続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

貧困。

2015-12-24 07:30:59 | 日常

 高度成長、バブル…そして今、不況は低所得者層を揺さぶっている。

「もう、人に使われるのは嫌だからな」と電車のホームでつぶやいていた男、見ればまだ五十前後の中年。
「お袋にこれ以上迷惑かけられないしな、『出て行け』と言われればいつでも出ていくさ。生活保護がダメならホームレスにでも何にでもなるさ・・・」
 ホームのベンチの男女、どうも兄妹の会話らしい。兄も兄なら、妹も、どこかうらびれて兄を庇護する言葉も掛けられないでいる。寂しく寒風の吹き抜ける年の暮れである。

「マンション、売るんですか?650万はあんまり安いんじゃないですか」と聞くと、
「仕方ないんですよ・・・」と苦笑した近隣の中年男、どこへ行ってしまっただろう。

「今、生活保護の申請をしていますから」と、なにか先行き明るいような表情をしていた男もいた。その後、幾つか働き口を紹介してもらったようだけど、長く続かず、事故の後遺症についての診断を医師に迫っていた。その人も近隣から消えて久しい。

 バス停のベンチで隣り合わせた高齢の女性、
「今夕は、息子が来るんですよ」と言うので「よかったですね」と応えると、
「いいえ、わたしの年金を取りに来るんですよ。一緒に暮らそうなんて言っていますが、怖くて同意できません」「・・・。」

 少し周辺を見渡しただけでもこの状況である。かく言うわたしも下層生活。倹しい暮らしを甘受している身、他人の事は言えないけれど、先日も友人からの電話で、
「親にもしものことがあれば、負の遺産の方が多くて、この家も明け渡さなければならない」と、告げられ驚愕。


 《なるようになる》と楽観視している無職のわたしの展望(?)
 迷惑をかけないように身体だけは気を付けて暮らしたい。


若林奮を語る(山口啓介先生のお話)

2015-12-24 06:39:39 | 美術ノート

 「若林先生は犬や狼を題材にしていますが、猫も好きで飼っていました。捨て猫だったようですが、猫の名前のヒョウも、豹ではなく飛葉(ヒヨウ)からヒョウというようにつけたと聞いています。」
 日常のたわいもなく漏らした一言などを交えた若林奮先生のお話。山口氏は若林先生の教え子であった由。その後の活動から親しくなり、没年を遡る三年間ほどの年賀状のやり取りのコピーを公開。

「手を振る(ハンカチを振る)画像(版画)です。」
 お別れを予感していたのでしょうか、という旨を語られたけれど、手を振る行為は《別離》と同時に《迎合》をも意味する。二つの相反する意味を所有する画、(なるほどな)と思ったことでした。

「先生の作品は見えないところ、例えば地下であったり、箱の中であったりするエリアにとてつもなくエネルギーを注ぎ込むのです。それは時間や空間の凝縮だと思いますが、僕(山口氏)だったら、ガラスにして見えるようにしますけどね・・・」
 確かに…その通り、見えることに意味がある。しかし、敢えて決して見ることは適わない暗部に時空を圧し込めるという拘りは、若林氏の哲学であってどうしても外せない行為だったのに違いない。
 見えることと、見えないこと、つまりは《見ることの問題》は永遠性を持つ課題である。


 作品を創る手をどこで止めるかは難しい。感性の問題であるけれど、完成度を見極める眼はあくまで主観である。
「彼は、『へとへとになるまでやるんだ』と言っていました」と某氏が発言。
「そうですね・・・」
 それぞれ先生方も若いアーテストたちも静かに肯き、苦笑。

 美術界を遠くから覗いているわたし、『若林奮 飛葉と振動』展の最終日、別れを惜しんで出かけて見たら、酒井前館長さん、李学芸員のお姿もあり、かなりの聴衆…みんな勉強家なのだと、その熱気に恐縮。

 山口啓介先生、水沢館長さん、いろいろなお話をありがとうございました。


『銀河鉄道の夜』178。

2015-12-24 06:25:20 | 宮沢賢治

 見ると、その白い柔らかな岩の中から、大きな大きな青じろい獣の骨が、横に倒れて潰れたといふ風になって、半分以上掘り出されてゐました。


☆兼ねていることを吐く(言う)。
  重ねて含む衷(心の中)が題(テーマ)である。
  題(テーマ)の章(文章)は等(平等)の講(はなし)である。
  往(人が死ぬこと)を套(おおう)界(領域)は普く反(元へ戻る)文(文章)の意(考え)であり、章(文章)は屈(まげて)推しはかること。


『城』2183。

2015-12-24 06:04:35 | カフカ覚書

でも、それは、自分が見たものを報告していると言うよりは、頭のなかで勝手に考えだしているようにおもえるのです。おまけに、つまらないことばかりでーたとえば、うなずくときの頭の独特な動かしかたとか、チョッキのボタンをいつもはずしているとかいうようなことばかりなので、とても本気に聞いていることができないほどです。


☆でも、それは見えたものを報告するというよりも、考え出したもののように思えます。その上、微々たることばかりで・・・。たとえば、先祖は別々に標題から目を伏せ、西(来世)の呼び鈴を押すボタンをはずしているので、まじめに受け取ることが不可能なのです。