Naked Heart

その時々の関心事をざっくばらんに語ります

過ちを繰り返さないために

2006年06月27日 00時14分30秒 | 時事・社会
靖国訴訟に関しては、昨日と一昨日の記事で一応終わりにするつもり
でしたが、1997年に最高裁が違憲判決を出した「愛媛玉串料訴訟」に
おける、尾崎行信裁判官の意見を、ぜひご紹介したいと思いまして、
もう一日引っ張らせていただきます。

「本件玉串料の奉納が金額も回数も少なく、問題とするほどのもので
はないと主張されており、これに加えて今日の社会情勢では、昭和
初期と異なり、もはや国家神道の復活など期待する者もなく、その点
に関する不安を杞憂に等しいとも言われる。しかし、われわれが自ら
の歴史を振り返れば、そのように考えることの危険がいかに大きいか
を示す実例を容易に見ることができる。人びとは大正末期最も拡大さ
れた自由を享受する日々を過ごしていたが、その情勢は、わずか数
年にして国家の意図するままに一変し、信教の自由はもちろん、思
想の自由、言論・出版の自由もことごとく制限禁圧されて有名無実に
なったのみか、生命身体の自由までも奪われたのである。『今日の
滴る細流がたちまち荒れ狂う激流となる』との警句を身をもって体験
したのは最近のことである。情勢の急変には10年を要しなかったこと
を想起すれば、今回この種の問題を些細なこととして放置すべきでは
なく、回数や金額の多少を問わず、常に発生の初期においてこれを
制止し、事態の拡大を防止すべきものと信ずる。
 さらに、わが国における宗教の雑居性、重層性を挙げ、国民は他者
の宗教的感情に寛大であるから、本件程度の問題は寛容に受け入
れられており、遺憾などと言ってとがめだてする必要がないとする者
もある。しかし、宗教の雑居性などのために、国民は宗教につき寛容
であるだけでなく、無関心であることが多く、他者が宗教的に違和感
を持つことに理解を示さず、その宗教的感情を傷つけ、軽視する弊害
もある。信教の自由は、本来、少数者のそれを保障するところに意義
があるのだから、多数者が無関心であることを理由に、反発を感ずる
少数者を無視して、特定宗教への傾斜を示す行為を放置することを
許すべきではない。」

これに先立つこと20年、'77年の津地鎮祭訴訟最高裁判決において、
当時の最高裁長官で、無教会の熱心なクリスチャンでもあった藤林
益三裁判官が、「地鎮祭は慣習化した社会的儀礼であり、宗教的効
果は薄い」との法廷意見に対し「神社神道の固有の祭式で行われて
おり、宗教的儀式であることは明らか。本件は極めて宗教的色彩が
濃い」との反対意見(他4名)を述べ、さらに「国家と宗教が結びつけ
ば、信教の自由が侵害される。少数者の宗教や良心は、多数決を
もっても侵犯されない」との追加反対意見も出しています。そして、
「夕暮れ時に、光がある」(ゼカリヤ書14章7節)という言葉を残した
と伝えられています。
今がどのような時代か、その中で私たちは何に目を向けるべきかが
問われているのではないでしょうか。