太宰治作「人間失格」、この本を読むのは3度目です。1度目は高校生の時、2度目は20歳過ぎだったと思います。若い頃はどんな感想を持ったのでしょう。何十年もたって感想は変わっているでしょうか。何十年の重みがある感想を持っていたらうれしいですが、若いときのほうが案外素直に感じていたかもわかりません。嘘と真実、何が嘘で何が真実かもわからなくなります。「晩年」を読んだ後は悲しすぎる時は涙が出ないのかと思いましたが、「人間失格」では涙があふれました。何故か考えました。文体が違うからだと思いました。「晩年」は解説では前衛的な現代小説と書かれています。主人公「大庭葉蔵」の他に作者が直接小説に登場し、言いがたい真実を表現されています。「晩年」では小説でありながら作者が登場するので大庭葉蔵と作者と、実際は同じ人物太宰治なのですが、両方に感じるものがあり、読者にも深く問いかけられます。「人間失格」は普通の文体の小説なので、どんどんその世界に入り込み、涙があふれたのだと思いました。私は「夕鶴」に出てくる「おつう」を思い浮かべました。おつうが自分の羽からきれいな反物を仕上げるように、太宰治は自分の身を削って削って「真実」を表現したのだと思いました。私が20歳ぐらいだったと思いますが、阪急電車梅田駅構内で友達のお姉さんに呼び止められたことがありました。「どうしたん?死んだ人みたいな顔して・・・」と言われました。その時、私は「何のために生きるの?」と考えていたのです。失恋したわけでも特別悲しいことがあったわけでもないのに、そんな疑問がふっと思い浮かんだのです。梅田の雑踏の中へ消え入りそうな気持ちでした。「青春」という言葉はとても明るくて、楽しげで良さそうに聞こえますが、傷つきやすく、身の置き所がないのかなと思いました。
お気に入り度:★★★★★ 図書館資料 分類番号:B/ダザ