人には出来ることと出来ないことがある。しかし、その自覚に気づかないわたし、出来ないことを希求する傾向がある。
すなわち、ストレスである。出来ない自分を責め、追い詰めていく。
答えは案外近くにあり、出来ないことを認めるという単純な作法である。
69年もかかって、本当の自分が見えない。錯覚・錯視・勘違いの迷路にはまっている。
本当の自分を知ることは、諦念にも通じる。(そうか、そうだったのか)という失笑・自嘲。
もっと気楽にね、出来ない自分にやさしくなろう。
そうして、出来ることを粛々と積み重ねていく。それがゼロになったところで、どうということもない。それこそ悟るべき真実かもしれない。
『ガラスの鍵』
非常に高いと思われる連山の峰に巨大な岩石が乗っている、空は澄み渡る晴天である。
この画を『ガラスの鍵』と称している。
ガラスとは破損しやすいものの例えであり、岩石に向かうべき力は希薄というより使用不可である。しかし、あえてガラスの鍵である必然性はどこにあるのか。
山頂の峰にある巨岩石は有り得ず、奇跡と呼ぶしかない光景である。たしかに存在しているように見えるが、危機を孕んでいる。
わたしたち人類の存在もそのようなものではないか。宇宙の渦の中からあり得ない奇跡として誕生した山頂の巨岩石、全体から見ればほんの小さな石ころに過ぎないかもしれない。わたしたち人類は巨きいのだと尊大な気持ちを抱くような危険を孕ませてはいまいか。
存在の不可思議を客観的に観察すればこのようなものであり、究めて崇高な神秘であると同時に、単なる偶然でもある。
生きることの寓意性をも垣間見せるこの作品、わたしたちはこのような神秘の時間を生きているのかもしれない。
この奇跡を解明する鍵は光の中に融解し、無に帰する『ガラスの鍵』をおいて他にない。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
けれどもそこからボートまでのところにはまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て、とても押しのける勇気がなかったのです。
☆照(あまねく光が当たる=平等)は、死の真(まこと)の拠(よりどころ)である。
往(人が死ぬ)幽(死者の世界)の記である。
「お父さんは、まだそんなにお丈夫だったんですか」
「父ですか」オルガは、Kの言葉を解しかねるような面もちで訊きかえした。「三年前の父は、いわばまだ青年みたいなものでしたわ。たとえば、縉紳館に火事があったときのことなんですが、ガーラターという重たいい役人をおんぶして、駆け足で運びだしたくらいですわ。
☆「お父さんはまだお元気だったんですか」とKは聞いた。「お父さん?」とオルガは完全には理解しがたいというふうにたずねた。
新しい圧迫のまえで、まだほとんど先祖の徒弟の人でした。大群の暈(死の入口)の興奮にに火が付いた時には、ガーラター(読む人)の困難を支えたくらいです。