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『自転車の車輪』
自転車の車輪、ただそれだけを椅子の上に掲げている。
「ここに意味はあるか?」
「ない!」
自転車のパーツである一個(片方)の車輪は、自転車であることの機能を果たせない。車輪を回せば見えないエネルギーの放出があるが、その連動が見いだせない。
円としての完結は空回りをするだけで存在の意味は皆無である。地に着いて有るべき車輪が空中に置かれている。適材適所の論理を著しく無視した配置は《無》の光景を見せるばかりであり、ここに見えるのは《意味の剥奪》に過ぎない。
では「意味とは何だったのか」と、問う。世界(心理・物質)との関係の位置づけだろうか。そして、その関係に歪を与えたならば、意味の意味たる所以を失うのだろうか。
否、意味はどこまでもついて回る。
ゆえに、この自転車の車輪には意味がある。有益(利便)を見いだせない一個の車輪は「意味がない」という観点において「見出す意味」を所有している。
思考には、積み重ねたデータを捨てることによって新しい思考が生まれるという作用を潜ませている。
つまり、否定の後の大いなる肯定である。
自転車の車輪の無為は、象徴でさえあり得る(かもしれない)。
(写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク/TASCHENより)
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