取り戻し、「三人組」と呼ばれ、独裁的に権力を行使してきた。中央WOBは、天田に迎合する辻川が議長となり、天田ら三人組は辻川を通して中央WOBを牛耳ってきた。この中央WOBから、辻川、山梨など女性差別犯罪が次々と生み出されたのであった。重要なことは、辻川と中央WOBの二枚看板だった田中(松丘)はそれらすべてに政治的・組織的な共同責任があるということである。

●最高の組織責任を負う清水を議長に再任した26全総

 経過は省くが、同年9月に26全総が開かれた。清水はあまりにも重大な会議でありながら、欠席した。しかも、前記した政治局員のうちすでに逃亡していた辻川に加えて、天田、黒川、河村、鎌田は政治局員解任となったが、清水と田中(松丘)はいったん辞任、そしてちゃっかりと再任という茶番劇を演じたのだった。坂本も再任され、前進編集長に納まった。
 また中央WOBが果たした役割の犯罪性についてはすっかり封印されたのだった。すでに田中(松丘)が辻川に替わって中央WOB議長となっていたが、改めて政治局の上位に位置することとなった。

 その後、知りえたことであるが、26全総の席上、清水の文書が配布され、持ち帰り禁止で、すぐに回収されたのだった。そこには、“私清水は天田らによって重要な党内組織問題を知らされず、関連レポート類が回されてこなかった、私清水は天田らにいいように利用された、そのことを自己批判する’といった驚くべき内容が綴られていたそうである。
 カクマルによる本多延嘉書記長虐殺後、政治局と全党を率いてたたかい、長年にわたって議長を務めてきた者が、そのような文言をよくも書けたものである。この間の犯罪的な組織問題は第7回大会一つをとっても明らかなように、議長清水の責任に発し、そこに帰せられるものではないのか。革共同2019年問題の最高の組織責任を一身に引き受けなければならないのが、議長たる者の振る舞いではないのか。「知らされなかった」「利用された」などという議長はそれだけで、ただちに議長解任、処分され一党員に降格されるべきではないのか。
 そんな清水を議長に再任したという一点で、26全総はとんでもない階級的犯罪の上に超ド級の階級的犯罪を重ねる破廉恥会議だったのである。議案と新人事案に賛成した全国委員は、救いようのない没主体的な奴隷根性の持ち主、裏返しの官僚主義者である。革共同を名乗る資格などないこと、反帝国主義・反スターリン主義の思想を汚すだけの存在であることを知るべきである。その一方で、少数ながら反対した全国委員がいたそうであるが、彼らがなぜ反対したのか、党内で主張できる状況なのだろうか。
 付言すれば、その後、26全総で回収された清水文書を全党回覧にせよという要求が出され、議長の総括=自己批判文を出せという声も挙がっているようである。当たり前である。清水、田中(松丘)、新書記長・秋月は、なぜその声に応えようとしないのか。

 上記について詳しくは、下記を参照されたい。
「破廉恥、あまりにも破廉恥なり‼ 革共同26全総 Ⅰ)自浄力ゼロの革共同中央派」

https://blog.goo.ne.jp/shiren-shinsayoku/e/083118c7ce6d87deee162bcaa87a560a

「同 Ⅱ)組織ぐるみの女性差別犯罪と国鉄労働運動破壊の事実を隠蔽してはならない」

https://blog.goo.ne.jp/shiren-shinsayoku/e/4cb11309bb4d9b01486af777c392b057

「同 Ⅱ)組織ぐるみの女性差別犯罪と国鉄労働運動破壊の事実を隠蔽してはならない(続)

https://blog.goo.ne.jp/shiren-shinsayoku/e/1c585b9ae84715d482f546f12ac1b6ba

 

【2】共産主義思想と革命の綱領を最後的に投げ捨てた「社会変革運動」路線

●「労働運動も学生運動も社会変革運動」

 革共同2019年問題――国労共闘解体・国労敵視、組織ぐるみの性暴力容認、それによる政治局崩壊――を組織的・個別的に何ら自己批判せず、教訓化しようとしない中央派の頽廃は、思想と路線の面で顕著な変質=階級移行を示している。その画期をなすのが2020年夏季アピールである。

 夏季アピールの第1の犯罪性は、革共同として「社会変革運動」を綱領的路線とすることに踏み切ったことである。
 その第5章の見出しは「今秋11・1労働者集会を社会変革運動の出発点に」というものである。すなわち、中央派は11・1を出発点として新しく社会変革運動を進めると表明したのである。そして、「11・1労働者集会への総結集を、国境を越えた労働者連帯運動、社会変革運動としてかちとろう」としている。
 その社会変革運動についての積極的な規定は何もない。
 だが、春季アピールでうち出した「階級的労働運動の四つの課題」が具体的な社会変革運動のようである。四つとは、「医療労働者を守りぬくこと」、「合同・一般労組全国協議会を先頭に労働組合に組織化すること」、「労働者階級の決起で改憲・戦争を阻止すること」、「国鉄闘争勝利を掲げ階級的労働運動をよみがえらせること、国鉄闘争と一体で関生弾圧を完全粉砕すること」とされている。
 そしてその四つの課題は、「新自由主義と対決する力をつくりだすたたかい」ないし「新自由主義を打倒する階級的労働運動復権のたたかい」であるという。たしかに「四つの課題」は切実な運動の課題であるが、そのままではプロレタリア革命の戦略路線に練り上げられていない。
中央派が唱える「新自由主義との対決・打倒」とは資本主義打倒ではない、すなわちプロレタリア革命を意味しないという点が、夏季アピールの勘所なのである。
 これを要するに、社会変革運動とは、新自由主義と対決するないし打倒するものとして性格づけた階級的労働運動のこととなる。換言すれば、階級的労働運動は新自由主義とたたかうものであって、資本主義打倒・帝国主義打倒には至らない社会変革運動だというのである。かくして中央派は、夏季アピールをもって階級的労働運動に社会変革運動という規定性を与えたのである。 
 関連して、今年8月の中核派全学連大会への中央執行委員会アピールでは、次のような文言が連なっている。

社会揺るがす学生運動を/全学連は1948年に設立されて以来、日本の社会変革の重要な一角を担ってきました。……それぞれは弱い個の力を団結した大きな力として発揮し、社会を変革していくという全学連が果たすべき役割……。……全国規模でこの「学生の社会的力」を復権させることです。」(『前進』第3156号、8月20日付)

 つまり、学生運動を「学生の社会的力を復権させる運動」「社会を揺るがす運動」と枠づけ、それもまた社会変革運動であると規定したのである。全学連中執アピールが正直に唱えているように、社会変革運動とは現帝国主義社会の中で一定の社会的力をもった運動、帝国主義打倒あるいは資本主義社会転覆にはいたらない、社会をただ揺るがす運動ということである。権力奪取の革命とは無縁のものだということである。
 実際、夏季アピールでは、「革命」という表現がほとんどなくなっている。「労働運動の力で革命を」「ゼネストで革命を」といった無内容な常套句がなくなったのである。まして「帝国主義」および「帝国主義打倒」あるいは「資本主義打倒」のことばは基本的に追放されている。そのことは、今年の1・1アピールや春季アピールと読み比べても、非常に顕著である。
 このように、中央派が新たに唱えだした「社会変革運動」なる路線は、資本主義打倒・帝国主義打倒とはまったく一線を画した“永遠の体制内変革運動”なのである。

●清水式新自由主義論は帝国主義打倒からの逃亡

 夏季アピールの第2の犯罪性は、「社会変革運動」が対象とする新自由主義について、清水が「最末期帝国主義の絶望的延命形態」と規定(『革共同50年史』序章)したのであったが、それを維持しつつ、一層経済主義的に平面化し、資本主義概念・帝国主義概念から切り離して「新自由主義」を自立化=全面化させたことである。どういうことかというと、実践的には、自立化した新自由主義を打倒することは、資本主義・帝国主義の否定ではなく、むしろ本来の資本主義、本来の帝国主義に戻すということを意味する。それが中央派の社会変革運動なのである。
 次の驚くべき文章を見てほしい。

「新自由主義は、1930年代のニューディール政策以来の国家独占資本主義政策(国家による独占救済、一定の労働者保護、社会保障制度などによる予防反革命政策)を放棄し、労働組合を破壊して労働者階級から団結と抵抗力を奪い尽くそうとする攻撃として始まった。」

 そもそも、新自由主義とは、第一に、アメリカを始めとする現代の帝国主義が採る一つの複合的な内外政策体系であり、その政策原理にすえられた帝国主義的経済イデオロギーのことである。ケインズ型財政金融政策に対して、ハイエク=フリードマン型財政金融政策が新自由主義政策である。第二に、帝国主義支配下で歴史的に形成されてきた階級的力関係を国家・資本にとって一方的に優位にするための強権的な労働組合解体、反体制運動破壊の反革命である。第三に、いわゆるグローバリズムである。アメリカ帝国主義の世界支配を強化・拡大せんとする現代的な植民地主義的侵略であり、それへの他帝国主義の対抗も含めた、国家によって武装された資本の中国などアジア、アフリカ、中東、ラテンアメリカ、旧東欧スターリン主義圏への大規模な地球的規模での資本投下=侵略である。
 すなわち、新自由主義的政策は、1980年代以降、危機に立つ帝国主義が採用した新たな国家独占資本主義的内外政策ということができる。もともと国家独占資本主義的政策は、その歴史的二大典型であるナチス経済政策とニューディール政策がそうであったように、必ず戦時体制をベースとしており、あるいは戦時体制=核戦争体制を必然化するのであり、その最後のことばは帝国主義戦争・侵略戦争だということを踏まえなければならない。新自由主義的政策もまた戦時体制=核戦争体制と一体なのである。これが新自由主義の第四の規定である。

 総括的に規定するならば、現代資本主義は帝国主義段階のままではあるが、資本主義が体内にもつ剰余価値最大化主義をむき出しにしてその歴史的限界点で七転八倒している。今日の帝国主義のくり出す矛盾だらけの政策展開としてのいわゆる新自由主義は、機能不全の金融資本による本源的蓄積運動の全世界的な絶望的くり返しであるととらえることができよう。(『革共同政治局の敗北 1975~2014』序章第3節を参照されたい。)

 前出の夏季アピールのフレーズに戻ると、「国家独占資本主義政策を放棄したのが新自由主義である」として新自由主義を批判するとは、一体どういうことか。驚くべきものいいではないか。まるで清水・中央派は、“国家独占資本主義政策の方が新自由主義より善である”“国家独占資本主義的政策に戻せ”といわんばかりではないか。
そもそも国家独占資本主義的政策や新自由主義的政策のとらえ方が極度に一面的、平面的であり、根本的に経済主義の立場からしか見ていないのである。
やはり、清水による「新自由主義は最末期帝国主義の絶望的延命形態」という規定が犯罪的誤りだというところに、一切の原因がある。清水式「最末期の絶望的延命形態」論は、実質的に、新自由主義とは帝国主義が終った、その次の段階というものなのである。
 以上のことから、レーニン=本多延嘉帝国主義論を否定し、帝国主義概念を追放し、帝国主義打倒から逃亡したものが、清水・中央派の新自由主義論の正体であることが明らかであろう。

●排外主義と反共主義の中国脅威論に転落

 夏季アピールの第3の犯罪性は、現在の世界を米中対決図式で単純化してしまっていることである。それは、かつて破産した体制間矛盾論の焼き直しでしかなく、あまりにもお粗末である。
 アメリカ帝国主義の世界支配とその危機的展開がまったく蒸発してしまっている。
 そして、米欧間、ドイツ・フランス・イギリス間、米日間の帝国主義間争闘戦が抹消されてしまっている。とりわけ米日帝国主義間の争闘と同盟の問題がまったくないというのは、これまた驚くべきことではないか。日米安保体制とその要であり根幹をなす沖縄核基地増強・固定化、辺野古新基地建設攻撃がまったく不問に付されてしまっている。構造的沖縄差別としての日米安保体制が免罪化されているのである。

 清水・中央派の単純極まる米中対決論は、他方で、中国の国家・社会および中国共産党にたいする革共同本来の分析=批判の地平にまったく無知なものである。反帝・反スターリン主義の綱領的立場からの中国論とは無縁なものに成り果てているのである。

 毛沢東主義としての中国スターリン主義の成立とその歴史的大破産、それに替わる鄧小平主義体制の矛盾的展開、その改革・開放路線による危機蓄積の構造化、ソ連スターリン主義崩壊にともなう自らのスターリン主義的成立条件の根幹的崩壊、一方での大中華主義・漢民族中心主義の凶暴化による諸民族抑圧体制、他方でのそれと表裏一体の6・4反革命暴力体制、それらにたいする絶えざる農民反乱、都市部での労働者の反乱、すなわち中国共産党官僚主義独裁と帝国主義侵略資本および日本帝国主義の歴史的侵略犯罪への中国労働者・農民・諸民族人民の歴史的決起の成熟化が、今日の中国の国家と社会を規定しているのである。
 だが、中央派はこれまで、中国を「残存スターリン主義」と呼び、何の分析も内容規定もしてこなかった。その残存スターリン主義論は中央派的低水準の象徴でもあった。
 今回の夏季アピールでは、中国論のその無内容性を引き継ぎつつも、大きな変化がある。
 次の文言は、記念碑的なものといえる。

「米帝の対中政策は、中国の現体制(残存スターリン主義=共産党政権)の転覆を目標とする徹底的に非妥協的なものだ。……「われわれが共産主義の中国を変えなければ、中国がわれわれを変えるだろう」というポンペオの言葉は、その非妥協性を公然と表明したものだ。」
「「一帯一路」戦略を展開し、「中国製造2025」計画で製造強国化を宣言した中国・習近平体制は、没落・衰退を深め世界支配力を喪失しつつある米帝にとって、もはや手なずけることも利用することもできない脅威、たたきつぶすしかない「敵」だということが、今や米帝支配階級の共通認識となったのだ。」

 この中国論はほとんどカクマルと同じである。カクマルはしばしば、帝国主義者やそのイデオローグのことばを引用して、それに乗り移るのであるが、今や中央派もトランプやポンペオに乗り移って、中国は米帝にとって脅威であり、共産主義の中国は敵だと、何の批判的注釈もつけずに唱えているのである。これはもう、排外主義的・反共主義的な中国脅威論そのものではないか。中央派はついにそこまで堕落しきったのである。

●清水と田中の再任こそ党的腐敗の極致

 夏季アピールの第4の犯罪性は、革共同2019年問題を何一つ切開せず、自己批判も教訓化もしていないことである。何よりも清水および田中(松丘)の再任=信任が、組織問題隠ぺい構造の一層の強化となっているのである。
 第5の犯罪性は、とりわけ山梨による性暴力問題とその自己批判的克服について、「党規律」と「組織変革運動」にすり替えてしまったことである。なかでも山梨の糾弾・追及、山梨擁護の張本人・黒川の糾弾・追及がすっかり放棄されたことは、女性解放闘争のさらなる蹂躪以外の何ものでもない。
第6の犯罪性は、「党と労働組合の一体的建設」論をまったく自己批判しておらず、なし崩し的に「労働組合と党との正しい緊密な関係づくり」論を持ち出したことである。それは、本多組織論を実践することは「大変な努力を必要とする」という強調と一体なのである。事実上、本多組織論――プロレタリア独裁実現のための組織論――は実現不可とし、これを否定するものである。本多組織論の精華は「レーニン主義の継承か、レーニン主義の解体か」「革命闘争と革命党の堅実で全面的な発展のために(『前進』646号論文)」などにあるが、清水・中央派はそれを無視・抹殺したくてしかたがないのだ。
 その他にもあるが、ここでは略する。
 いわば「社会変革的経済主義者同盟」と自らを表明した清水・中央派の犯罪性は隠しようがない。

●本多思想への敵対

 総じて夏季アピールのもっとも根深い犯罪性は、本多思想の否定、排斥、敵対が顕著となっていることである。
 もとより、本多思想とは、1957年以来、画期的には1959年以来の本多書記長を文字通り先頭とする革共同全体の死力を尽くした理論と実践がつくり出したものであり、本多書記長一人の営為に帰せるものではない。革共同に結集した労働者、学生、被抑圧民族、被差別人民の豊かで壮絶なたたかいなしに、本多延嘉の存在もまたなかった。
 「本多思想」という表現はこれまでにも使われてはきたが、あまりとらえ返されてこなかった。それがなぜなのかは、ここではひとまず措くが、1950年代、60年代、70年代の日本革命運動の歴史を総括、検証するならば、“現代の共産主義思想としての本多思想”は特筆され復権されてしかるべきであると考える。
 本多思想とは何かを一言で語ることは不可能であるが、あえて端的にいえば、「戦争と革命の基本問題」(1972年6月、『本多延嘉著作選』第2巻所収)に本多思想の核心と精華があるのではないだろうか。それは本多暴力論とも呼ばれてきた。

「……以上の点によって、まさに革命戦争は、正当性、進歩性、必然性をもっているのであるが、しかし、革命戦争のもっとも偉大な意義は、社会主義を達成し、人類の解放をかちとる準備としてそれが遂行されることであり、戦争をなくす戦争、軍備をなくす武装という人類史上かつて例を見ない決定的意義をもったものである、ということである。全人民の武装は、過渡期の労働者国家、プロレタリア独裁国家に照応した制度であり、反革命の抵抗と反革命の干渉戦争を粉砕し、プロレタリア世界革命を遂行する武装力であり、社会主義にむかっての生産手段と労働力の社会的配分と管理、生産物の管理と配分、ブルジョア家族制度の解体と新しい生殖関係の形成を保障する暴力的保障であるばかりでなく、同時に、反革命のせん滅、人民の自己改造をとおして暴力を共同意志の形成と自己規制という完全に人間的な力にたかめていく決定的水路としての意義を有しているのである。」(「戦争と革命の基本問題」第3章 暴力革命・内乱・蜂起・革命戦争(三)革命戦争の基本的特徴(4)戦争を消滅する戦争)

 この文章は、生きた現実の共産主義思想を表現したものといえよう。まさに、共産主義=世界革命=プロレタリア暴力革命なのであり、それ以外にはありえないのである。
 それに照らすと非常に鮮明となるが、夏季アピールとそこでの「社会変革運動」論は、清水・中央派が共産主義思想とプロレタリア革命の綱領を放棄したことを最後的に表明するものである。それは本多延嘉の理論と実践、そこに凝縮される革共同の歴史的全営為から逃亡したものなのである。すなわち、本多思想への敵対――これが清水・中央派が最後に選択した道なのである。

【3】結語/清水には若き日の革命家の原点を想起できるか

 かくして、革共同2019年問題、すなわち組織ぐるみの女性差別犯罪と国鉄労働運動破壊という重大な組織問題の真相はなお隠蔽されたままである。したがってまた、その政治組織責任も結局は隠蔽され続けているのである。
 
 「革命的共産主義者」の名をこれ以上汚さないために、清水丈夫に問う。
 ある時、複数のメンバーとの会話の場で、清水が語ったことがあった(記憶にもとづくものだから、もちろん正確ではないが、はっきりと記憶しているフレーズがあり、それを記す)。

『清水:オレは60年安保闘争敗北の後、苦しんだ時期が続いた。そのときは、国鉄の電車を使う際、プラットホームの前方というか端に立つのが怖かった。電車がホームに入ってきたら、思わず線路に飛び込むじゃないか、このまま身体が勝手に自殺するように動くんじゃないかという恐怖に襲われた。だから、いつもホームの端を歩かないようにし、ホームの中ほどに下がって電車を待ったのだった。
 プロレタリア通信派を結成したものの、党建設とは何かを模索し、レーニン『なにをなすべきか』の学習会をやり始めた。だが、プロ通派をどうするか、オレは行き詰まった。ブントの多くが革共同に加入していったが、その中でオレは最後の方だった。
 黒田寛一は、オレをブント急進主義者の典型と見て、嫌っていた。それはわかっていた。そういうときに、本多さんは黒田が反発するのがわかっていたのに、オレとの話し合いにきてくれた。本多さんがいたから、オレは革共同に来ることができたのだ。』

 同志であり、戦友であり、師匠であった本多延嘉から、清水は一体何を学んだのだろうか。
 清水は、革共同に結集してから、約1年半というもの、黒田寛一に無批判的につき従った。第三次分裂に際して、木下尊晤(野島三郎)から面と向かって厳しく批判され、黒田派であった己と訣別し、黒田派から本多派へと転換した清水丈夫。反帝国主義・反スターリン主義の綱領的立脚点、その思想と戦略・路線を体得せんと研鑽してきたはずの清水丈夫。
 その本多延嘉書記長がカクマルによって虐殺されるまで、常に本多書記長のもっとも近くにいて、その薫陶を受け、彼の深い苦悩と断固たる決断に接しながら、革命党とは何かを学びつつ、革命的共産主義者たらんとして自らを鍛えてきたはずの清水丈夫。
 清水には、革命家たらんとした若き日の原点を想起することが厳しく求められている。
 多くをいう必要はない。
 本多延嘉の遺訓をすっかり踏みにじり、戦友たちを切り捨て、若き日の自らを裏切った清水丈夫よ。友もなく、思想的・精神的にすっかり衰弱した清水丈夫よ。今日、ついに「社会変革的経済主義者同盟」に成り果てた革共同解散をただちに表明せよ。同時に即刻自ら引退せよ。
 総括も自己批判もできない清水には、それしかない。

2020年9月3日


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1 コメント

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支那が帝国主義だから仕方ないでしょう (ネトウヨ)
2020-09-21 00:36:00
あんた一体何に対してそんなに怒ってるんですか?
シミタケが帝国主義打倒から逃亡って、帝国主義を打倒する展望ってあるんですか
支那を残存スターリン主義と呼び何の分析も内容規定もしてないって
じゃああんたはまともな分析をしてるんですか
一番大事な事は、支那を資本主義と呼ぶ事でしょ
冷戦時代の話は置いとくとしても、今の支那についてはマルクス主義系のどの立場でも、つまり
マルクス主義でもレーニン主義でもスターリン主義でもトロツキー主義でも毛沢東主義でもローザ主義でも
帝国主義段階の資本主義国家だろ
それを言わないで支那をスターリン主義とかなんとか全部判断停止でしょうが
その点ではカクマルもシミタケも水谷保孝も全部同じ穴のムジナ
それともポンタだったらもっと気の利いた事が言えるのかな
支那は帝国主義国家で、アメリカ帝国主義と衝突しつつある
支那共産党はマルクス主義なんてとっくに捨てていて民族主義を国民をまとめる手段にしてる
支那は左翼全体主義国家じゃなくて右翼全体主義国家だよね
水谷保孝はこういう自明の事実が見えてない
で、社民主義から右の立場だと、支那帝国主義とアメリカ帝国主義では
どう見てもアメリカの方がマシだから、アメリカ側に集まって支那に対抗しようとなる
じゃあマルクス主義の公式の教義からはどうなるか
支那を含む全世界で世界同時プロレタリア世界革命を実現する
支那を含む各国の共産主義者は全て革命的祖国敗北主義で闘う、とこうなる訳だ
さあ街宣車に乗って、衆愚に向かって、マルクス主義の公式の教義を訴えましょう
書いてて指が浮いてきたぜ
口にすると歯が浮いてきて、聞いた人は耳が浮いてくるでしょうね
そもそも支那で共産主義革命を起こそうとする潮流なんてないから
パヨクは支那に利用されるだけの存在だ、つまり帝国主義の手先(ゲラゲラ
マルクス主義そのものが破産してるから
いくら正しいマルクス主義の教義を叫んでも空虚な言葉にしかならないんですよ
ネトウヨにマルクス主義について説教されるなんて恥ずかしいと思いなさいね
空理空論で革命だぁ
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