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「神道は宗教に非ず」か? 後編

2006年06月26日 00時44分04秒 | 時事・社会
そして最後に、「出ました」って感じの定番です。「神道は宗教に非ず」
当該記事のコメントの中には、こんな補足がありました。
「神道は宗教に非ずは私の発明ではなく旧憲法下の通説です。それ
は、禍々しい国粋主義だけではなくヘーゲルの絶対精神の歴史的
特殊な現実への具現という筋悪とはいえない哲学を根拠にしていま
す。このロジックは戦前カソリック教会も承認したもので、現在も(政治
的には拙かったにせよ)論理的に間違いとはされていません。要は、
宗教を社会学的に定義するのではなく法的に定義するとき我が神州
の憲法は神道をイデオロギーの中核として含んでおり、ならば憲法的
に内在する神道は20条-89条で問題になる「宗教」ではないという
ことです。」
ヘーゲルが何と書いたは存じませんが、それがこの文章を理解する
助けになるとは思いません。とにかく論理が滅茶苦茶。
「宗教」を「法的に定義する」と神道は「宗教ではない」のであれば、
なぜ神社は宗教法人格を取得できるのでしょうか。尤も、宗教法人
法は、宗教を定義づけてはいませんが。というより、権力者の都合で
特定の宗教に有利な定義づけがなされる場合以外に、法的な定義
が存在したためしはありません。
憲法が「イデオロギーの中核」として含むものは政教分離に触れる
「宗教ではない」なら、キリスト教も仏教も「宗教ではない」ことになり
ます。つまり「国教」という概念は否定されなければなりません。
にも関わらず、別の記事では「国教」を持つ国などの「緩やかな政教
分離」を引き合いに出し、政治の宗教への関与を正当化しようとして
います。 それに、この論理で行けば、イスラムこそ最も当てはまり
そうなものですが、それについては一切言及していません。言及でき
ない、と言ったほうがいいかも知れませんね。一緒にされると困るで
しょうから。
現憲法の「イデオロギーの中核」のどこに神道が含まれているのか、
全く明らかにされていません。もしそうなら、その憲法を変えようと
いう動きに対して批判を加えていただきたいものです。
カトリックだけでなく、後にはプロテスタントも仏教も受け入れました
が、激しい抵抗もありましたし、戦後は否定しています。「論理的に
間違いとはされていません。」というのは、定説ではなく、肯定派の
論理です。そのことは、御本人も「旧憲法下の通説です」とわざわざ
断わっていることからも明らかです。

細かい突っ込みはこの辺までにして、本質的な部分に入りますが、
松尾さんや彼に類する主張をする人々の一番の問題点は、自らの
「宗教とは何か」という定義を明らかにしていないことです。
「宗教ではない」ことの論証には熱心ですが、その他の宗教を宗教
たらしめているものは何か、ということには決して触れません。
「宗教ではない」神道にはそれが無いことを証明すれば、たちどころ
に問題は解決する筈なのですが、今日に至るまでそうなっていない
ところを見ると、定義づけは不可能なのでしょうね。ならば、「宗教で
はない」という認定も、到底できっこないわけです。
第二に、「公の宗教」論についてですが、こういう概念は「個の確立」
「個人の権利の完全な保障」があって初めて成り立つものです。
近代以前においては、宗教とは集団・公のものでしかありませんで
した。個人の信教の自由の芽生えが「個」と「公」の二項対立を生む
のですが、そこで「個」を優先させるというのが近代法の精神であり、
それを保障する制度が政教分離です。西洋近代思想をスタンダード
とする・しないは自由ですが、松尾さんは一方でそれを認める発言
もしていますから、日本の「前近代性」を誇っているようにしか見え
ません。まあ、神社神道も基本的に「個」の宗教ではありえないの
で、釣り合いは取れてますけどね。
第三に、「権利とは少数者を守るためのものだ」という視点が完全に
欠落した、多数者の論理に終始している点も看過できません。結局
このような主張をする人たちは、異なる意見を持つ少数者を「異端」
「キチガイ」扱いして、「サヨク」などとレッテルを貼って、見下して、
優越感に浸ることでしか自分を保てない人たち(それ自体、ある意味
宗教的ですらありますが)の手助けをしてるに過ぎないのですが、
それで満足なのでしょうか。

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