竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

7月6日今日は何の日 零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の初試験飛行を開始

2021年07月06日 | 日本の歴史
令和3年7月6日(火)
お早うございます。

<7月6日今日は何の日>
1939年 - 大日本帝国海軍が零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の初試験飛行を開始。

ソロモン諸島上空を飛行する零戦二二型 UI-105号機
(第251海軍航空隊所属、1943年撮影、)

 零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)は、第二次世界大戦期における日本海軍の艦上戦闘機。略称、零戦(ぜろせん、れいせん)。
試作名称は十二試艦上戦闘機。(略称は十二試艦戦)。


 投入された日中戦争から太平洋戦争初期にかけ、3,000 kmの長大な航続距離・20mm機関砲2門の重武装・優れた運動性能で、米英の戦闘機に対し優勢だったが、大戦中期以降は、アメリカ陸海軍の対零戦戦法の確立、F4UコルセアやF6Fヘルキャットなど新鋭戦闘機の投入で劣勢となるも、後継機烈風の開発が遅れたことにより終戦まで日本海軍航空隊の主力だった。格闘戦を重視した軽量設計であったが、戦闘爆撃機や特攻機としても使われた。
 開発元は三菱重工業(以下「三菱」)。三菱に加え中島飛行機でもライセンス生産、総生産数の6割以上は中島製である。生産数は日本の戦闘機では最多の1万機以上。

復元された「零式艦上戦闘機六二型」


茨城県龍ケ崎市の飛行場上空を飛行する、三菱重工が製造した「零式艦上戦闘機22型」(2017年6月9日撮影)。

<ゼロ戦開発秘話>
 ゼロ戦が初めて日本海軍に制式採用(装備として正式に採用)されたのは皇紀2600年こと。
昭和15年で、西暦1940年のこととなります。
皇紀とは、日本の初代天皇とされる神武天皇が即位した年を皇紀元年とする暦の数え方で、戦前は今の西暦と同様の役割を持ち、広く日本に普及していました。
 海軍では、兵器を制式採用した年の下2桁を航空機の名称とする慣例があったために、皇紀2600年の採用であることから、零式艦上戦闘機、すなわち零式と命名されました。
なお、皇紀2599年に制式採用された、日本を代表する爆撃機の名称は、九九式艦上爆撃機と言います。
 この時代はまさに、日本は対米英との戦争に踏み切るのか、和平を模索するのかという緊迫した時代。
その一方で、中国大陸では日本は中華民国と日中戦争で激しい戦争を繰り広げている最中であり、中華民国は米英ソ連などから武器や兵器、弾薬や将校による戦争指導の支援を受けるなどしていたことから日本は大変な苦戦を強いられていました。
 特に中国内陸部への爆撃任務を行っていた九六式陸上攻撃機は、ゼロ戦の誕生以前、日本海軍には航続距離の短い戦闘機しか存在しなかったことから護衛戦闘機無しで中国大陸奥地まで爆撃任務につくことが多く、結果として撃墜されることが多くなるなど、被害を累積させて行きました。
そのような時、日本海軍から三菱の堀越二郎氏に出されたのが、新型戦闘機の開発要請。
 すなわち、格闘戦(戦闘機同士の戦闘)に強い強力な武装、日本から離陸して中国大陸の奥地まで爆撃機の護衛任務につき、しかも帰還できる長大な航続距離、旋回性能などの常識はずれな運動性能などを要求する、当時の日本では実現不可能とも思われた戦闘機の開発要請です。
当然のことながら、強力な武器を搭載すれば機体は重くなり航続距離と運動性能が犠牲になります。
逆に航続距離や運動性能を高めるためには機体を軽くする必要があるため、重武装など詰めるはずがありません。
しかも当時、日本には強力な航空機用のエンジンがなく、欧米の航空機に比べエンジンの出力は技術的に極めて劣っており、欧米の戦闘機と互角に戦うだけの出力も速度も機体できないことから、そもそも格闘戦で敵戦闘機を一撃必殺にする、重武装を積むというだけでも無理筋の話でした。
このような日本海軍からの無理筋な要請に、三菱の主任技師だった堀越二郎氏はどのように応えたのでしょうか。
それは、「全ての防御と耐久性を犠牲にすること」でした。
すなわち、出力的に劣ったエンジンで航続距離を叩き出すために機体重量を極限まで軽くすること。
これはもちろん運動性能の向上とイコールになります。
そして機体を極限まで軽くした分、敵の軍用機を一撃必殺にできる強力な重武装も搭載できるようにすること。
このような答えを用意して、新型戦闘機の設計・開発に取り組みました。
そしてこの回答から産まれた戦闘機が「ゼロ戦」。
当然のことながら、敵の攻撃に対する防弾設備など一切ありません。
それどころか、戦闘機の骨組みに至るまで穴を開け機体の軽量化をg単位で追求した結果、戦闘機本体の耐久性も非常に脆弱なものとなり、水平方向の運動性能(旋回)は極めて優秀なものでした。
しかし、垂直方向(上昇・降下)の荷重に耐えられない機体となり、急降下時には主翼がもげるなどしたため、敵との戦闘中であっても、急降下による攻撃・離脱が出来ない機体となりました。
もちろん、防弾性能がないことから敵の機銃弾が主翼をかすめただけでも火だるまとなり、またパイロットの座席背後にすら防弾板もないため、一度敵に背後を取られたら最後、確実に撃墜される極めて極端なスペックの機体となりました。
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