お届けするのは
ザ・ドリフターズ「ミヨちゃん」
本日はドラムス担当の加藤茶さんのお誕生日ということであっぷしました。
いうまでもなく、今までないハチャメチャなことを仕掛けつつも、ひとりひとりの個性があり、お笑い、俳優、音楽に通ずる才能を発揮した実力派のエンターテイメント集団であり、
一般的には、いかりや長介が正式リーダーになった1964年のドリフ再結成以降(新生ドリフ)が知られているが、結成は1957年(1955年または1956年の異説あり)。結成当初からいかりやがメンバー入りするまでは音楽バンドとして活動していた。楽曲主体による音楽ネタなどを得意としており、テレビや映画出演が多くなるにつれ、コミックソング、コントやギャグが主体となっていった。
メンバー構成として、
前期バンド時代のメンバーは、当時のバンド移籍文化もあり、移り変わりが激しかったが、新生ドリフになってからはメンバーはほぼ固定され、5人の構成が取られるようになった。
初期のメンバーには、現在、催眠カウンセラーの吉田かずおが在籍していた。ただし、荒井注の脱退宣言の際には志村けんが正式見習いとして加入し、一時的に6人構成となった。また、いかりやの著書にも記述されているように、すわしんじ(現・すわ親治)の活躍ぶりにより、正メンバーではないが彼を6人目のメンバーと見なす解釈もある。他に付き人は大勢在籍していたが、メンバーとして紹介されることは無い。
さらには、人形ながらもジャンボマックスがメンバー扱いされる記事も見受けられる。いかりや没後には新メンバーを加入させる予定は無く、現在4人の構成となっている。
いかりやの著書によれば、いかりやは自分が加入した当初のドリフターズがそうだったように、荒井が志村に交代したような形でメンバーを徐々に入れ替え、自分のようにネタを創れる志村とすわを中心にした新メンバーでドリフを継続することを計画していた。
芸名由来は
新生ドリフ初期メンバーの名付け親は、当時の所属事務所・渡辺プロダクションの先輩格でドリフのメンバー達にとって憧れの存在だった「クレージーキャッツ」のリーダー、ハナ肇でアメリカの黒人コーラス・グループのドリフターズから拝借し命名。
ドリフのメンバーにしてみると、ハナの独断に満ちた判断で適当に名付けられた感じがしたが、逆にインパクトがあり、今でも各人の名が覚えられる結果となった。なお、後に加入した志村は自分の父親の名前より芸名を決め、すわの芸名はいかりやにより名付けられた。
この曲は1969年2枚目のシングルとしてリリースされたもので、オリジナルは1950年代後半、日劇ウエスタンカーニバルを拠点にロカビリーで人気を博した平尾昌晃のナンバー。
そんなともさかりえと同じ潜在能力の加トちゃんでありますが、
人物像として、
ドリフターズを辞めようとした事がある。いかりやに反旗を翻した小野ヤスシらがドンキーカルテットを結成する際に加藤を誘うが、プロダクションといかりやの慰留の説得によって残留した。
加藤がこの時のことを語る際、いかりやから「お前、どうするんだ!!」と凄まれたため、あまりの怖さに「残ります!」としか言えなかった、と面白おかしく紹介するのは、あまりにも有名である。
ただし、いかりやの著書『だめだこりゃ』によれば、この頃はプロダクションには所属しておらず、前リーダーの桜井輝夫がオーナーとして関わっており、前出の「お前、どうするんだ?」と説得したのは桜井とされている(いかりやは加藤を直接は説得していない、また桜井も普通に「どうするんだ?」と尋ねたにすぎない)。また、ドンキーカルテット側からも「加藤はドリフに残った方がいい」と進言されたとされている。
荒井注のドリフ脱退の際、加藤も一緒に脱退しようとした事がある。だが荒井が先にドリフ脱退を発表してメンバーのみならず世間も大騒ぎになってしまい、結局脱退を言い出せなかった事があり、加藤本人も笑い話としてテレビで度々この話を披露する。
スピード狂のところがあり、1970年に交通事故を起こしたり、1987年には首都高速をランボルギーニカウンタックで80キロオーバーの時速143kmで走るなどのスピード違反で数回処分歴があり、ドリフ大爆笑のもしものコントでこの事がネタにされた事があった。後の『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』でも、カーアクションシーンでの運転(実際のアクション部分はスタントか代用人形だった)はだいたい加藤である。ただし、これは志村が運転免許を持っていないため志村の運転だとリアリティに欠けるというのも一因である。その上、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が放送期間中で交通事故を起こし、それが新聞に載った上に放送日の土曜だったため、探偵コントのセットで番組冒頭で1分ほどの加藤本人による謝罪に近い映像が流れた事もある。
少年時代には平泳ぎが得意であった。中学生の時の全校水泳大会の自由形では、他の選手が全員クロールの中、加藤だけが平泳ぎだったにも関わらず、加藤が1着だったという(『6年の学習』1979年9月号より)。
ドリフターズメンバー全員の共通の趣味であったクレー射撃は加藤が一番巧く、公式大会での優勝記録も多数残しており、本人曰く「協会からオリンピック代表候補の打診もあったが、ドリフが一番忙しい時期だったので、事務所に行かせてもらえなかった」というほどの腕前であった。なおクレー射撃の銃所持免許は、前出の度重なる交通違反による前歴から取消処分を受けている。
「『全員集合』全盛時代には、クラブの遊興費だけで、1年に1億円は使っていた」と告白したことがある。ただし、普段はリハーサルや本番やほかの仕事で忙しく、これはドリフターズの夏休み期間のみの話である。「そんなお金、ぜ〜んぶなくなっちゃったね」と、あっさり言ってのけた。その発言の場に居合わせたウッチャンナンチャンをはじめ、ゲストたちは驚きを隠せなかった。
ギャンブルは穴狙いで、『木梨サイクル』にて見事的中させる様子が放映された。大量の札束をポーカーフェイスで受け取る加藤に対し、木梨憲武が「加藤さん…」と言ってその後絶句したが、加藤は「え、なに?」と一切興奮した様子を見せなかった。
一時は仲本・高木と3人で競走馬を所有していた(=馬主だった)。加藤曰く「仲本に誘われて初めて大井に行って馬券を買ったところ、いきなり1万5千円(150倍)の馬券が当たり、しかもそれを5千円も買っていたので、勢いに乗ってその金で馬を買っちゃった」という。購入後1年ほど経った頃、仲本の「そろそろ売った方がいい」との意見でその馬を売却するが、それまでの間に7勝を挙げ「買った額以上には稼いでくれた」らしい。
それ以来競馬にどっぷりはまり、日本国内だけでなく海外でも競馬場に足を運んでいる。過去にはロサンゼルスに行った際に近隣の競馬場(名前は忘れたとのこと)に行き「英語がわからないので見た目だけで馬を選んで、12レース中7レース馬券を的中させた」こともあるという。
プロ野球・読売ジャイアンツファンである(現在ラミネス選手が「加トちゃんぺ」をしている)。
2003年離婚後に犬(トイ・プードル)を飼いはじめ、今では犬の服を数十着も着せてるほど溺愛してる。
ザ・ドリフターズ「ミヨちゃん」
本日はドラムス担当の加藤茶さんのお誕生日ということであっぷしました。
いうまでもなく、今までないハチャメチャなことを仕掛けつつも、ひとりひとりの個性があり、お笑い、俳優、音楽に通ずる才能を発揮した実力派のエンターテイメント集団であり、
一般的には、いかりや長介が正式リーダーになった1964年のドリフ再結成以降(新生ドリフ)が知られているが、結成は1957年(1955年または1956年の異説あり)。結成当初からいかりやがメンバー入りするまでは音楽バンドとして活動していた。楽曲主体による音楽ネタなどを得意としており、テレビや映画出演が多くなるにつれ、コミックソング、コントやギャグが主体となっていった。
メンバー構成として、
前期バンド時代のメンバーは、当時のバンド移籍文化もあり、移り変わりが激しかったが、新生ドリフになってからはメンバーはほぼ固定され、5人の構成が取られるようになった。
初期のメンバーには、現在、催眠カウンセラーの吉田かずおが在籍していた。ただし、荒井注の脱退宣言の際には志村けんが正式見習いとして加入し、一時的に6人構成となった。また、いかりやの著書にも記述されているように、すわしんじ(現・すわ親治)の活躍ぶりにより、正メンバーではないが彼を6人目のメンバーと見なす解釈もある。他に付き人は大勢在籍していたが、メンバーとして紹介されることは無い。
さらには、人形ながらもジャンボマックスがメンバー扱いされる記事も見受けられる。いかりや没後には新メンバーを加入させる予定は無く、現在4人の構成となっている。
いかりやの著書によれば、いかりやは自分が加入した当初のドリフターズがそうだったように、荒井が志村に交代したような形でメンバーを徐々に入れ替え、自分のようにネタを創れる志村とすわを中心にした新メンバーでドリフを継続することを計画していた。
芸名由来は
新生ドリフ初期メンバーの名付け親は、当時の所属事務所・渡辺プロダクションの先輩格でドリフのメンバー達にとって憧れの存在だった「クレージーキャッツ」のリーダー、ハナ肇でアメリカの黒人コーラス・グループのドリフターズから拝借し命名。
ドリフのメンバーにしてみると、ハナの独断に満ちた判断で適当に名付けられた感じがしたが、逆にインパクトがあり、今でも各人の名が覚えられる結果となった。なお、後に加入した志村は自分の父親の名前より芸名を決め、すわの芸名はいかりやにより名付けられた。
この曲は1969年2枚目のシングルとしてリリースされたもので、オリジナルは1950年代後半、日劇ウエスタンカーニバルを拠点にロカビリーで人気を博した平尾昌晃のナンバー。
そんなともさかりえと同じ潜在能力の加トちゃんでありますが、
人物像として、
ドリフターズを辞めようとした事がある。いかりやに反旗を翻した小野ヤスシらがドンキーカルテットを結成する際に加藤を誘うが、プロダクションといかりやの慰留の説得によって残留した。
加藤がこの時のことを語る際、いかりやから「お前、どうするんだ!!」と凄まれたため、あまりの怖さに「残ります!」としか言えなかった、と面白おかしく紹介するのは、あまりにも有名である。
ただし、いかりやの著書『だめだこりゃ』によれば、この頃はプロダクションには所属しておらず、前リーダーの桜井輝夫がオーナーとして関わっており、前出の「お前、どうするんだ?」と説得したのは桜井とされている(いかりやは加藤を直接は説得していない、また桜井も普通に「どうするんだ?」と尋ねたにすぎない)。また、ドンキーカルテット側からも「加藤はドリフに残った方がいい」と進言されたとされている。
荒井注のドリフ脱退の際、加藤も一緒に脱退しようとした事がある。だが荒井が先にドリフ脱退を発表してメンバーのみならず世間も大騒ぎになってしまい、結局脱退を言い出せなかった事があり、加藤本人も笑い話としてテレビで度々この話を披露する。
スピード狂のところがあり、1970年に交通事故を起こしたり、1987年には首都高速をランボルギーニカウンタックで80キロオーバーの時速143kmで走るなどのスピード違反で数回処分歴があり、ドリフ大爆笑のもしものコントでこの事がネタにされた事があった。後の『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』でも、カーアクションシーンでの運転(実際のアクション部分はスタントか代用人形だった)はだいたい加藤である。ただし、これは志村が運転免許を持っていないため志村の運転だとリアリティに欠けるというのも一因である。その上、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が放送期間中で交通事故を起こし、それが新聞に載った上に放送日の土曜だったため、探偵コントのセットで番組冒頭で1分ほどの加藤本人による謝罪に近い映像が流れた事もある。
少年時代には平泳ぎが得意であった。中学生の時の全校水泳大会の自由形では、他の選手が全員クロールの中、加藤だけが平泳ぎだったにも関わらず、加藤が1着だったという(『6年の学習』1979年9月号より)。
ドリフターズメンバー全員の共通の趣味であったクレー射撃は加藤が一番巧く、公式大会での優勝記録も多数残しており、本人曰く「協会からオリンピック代表候補の打診もあったが、ドリフが一番忙しい時期だったので、事務所に行かせてもらえなかった」というほどの腕前であった。なおクレー射撃の銃所持免許は、前出の度重なる交通違反による前歴から取消処分を受けている。
「『全員集合』全盛時代には、クラブの遊興費だけで、1年に1億円は使っていた」と告白したことがある。ただし、普段はリハーサルや本番やほかの仕事で忙しく、これはドリフターズの夏休み期間のみの話である。「そんなお金、ぜ〜んぶなくなっちゃったね」と、あっさり言ってのけた。その発言の場に居合わせたウッチャンナンチャンをはじめ、ゲストたちは驚きを隠せなかった。
ギャンブルは穴狙いで、『木梨サイクル』にて見事的中させる様子が放映された。大量の札束をポーカーフェイスで受け取る加藤に対し、木梨憲武が「加藤さん…」と言ってその後絶句したが、加藤は「え、なに?」と一切興奮した様子を見せなかった。
一時は仲本・高木と3人で競走馬を所有していた(=馬主だった)。加藤曰く「仲本に誘われて初めて大井に行って馬券を買ったところ、いきなり1万5千円(150倍)の馬券が当たり、しかもそれを5千円も買っていたので、勢いに乗ってその金で馬を買っちゃった」という。購入後1年ほど経った頃、仲本の「そろそろ売った方がいい」との意見でその馬を売却するが、それまでの間に7勝を挙げ「買った額以上には稼いでくれた」らしい。
それ以来競馬にどっぷりはまり、日本国内だけでなく海外でも競馬場に足を運んでいる。過去にはロサンゼルスに行った際に近隣の競馬場(名前は忘れたとのこと)に行き「英語がわからないので見た目だけで馬を選んで、12レース中7レース馬券を的中させた」こともあるという。
プロ野球・読売ジャイアンツファンである(現在ラミネス選手が「加トちゃんぺ」をしている)。
2003年離婚後に犬(トイ・プードル)を飼いはじめ、今では犬の服を数十着も着せてるほど溺愛してる。