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続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

デュシャン『階段を降りる裸体No2』

2016-07-28 06:34:34 | 美術ノート

 『階段を降りる裸体No2』

 裸体名付けられているから裸体なのかと思う図であり、降りる→連続性によって落下をイメージさせている。

 肉体を感じない裸体と称するものは、猥褻の片鱗すら浮上しない。
 階段は室内にあリ、その中の裸体は非文明でもなく、犯罪にも遠い。

 このどこか無機的な情感を排除した作品の意図は何だろう。
 「階段を降りる裸体」を、言葉だけで想起した場合、上る場合に比べたら、少なくとも《こちら》へ向かって来る方向性を感じる。しかし画は、それすら横向きであり、反れている。
 作品の題名は画の中の光景に一致を見ない。鑑賞者の知覚が題名と画を無理にも結び付けようとするが、迷走を余儀なくされるだけの徒労に終始してしまう。

 頭・腰・足などの部位を、裸体と呼ばれるものに当てはめ、それが下方に連続しているため、《階段を降りる裸体》であることを納得する。
 しかし、そのことから喚起されるべき意味はあるだろうか。あたかも散乱した板状の物を寄せ集めたような裸体である。物理的にも精神的にも条件を外した無為。

 描かれている(存在している)が、魅せるべき意味が欠落している。
 「階段を降りる裸体」は、裸体の意味を剥奪しており、性的興奮はもとより骨肉/血という人間の条件をことごとく打ち消している。
 現存の否定は、鑑賞者を寄せ付けない。作品と鑑賞者に生じる溝/亀裂の空間こそが作品の主眼かもしれない。


(写真は『マルセルデュシャン』㈱美術出版社より)


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