竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

深溝松平家

2014年09月30日 | 十八松平家
十八松平家・・・平成25年10月16日
竹谷松平家・・・平成25年10月26日
安祥松平家・・・平成25年11月16日
形原松平家・・・平成26年 1月 2日
大草松平家・・・平成26年 2月25日
五井松平家・・・平成26年 4月16日

 今日は、深溝松平家を紹介いたします。
深溝松平家(ふこうず まつだいらけ、もしくはふこうぞ まつだいらけ)は、松平忠定を祖とする松平氏の分枝。十八松平の一つ。先祖を松平信光まで遡ると徳川家康と共通の祖となる家である。


<起源>
大永4年(1524年)、五井松平元心が宗家松平長親の命により額田郡深溝城主・大場次郎左衛門を討ち獲るが、元心の戦功を譲られた弟・松平忠定によって深溝松平家は発足されたという。
一方で、島原本光寺の説によると、岩津松平親長の娘と婚姻してその所領を譲受し発祥させたというが、真偽のほどはわからない。

<戦国時代から安土桃山時代>
その後も深溝城主であり続けた。2代大炊助好景、3代主殿助伊忠は徳川家康の岡崎城での独立期から「善明堤の戦い」などで働きを示し続けた。4代主殿頭家忠は酒井忠次の指揮下に組み込まれるが、「長篠の戦い」などで功を挙げた。
天正8年(1590年)、徳川家康の関東移封では、4代家忠が武蔵忍藩1万石として入封している。しかし慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦であった「伏見城の戦い」において、守将・鳥居元忠の副将格として伏見城で籠城玉砕している。
3代伊忠以来、主殿助(4代家忠からは主殿頭)の通称を用いていたため、松平主殿家とも言われる。

江戸時代
慶長6年(1601年)、関ヶ原での戦勝により家忠の子・松平忠利は、念願であった三河の旧領復帰が叶い三河深溝藩1万石となった。ところが、慶長17年(1612年)3万石に加増された上で同吉田藩へ移った。

松平忠房の代に三河刈谷藩、丹波福知山藩と転封を続け寛文8年(1668年)6万5,000石で肥前島原藩に入った。寛延2年(1747年)下野宇都宮藩戸田忠盈と入れ替わりで移封。安永3年(1774年)再び宇都宮藩と入れ替わりで島原藩に入り、以後8代にわたって支配し明治維新を迎える。維新後、子爵。

本光寺(ほんこうじ)深溝松平家代々の墓


本光寺(ほんこうじ)本堂と梵鐘

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