《試練》――現在史研究のために

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沖縄に「犠牲に耐え続けよ」と発言。父・裕仁以上に悪徳・卑劣な政治屋、沖縄差別主義者にして狡猾きわまるペテン師――天皇明仁の誕生日会見を弾劾する(その1)

2019-01-03 17:09:00 | 天皇制・右翼
沖縄に「犠牲に耐え続けよ」と発言。父・裕仁以上に悪徳・卑劣な政治屋、沖縄差別主義者にして狡猾きわまるペテン師――天皇明仁の誕生日会見を弾劾する‼(その1)



 
▲天皇メッセージを記したウィリアム・シーボルト(GHQ外交局長)の報告電文(沖縄県公文書館に所蔵)

 天皇明仁の誕生日会見については、すでに多くの方々が鋭く批判し、強い怒りを表明しています。誰もが感じたように、それはまさに、“朕は日本国家の頂点に立つ君主なるぞ、汝ら臣下に勅語を与えるぞ”というような高みから物申す、実に傲慢不遜なものです。最も根本的な問題は、第二次世界大戦とそこにおける日本の戦争に言及しながら、自らの父・天皇裕仁の超A級戦犯たる戦争責任・植民地支配責任・弾圧迫害責任を覆い隠していること、かつアジア人民・日本人民への謝罪の立場、その言葉の一かけらもないということだと思います。これは、とうてい許すことができないものです。
その会見の犯罪性はいくつもありますが、私がとくに指摘したいのは、沖縄に言及した下りです。
 そこで明仁は、戦後の日本が「平和と繁栄を築いてきました」と述べ、「そして昭和47年に沖縄の復帰が成し遂げられました。沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。……沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私ども(明仁と美智子のこと)の思いは、これからも変わることはありません」と語っています。
 この下りを聴いて、私は何と政治主義的な狡猾な発言かと思いました。

 第1に、明仁がこれまで沖縄について言及した他の発言と合わせてみると、「実に長い苦難の歴史」「耐え続けた犠牲」というのは、1972年(昭和47年)までのことを指しており、復帰以後の米軍基地の存続を不問に付し、この問題は含まれていません。つまり、明仁は「苦難」「犠牲」を過去形で語っているのです。現に沖縄に加えられている米軍基地存在、辺野古新基地建設の強要、普天間基地の居直り、さらには石垣島や宮古島への自衛隊基地建設など、現実の「苦難」「犠牲」には、明仁は“われ関せず”を決め込んでいるのです。明仁が沖縄基地問題について言及したことは、一度もないのです。一度も、です!
 つまり、明仁は、日米安保体制下の沖縄差別、構造的沖縄差別としての日米安保体制の生々しい現実を一貫して覆い隠しているのです。今も続く帝国主義アメリカと帝国主義日本が結託した沖縄植民地主義を開き直っているのです。
それでいながら、沖縄の「犠牲に心を寄せている」などと言うのは、あまりにも卑劣であるだけでなく、沖縄を今も、そしてこれからも徹底的に差別し、犠牲に供するのは前提だ、沖縄は米軍・自衛隊基地に甘んじよ、というに等しいではありませんか。

 第2に、そもそも琉球-沖縄に塗炭の苦しみを与え、数限りない死者をもたらした元凶は、琉球侵略を強行した島津藩―明治天皇制政府、そして第2次大戦において国体護持のために沖縄を「捨て石」とした父・裕仁ではないですか。明仁はこのことを百も承知なのに、まるで他人事であるかのような口ぶりで「沖縄の苦難の歴史」「沖縄の人々の犠牲」という言葉を使っています。これは、沖縄の苦しみが日本国家とその頂点にいた裕仁によってもたらされたものであることを塗り隠すための意図的な物言いです。
 この点で、裕仁によるアメリカへの沖縄売り渡し=沖縄差別である「天皇メッセージ」について、明仁が押し黙っていることは、とうてい許されないことです。
 よく知られているように、裕仁はマッカーサーらアメリカ政府に対して、宮内府御用掛・寺崎英成にメッセージを託す形で、「沖縄の将来に関する天皇の考え」として「アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望し」、「その軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の――25年から50年ないしそれ以上の――貸与をするという擬制の上になされるべきである」という提案をしたのでした(1947年9月19日)。さらに1948年2月にも重ねて、アメリカによる沖縄長期占領を求めたのでした。
 その歴然たる証拠がアメリカにあり、沖縄県公文書館に保管されています。そして、宮内庁編『昭和天皇実録 第十』(2017年刊)にも、前者のメッセージについては隠しきれずに事実として記されています。後者については隠蔽しています。
 この二つの天皇メッセージを、息子の明仁が知っていることは明らかなのです。裕仁はまさに他の誰も考えつかず、誰もなしえなかった沖縄差別の権化となって、時の政府の頭越しに、超法規的に動いたのであり(すでに日本国憲法は施行されている)、そのことが戦後のアメリカの対日政策、沖縄政策・日米安保政策の具体化に直結したのでした。
 沖縄の受ける差別と苦しみと悲しみの最悪の元凶こそ、天皇裕仁ではないですか。明仁がもし沖縄について語りたいなら、父の拭っても拭いきれない世紀の大悪行を真正面から謝罪することから始めなければならないのです。それがまったく何も無いとは! 何という極悪さか。明仁は父以上に悪徳・卑劣な政治屋だと言わなければなりません。


▲1972年7月17日、ひめゆりの塔に来た皇太子の眼前で火炎びん炸裂!

 第3に、明仁は、「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていく」と語っていますが、これは、天皇制に服わぬ(まつろわぬ)民、琉球―沖縄の人々を何としてもたぶらかそうとする狡猾なペテン以外のなにものでもありません。そもそも、沖縄に関してだけではなく、明仁が常套句のように使う「心を寄せる」というフレーズ、あるいは「祈る」というポーズこそ、労働者人民を一君万民の天皇制信仰に陥れるための武器なのです。次の「談話」を見てください。
「過去に、多くの苦難を経験しながらも、常に平和を願望し続けてきた沖縄が、さきの大戦で、わが国では唯一の住民を巻き込む戦場と化し、幾多の悲惨な犠牲を払い今日にいたったことは、忘れることのできない大きな不幸であり、犠牲者や遺族の方々のことを思うとき、悲しみと痛恨の思いにひたされます。……払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものでなく、人々が長い年月をかけてこれを記憶し、一人一人、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません。……」
 これは、1972年7月17日、初めての沖縄訪問において、ひめゆりの塔で火炎びんを投げつけられた明仁が、その夜、発表した談話です。この考え方が現在まで通貫されているのです。
 沖縄の「犠牲」「不幸」をもたらした元凶である裕仁と天皇制国家の罪をなかったこととしているのは、前述した通りです。明仁の「悲しみと痛恨」の中には、その天皇と国家の責任はいっさい入っていません。高みから“可哀そうな民よ”といっているだけなのです。
そして、沖縄の犠牲を「記憶し」、「深く内省し」、「心を寄せ続けていく」主体は誰あろう、人々つまり「汝ら臣下」なのです。文意上は「心を寄せる」中に天皇自身も排除されているわけではありません。けれども、この本意は、超階級的な権威として天空に位置する明仁が、臣下に向かって、いわば“哀れな沖縄の民を忘れてはならぬぞ”と、お説教を垂れているのです。
 この1972年の談話の延長線上に、今回の誕生日会見もあるわけです。ただ、ニュアンスとして、沖縄の労働者人民の不退転の基地反対の意志と運動への恐れが以前より強まっているのがわかります。皇太子時代の傲慢さ、尊大さのままでは通用しないという、政治屋としての嗅覚が働いているといえるでしょう。
 いずれにせよ、明仁の「心を寄せる」というフレーズは、父・裕仁がなしえなかったこと、すなわち服わぬ民である琉球―沖縄の人々をいかにたぶらかすか、いかに懐柔するか、いかに天皇を神々しい権威として有り難がらせるか、の一点を追求するための小細工なのです。裕仁もかなりのペテン師でしたが、父が失敗した以上、父を上回るより狡猾なペテン師たらんとしているのが明仁だといっていいでしょう。
 繰り返しますが、父・裕仁の世紀の大犯罪である二つの天皇メッセージについて完全に沈黙を決め込み、謝罪の一かけらもない明仁の放つ言葉のどこに真実味、道義、真摯さがあるというのでしょうか。何もありません。あるのはただペテンだけなのです。トリッキーな小細工を弄するペテン師・明仁よ。その沖縄差別主義者たる正体はお見通しである。おのれの罪深さに恐れおののくがいい!
(つづく)

2018年12月29日
水谷保孝(みずたに・やすたか)



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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2020-04-04 08:14:34
天皇が政治に絡むような事が出来ない中で
言葉を選んでこのように発言された事を理解できない者が
好き勝手言えるこの国はとても平和だと思う
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Unknown (日本国民)
2022-10-24 01:10:44
黙れ。貴様は日本人ではないだろう。陛下にそのような口を叩くな。非国民が
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