竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

福澤諭吉 学問のすすめ 其の一

2022年08月25日 | ことばのちから
令和4年8月25日(木)
お早うございます。

今日は、「福澤諭吉 学問のすすめ」を紹介いたします。

明治24年(1891年)頃の肖像
福沢 諭吉(ふくざわ ゆきち、旧字体:福󠄁澤 諭󠄀吉、天保5年12月12日〈1835年1月10日〉 - 明治34年〈1901年〉2月3日)は、幕末から明治の日本の、武士、啓蒙思想家、教育者。
慶應義塾の創設者。

<学問のすすめ>
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。
 されば天より人を生ずるには、
 万人は万人みな同じ位にして、
 生まれながら貴賤(きせん)上下の差別なく、
 万物の霊たる身と心との働きをもって
 天地の間にあるよろずの物を資とり、
 もって衣食住の用を達し、
 自由自在、
 互いに人の妨げをなさずして
 おのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。
 されども今、
 広くこの人間世界を見渡すに、
 かしこき人あり、おろかなる人あり、
 貧しきもあり、富めるもあり、
 貴人もあり、下人もありて、
 その有様(ありさま)、
 雲と泥(どろ)との相違あるに似たるはなんぞや。」

つまり「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」というけれど、現実には「雲と泥」の差ほどに、人には差があると諭吉は述べています。
ただ平等という建前や能書きではないのです。
その違いにはどのような意味があるのでしょうか。


「その次第はなはだ明らかなり。
 『実語教(じつごきょう)』に、
 「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。
 されば賢人と愚人との別は
 学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。
 また世の中に
 むずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。
 そのむずかしき仕事をする者を
 身分重き人と名づけ、
 やすき仕事をする者を身分軽き人という。
 すべて心を用い、
 心配する仕事はむずかしくして、
 手足を用うる力役(りきえき)はやすし。
 ゆえに医者、学者、政府の役人、
 または大なる商売をする町人、
 あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、
 身分重くして貴き者と言うべし。」

つまり本来、人は対等な存在ではあるけれど、社会的分業を営むに際して、人には責任の軽重が発生すると諭吉は説いています。
「責任 」の重さなのです。
そして責任の重さと権限の範囲は等しいものになります。


「身分重くして貴ければ
 おのずからその家も富んで、
 下々(しもじも)の者より
 見れば及ぶべからざるようなれども、
 その本もとを尋ぬれば
 ただその人に、
 学問の力あるとなきとによりて
 その相違もできたるのみにて、
 天より定めたる約束にあらず。
 されば前にも言えるとおり、
 人は生まれながらにして
 貴賤・貧富の別なし。
 ただ学問を勤めて
 物事をよく知る者は貴人となり富人となり、

要するに責任の重さは、学問の力の有無によって生じるものであって、それは天から与えられた約束ではない、人にある差異は、その人の働きに与えられたものなのだ、というわけです。
では、そもそもその「学問」とはどのようなものをいうのでしょうか。
学校の成績のことでしょうか。
 


文久2年(1862年)、パリのフランス国立自然史博物館にて撮影)東京大学史料編纂所蔵

次回へ続く!
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