
『花嫁』
どこにも想像するような花嫁のイメージがない。美しくも初々しくもなく、羞恥も歓喜もない。工場の機械的な部位にしか見えないが、よく見ると不完全な接合であり、生産的な意図がくみ取れないのである。
プロセスの基点、流動、結果の答えが宙に浮いている。それらしく見えるがそれである確証はすべて欠落している。なにかを想起出来そうで出来ない構成である。切断を暗示する鎌があったり、歯車らしき回転盤も見えるが、どこか不完全で力足らずの感じがする。
つまり無理に何かに結びつけようとすれば、それらしくはあるが、見つめる隙間からそれらしい意味は零れ落ちてしまう。
『花嫁』とは、結婚当日の、あるいは当初の女性である。花嫁と非花嫁(一般)との差異はどこにあるだろう。花嫁というからにはまだ肉体交渉以前を指すのだろうか。
花嫁の危うさは、確かにこの作品の強固に見えつつ意図して脆弱に施した構成に匹敵するかもしれない。
しかし、この作品のどこを見ても、花嫁である必然性が見えてこない。花嫁とは《彼女を見る側の美称》であれば、内実は幻であり、実体はないということだろうか。
ゆえに『花嫁』とは当人ではなく、周囲の側の観察により成り立つ美称であれば、言葉自体の存在は有るが、彼女と周囲の観察者のあいだに漂う不安定な呼称なのかもしれない。
デュシャンは、言葉と作図(創意)を綿密に考慮し、無に霧消するような空気感を凝視・探索している。
(写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク/TASCHENより)
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