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『階段を降りる裸体』
裸体(人体)らしき物の下降の連続画像のようなものである。画題が命名されているから裸体なのかと思い、降りるとあるから下りているんだと認識する確かに階段のようなものも描かれているがよく見ると螺旋状のようでもあり、階段の部分は何気に危うい。
全て《~のようなもの、~らしい》と、言葉(命名)と画像(作品)は鑑賞者の脳裏で無理にも結び付けて納得するような仕掛けがある。
即、理解できる図像ではない。言葉だけでイメージすると生々しいし、画像だけで理解しようとすると何かが動いているらしいが…という謎のような混迷が残るばかりである。
裸体という言葉(ヒント)から頭部や胸、腰や脚を辛うじて想起できるが、きわめて機械的な印象であり、肉感はそぎ落とされている。
裸体で階段を下りる…何のために? 画は連続的な動きが認められるため、短いが時間という時空を認識できる。しかし、そのことに何の意味があるだろう。
意味という観点からみると、(階段を下りる裸体)という言葉も(階段を下りているらしい裸体)の画像も何ら意味を喚起させず、鑑賞者は呆然と立ちすくむばかりである。
(この作家は何を言いたいのだろう?)
デュシャンは、物あるいは状況から《意味》を剥奪し、《無》の光景を導き出している。
裸で階段を下りる必然性は限りなく低いし、それを二次元という画面に描き出すことも無為徒労である。そのバカバカしさや空疎を作品と銘打って提示している。
《無の空漠》を《有》をもって鑑賞者に差し出している、無は何もないことで認識できない、無は有をもって認識可能なのかもしれない。
(写真は『デュシャン』(株)東京美術出版より)
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