続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

マグリット『巡礼者』

2015-05-02 06:54:00 | 美術ノート
 帽子と着衣(ワイシャツ・ネクタイ、背広)が立体的に描かれているが、その間にあるべき顔がなく空白である。
 そのあるべき顔は画面の横に、まるで単にずらしただけというように描かれている。

 つまり、鑑賞者はこの作品を観るなり、帽子と着衣の間の空白に、横に描かれた男の顔を潜在意識の中(観念)で移動させ一人の紳士を完成させるという組み立てである。たぶん、小さな子供でもそのくらいの修復本能(観念)はあるに違いない。見慣れた対象物への違和感は瞬間的に打ち消され、常態へと訂正される。

 自然への安心感は、不自然をどこかで拒否する。積み重ねられた情報(データー)はある種の洗脳となり、信仰ともなりうる。

『観念』という作品においては、着衣の上、当然あるべき頭部(顔)の変わりに青いリンゴが宙に浮く形で描かれている。
 リンゴはキリスト教においては知恵の実であれば、何となく(フンフン)確かに頭は知覚をつかさどる場所であるという回答で納得してしまう。


 わたし達は並べて積み重ねられたデーターの下に対象を認識している。(こうあらねばならない)は常識であり、約束でさえある。《そうだろうか》と、マグリットは問う。

 視覚の解体は、鑑賞者の観念を揺らす。不安・不安定な画面の中の世界には居心地の悪さを禁じえない。作品を観る眼差しは、知覚の中の観念と闘う。何らかの妥協案を探さなくては落ち着かないからである。

 匿名の紳士(自画像)の肖像から、顔と呼ばれるパーツを外し、脇へ置いてみる。ただそれだけで、衝撃は波打つように巻き上がり、疑念のために深くため息をついてしまう。
 作家は世界(観念)の箍(たが)を少しばかり外す。鑑賞者はそれを否定し、肯定を導き出そうと試みる。しかし描かれた作品は、ただそのまま、あるがままである。
 鑑賞者は作品に対する不可抗力を知り、黙って立ち去るより他に術がない。この軋轢/摩擦ある作品は、鑑賞者の心の隙間を押し広げ揺らしている。

『巡礼者』と名づけられた作品は、信仰(洗脳/観念)の聖地(常識)を、巡り脅かすものである。(写真は国際新美術館『マグリット展』図録より)

『冬のスケッチ』98。

2015-05-02 06:46:23 | 宮沢賢治
  ほんたうにおれは泣きたいぞ。
  一体なにを恋してゐるのか。
  黒雲がちぎれて星をかくす
  おれは泣きながら泥みちをふみ。


☆救(すくい)の逸(かくれている)他意が連(つながっている)と、告げる。
 薀(奥義)の照(普く光があたる=平等)を究めることに、泥(こだわっている)。

『城』195 。

2015-05-02 06:33:23 | カフカ覚書
これらすべてのことをわたしなんかよりもずっとよく知っているにちがいないお内儀さんのことだから、なんとかわたしに言いきかせて、わたしがあまりにひどい自責の思いに苦しめられるのを防いでやろうというつもりだったのだろう、と。ご親切には違いないけど、よけいなむだ骨だわ、とおもいました。


☆これらの死を、ずっとよく知っているに違いない言葉から、わたしが過度に自責の念に駆られるのを守ろうとしたのは、善意ではあるけれど、よけいに悲しいと思いました。