竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

西福釜松平家

2019年01月10日 | 十八松平家
平成31年1月10日(木)

今日は、西福釜松平家を紹介いたします。
<今までの投稿>
十八松平家・・・平成25年10月16日
竹谷松平家・・・平成25年10月26日
安祥松平家・・・平成25年11月16日
形原松平家・・・平成26年 1月 2日
大草松平家・・・平成26年 2月25日
五井松平家・・・平成26年 4月16日
深溝松平家・・・平成26年 9月30日
能見松平家・・・平成27年 7月 8日
長沢松平家・・・平成27年10月 2日
大給松平家・・・平成28年 3月29日
滝脇松平家・・・平成28年11月12日
福釜松平家・・・平成29年 4月12日
桜井松平家・・・平成29年 6月30日
東条松平家・・・平成29年10月17日
藤井松平家・・・平成30年1月22日
岩津松平家・・・平成30年 8月17日

西福釜松平家(にしふかままつだいらけ)は、松平親忠の子・親光を始祖とする松平氏の庶流。鴛鴨城主(現在の愛知県豊田市)だったことから、鴛鴨松平家(おしかもまつだいらけ)とも称される。

親光は親忠の子とされるが、一説に信光の子ともされる。
親光、親康、親久と続き、4代目の忠久の時に徳川家康の命令で西尾城主・酒井正親に属し、子孫は酒井氏の家老となる。

永禄6年(1563年)の三河一向一揆では親久・忠久父子は徳川軍の一員として奮戦し勝利に貢献する。
だがその2年後に親久が死去し、鴛鴨城は廃城となった。




 鴛鴨(おしかも)城址は近くに高速道路が通り、周り一体が畑や水田に囲まれた所にあります。
東名高速の側道沿いの田んぼの真ん中にある城跡は全国を探しても鴛鴨城址だけだそうです。
場所は愛知県豊田市鴛鴨町にあり、城跡の近くには東名高速と東名上郷サービスエリア、他に愛知環状鉄道の永覚駅(無人駅です)とトヨタ自動車上郷工場がある工業と交通の盛んな所です。
愛知環状鉄道、永覚駅から10~15分くらい東名高速の側道に向かっていくと、近くに「鴛鴨城址」と言う看板が目に入ります。

 鴛鴨の歴史は古く、縄文時代から集落がある地区です。
鴛鴨町の周辺には縄文から弥生時代にかけての遺跡や古墳が集中的に分布しています。
鴛鴨(当時は押鴨)の地が公文書に出たのは奈良時代であったそうです。
地名の由来は諸説様々ありまして、「持統天皇が鴛鴨の地を訪れた際に2羽の鴨を見て感動して名づけた」と言う説、「鴛や鴨が多く生息していた」とする説、「鴨部の居住」説などがあり、詳しくは判らないそうです。

 この地に城を築城した人は松平家3代目当主の松平信光で、築城年代は応仁二年頃(1468年)と言われています。
城域は1500坪位で、丘陵地にあって水田や堀に囲まれた造りになっている、室町期によくある城郭であったそうです。
信光がこの地に城を築城した背景には、挙母(衣)一体に対する防衛拠点と補給中継点を築く目的があったと思われます。

信光は鴛鴨城を息子の親光に与えて守備させました。
ここで松平親光を祖とする鴛鴨松平家が分派しました。
鴛鴨城は、初代親光→二代親康→三代親久→四代忠久と続きました。

忠久の時代に起きた三河一向一揆の騒乱の時には、一揆側の上野上村城の酒井将監忠尚に対して、徳川家康は鴛鴨城、隣松寺を拠点に一揆勢と戦闘し、勝利を得ています。
その時には鴛鴨城はとても重要な拠点として機能し、鴛鴨松平家の奮戦が勝利を導いたと言っても過言ではありません。

一揆平定後は鴛鴨城は西尾城配下となり廃城となりました。
鴛鴨松平家の子孫は大名にならず、姫路藩の重臣や西尾藩の重臣になったそうです。

 その後、碧海郡鴛鴨村は岡崎藩(愛知県岡崎市)、重原藩(愛知県知立市、刈谷市)、大多喜藩(千葉県)、菊間藩(千葉県)、沼津藩(静岡県沼津市)、幕府領などの給地となりました。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 平成31年蒲郡商工会議所新年... | トップ | 今日は何の日 上杉謙信が武... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

十八松平家」カテゴリの最新記事