嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

嵐山町の石仏19 石造物の分類とその概要17 結界石

2009年03月19日 | 嵐山町の石仏造立の背景

・結界石(けっかいせき)
 主に禅宗の寺院門前などに建てられている標石で、「不許葷酒入山門」・「禁葷酒」などと彫られている。「葷酒」は葷、つまり刺激性の強いネギ、ニンニク、ニラなどの野菜類と酒類のことである。これらが修行僧の妨げにならぬよう、風紀を維持し静安のために境界を定めたものである。仏教の教義である五戒のうち、不飲酒戒を受けている。
 嵐山町には7基を数え、「不許葷酒入山門」が2基、「禁葷酒」が3基、「不容葷酒入門」が1基、「是より禁酒」が1基となっている。6基は禅宗のうち曹洞宗寺院にあり、1基は修験系の寺院である。また7基のうち2基は、元大乗寺(石川県金沢市)住職の愚禅による筆のものである。造立年代は1791年(寛政3)から1821年(文政4)と、江戸中期以後の造立である。また造立年代が刻まれていない場合もある。
※嵐山町博物誌調査報告第8集『嵐山町の石造物1』(嵐山町教育委員会発行、2003年3月)掲載の島﨑守男「嵐山町の石仏造立の背景」22頁


嵐山町の石仏17 石造物の分類とその概要15 羅漢

2009年03月17日 | 嵐山町の石仏造立の背景

・羅漢(らかん)
 羅漢は「阿羅漢」の略で、古代インド・サンスクリット語の「アルハット」の音訳である。羅漢とは原始仏教で「完全に悟りを開いた功徳を有する最高の仏教行者」のことをいう。羅漢にはまず「十六羅漢」があり、この十六人の羅漢は釈尊の命を受け、この世にとどまり仏法を守る尊者たちである。また釈尊の弟子五百人も「五百羅漢」と呼ばれている。この羅漢は釈迦の入滅のときに結集して、遣教をまとめることに精進したといわれている。
 十六羅漢・五百羅漢の信仰は、中国を経て我が国に入ってきたものである。嵐山町には十六羅漢・五百羅漢の石像はないが、独尊像が見られる。羅漢信仰を受け継いでいる寺院は禅宗、特に曹洞宗寺院に見られ、菅谷の東昌寺境内には2基が造立されている。
※嵐山町博物誌調査報告第8集『嵐山町の石造物1』(嵐山町教育委員会発行、2003年3月)掲載の島﨑守男「嵐山町の石仏造立の背景」21頁


嵐山町の石仏16 石造物の分類とその概要14 聖徳皇太子

2009年03月16日 | 嵐山町の石仏造立の背景

・聖徳皇太子(しょうとくこうたいし)
 聖徳太子は日本仏教の始祖と仰がれる人物である。用明天皇の皇子・推古天皇の摂政となり、政治の改革を推進した。有名な「十七条の憲法」にも、仏教の教えが取り入れられている。また仏教を奨励し、自らも仏教を学び、法華経・勝鬘経・唯摩経について講義をなし、「三経義疏」と称せられる注釈書をあらわしたと伝えられている。
 聖徳太子の死後、太子信仰が高まり、特に鎌倉時代以後多くの木像が造られた。太子講はその後も継続され、各地に残る太子講はいずれも大工・左官・鍛冶屋など職人やきこり・木挽きなど山仕事の集まりによるものである。太子像の前で会議を開き賃金の協定や職業上の申し合わせを行なったという。
 嵐山町の聖徳太子供養塔は志賀観音堂に2基、遠山に1基がある。志賀のものは壮年期の像容をした丸彫立像と角型文字塔で、立像には台石周囲に、志賀村をはじめ近隣十数ヵ村民の氏名が数多く刻まれている。石工は「川越町(現在の川越市)次兵衛」である。文字塔は「聖徳皇太子」で、台石にはやはり多数の氏名が刻まれている。こちらの石工は「小八林(現在の吉見町)長嶋金助」とある。立像は1801年(享和元)、文字塔は1873年(明治6)の造立である。
 遠山の八幡神社にある1基は自然石型文字塔で、碑面には「聖徳皇太子」とある。裏面には「元治二乙丑正月吉日講中(元治二年は西暦1864年)」とあるから、太子講の造立である。遠山村のほか、高ノ倉村(現在の鳩山町)・下里村(現在の小川町)民の氏名が刻まれている。
※嵐山町博物誌調査報告第8集『嵐山町の石造物1』(嵐山町教育委員会発行、2003年3月)掲載の島﨑守男「嵐山町の石仏造立の背景」21頁


嵐山町の石仏15 石造物の分類とその概要13 鬼子母神

2009年03月15日 | 嵐山町の石仏造立の背景

・鬼子母神(きしもじん)
 鬼子母神は古代インドのサンスクリット語で「ハーリテイー」といい、これを音写して訶利帝母(かりていも)とも呼ばれる。インドから移入した神で、その像は一面二手の天女像で、左手に赤子を抱き右手にはザクロの実を持っている。立像が多く、また数体の子どもの像に囲まれていることもある。経典の中で「子どもを抱く姿」と正式に記されているのは鬼子母神だけであり、現在でも広く信仰されている。
 嵐山町の鬼子母神は広野に自然石型文字塔1基がある。「妙法鬼子母神」と刻まれており、1891年(明治24)の個人による造立である。「妙法」とはじめにあるように、日蓮宗で特に信仰されている。

※嵐山町博物誌調査報告第8集『嵐山町の石造物1』(嵐山町教育委員会発行、2003年3月)掲載の島﨑守男「嵐山町の石仏造立の背景」21頁


嵐山町の石仏13 石造物の分類とその概要11 九頭竜権現

2009年03月13日 | 嵐山町の石仏造立の背景

○その他
・九頭竜権現(くずりゅうごんげん)
 九頭竜権現はインドが起源の水神で、日本に移入されて古来の信仰と結合し九頭竜権現となった。その像容は一身に九つの頭を持つ竜神とされる。「権現」とは、衆生救済のため、仏が日本の神となってこの世にあらわれること、あるいはその神の名である。八大竜王も九頭竜権現と同体と見て良い。
 農耕民にとって水は生命である。水の恩恵を受けるためと、水害を防ぐためとの祈りを込めて、いろいろな水神が造立された。水源地・河川の堤防・井戸端に祭ることは全国的に見られる。
 嵐山町の九頭竜権現は市野川流域に4基があり、具体的には杉山の市野川左岸に3基、川島の右岸に1基がある。すべて文字塔で「九頭竜大権現」や「九頭竜大神」など刻されている。杉山の3基はそれぞれ1801年(享和元)と1846年(弘化3)、1871年(明治4)の造立で、川島の1基は2001年(平成13)の造立である。もともと市野川は自然の流路で蛇行が著しく、梅雨や台風の季節には降雨でしばしば洪水に見まわれてきた。流域に見られるこれらの石造物は、杉山や川島の農民が洪水の防止や適度の降雨を祈願して造立したものである。現在では市野川も改修が進み、洪水を見ることはなくなった。

※嵐山町博物誌調査報告第8集『嵐山町の石造物1』(嵐山町教育委員会発行、2003年3月)掲載の島﨑守男「嵐山町の石仏造立の背景」20頁


嵐山町の石仏12 石造物の分類とその概要10 宝篋印塔・宝塔

2009年03月12日 | 嵐山町の石仏造立の背景

○宝篋印塔(ほうきょういんとう)
 宝篋印塔は「宝篋印陀羅尼経」を納めた宝塔である。「この塔に拝供養すれば、生きている間は災害から免れ、死後は極楽に生まれ変わる」と宝篋印陀羅尼経では説いている。
 塔は基礎・塔身・笠・相輪の四つの部分から成り、塔身の四面には仏の種子が彫られているが、これは各塔により様々である。これらの塔には成仏を願い、また法華経読誦により先祖供養、子孫の幸福を願うもの、舎利礼文を記しているものなどがある。
 嵐山町には鎌形に3基、古里に1基が個人墓地に造立されている。

○宝塔(ほうとう)
 宝塔は法華経に由来し、多宝如来と釈迦如来を本尊としている。経典では「釈迦如来が霊鷲山で法華経を説いたとき、地中より突然に宝塔が出現して、塔の中から多宝如来が釈迦如来を褒め称え塔中に招き、二如来が併座した」と、宝塔の起源を述べている。
 構造的には基礎・塔身・笠・相輪より成り、塔身は丸柱状に造られている。嵐山町の宝塔は志賀の観音堂、杉山の薬師堂にそれぞれ1基あり、また鎌形の字殿ヶ谷戸にある個人墓地には宝篋印塔型の形式をとったものが2基ある。


嵐山町の石仏11 石造物の分類とその概要9 庚申塔

2009年03月11日 | 嵐山町の石仏造立の背景

○庚申塔(こうしんとう)
 嵐山町にある各種の石仏の中で、数多く造立が見られるものに庚申塔がある。庚申塔には像塔と文字塔があり、像塔の主尊として多く見られるのは「青面金剛童子像」である。そのほか像塔には猿田彦大神や帝釈天、釈迦如来、地蔵菩薩などを主尊としたものがあるが、嵐山町の像塔の主尊は青面金剛像のみである。文字塔には「庚申供養二世安楽…」のものや、単に「庚申」とか「庚申塔」と刻するものが多数を占めている。そのほかに「庚申供養塔」、「庚申大神」、「青面金剛」、「庚申尊」、「百庚申」といった文字塔もある。また「三尸塔」も庚申塔の一種である。碑面には「絶三彭仇」の文字が刻まれている。
 十干十二支の干支による組み合わせで、六十日に一度めぐってくる庚申(かのえ・さる)の夜は、眠らずに過ごして無事息災を願うのが庚申信仰の源流である。これは中国の道教にある三尸説によるものである。この説によると、人間の体内には「三尸」(さんし)という虫がすみついているという。その虫は庚申の夜になると、人間が眠っているうちに体内から抜け出て天に昇り、「天帝」にその人が犯した悪事を報告する。天帝はその悪事の軽重により、その人の寿命を左右するのだという。ところが人間が寝ずに起きていれば、三尸は体から抜け出すことができないのだそうである。そのようなわけで庚申の夜は講中の人たちが集まって、経典の読誦や飲食・雑談などをして夜を明かしていた。その行事を「庚申待」とか「守庚申」と呼んでいた。
 庚申信仰は平安時代には主に宮中で行なわれていた。鎌倉時代から戦国時代にかけては武士の間でも広まり、庶民の間に広まるのは江戸時代になってからである。当初は本来の信仰行事が型通り行なわれていたようだが、時代の移り変わりに従い、娯楽的な傾向が強くなっていったようである。講中の人々が集まり、情報交換や農作業の話し合い、あるいは飲食を共にし、結束をかためる場にもなった。また一面禁忌を守り、村の風紀を維持する上で役立ったともいわれている。
 守庚申を三年間十八度勤めれば、体内の三尸は死滅し、延命息災に暮らせるようになると、道教では説いている。庚申塔は守庚申が達成された祈願成就の記念として造立されたのである。嵐山町には広野の百庚申を含め224基が確認されている。最古の造立は1680年(延宝8)の庚申年にあたるものが2基あり、そのうち平沢の1基は青面金剛・三猿を配した像塔で、平沢村の講中各人の名前が刻まれている。また広野にある1基も同様の像容で、広野村の造立である。
 地域別の造立は図4ならびに表2のとおりである。町内での分布を見ると、概して南部地区では数少なく、北部地区では多数の造立が見られる。なお表にある広野の119基の中には、八宮神社入口の百庚申が含まれており、分布図では一ヵ所で記してある。

図4 嵐山町内における庚申塔の分布 準備中

表2 嵐山町内における庚申塔の地区別造立年代 準備中

 造立年代は六十年に一度の「庚申年」に深く関わっており、庚申年である1680年前後の延宝から貞享年間には造立の集中期が見られる。1680年から次の庚申年1740(元文5)の六十年間における造立は、青面金剛像が16基、三猿のみの像が4基、文字塔が8基である。造立は集団によるものが大半で、「村中」が9基、「講中」または「同行」が17基、無名のものが2基である。さらに次の庚申年である1800年(寛政12)に前後して14基が造立されており、この時代まではそのほとんどが集団による造立で、個人の造立はわずかに2基である。江戸時代最後の庚申年、1860年(万延元)には少数の造立で、その後も減少し1920年(大正9)には個人による4基の造立のみとなっている。庚申年以外に造立が集中したのは、庚申年のほぼ中間にある明和、安永年間で、11基が造立されている。最も新しい庚申年である1980(昭和55)には個人による造立1基のみ、その後は1993(平成5)年に1基、文字塔が造立されている。
 嵐山町の庚申塔について、造形に関して時代順に見ると、まず造立初期(1680年代)には駒型あるいは船型の青面金剛に、三猿・日月・鶏の浮彫像という点でほぼ共通しており、1700年代に入ると駒型や笠付型の文字塔が、1730年代には一猿三番叟・日月・鶏のものがそれぞれ登場する。1740年代には駒型や自然石型の文字塔が造立され、その後像塔は造立されなくなり、1800年代には文字塔が主流となった。
 材質で見ると像刻の庚申塔は主に安山岩で、一部砂岩も用いられている。文字塔では初期のものには安山岩が用いられているが、時代の移り変わりと共に緑泥石片岩が主流となっている。


嵐山町の石仏10 石造物の分類とその概要8 供養塔2

2009年03月10日 | 嵐山町の石仏造立の背景

・巡拝塔(じゅんぱいとう)・百番供養塔(ひゃくばんくようとう)
 巡拝塔は神社や寺院、霊場などの巡拝を成し遂げた記念と、供養のために建てられた石塔である。巡拝の主たるものは、秩父観音札所三十四ヵ所・坂東三十三ヵ所・西国三十三ヵ所の合わせて百ヵ所や、四国弘法大師霊場八十八ヵ所などである。神社や山岳霊場の巡拝地として、富士山(冨士浅間神社)・出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)・古峰ヶ原(古峰神社)・三峰山(三峰神社)・大山(大山阿夫利神社)・木曽御嶽(御嶽神社)など山岳霊場巡拝が行なわれた。
 巡拝塔の中で、観音霊場を百ヵ所巡拝したことの供養のため造立したものが百番供養塔である。法華経・第二十五章の経文を法華経観世音菩薩普門品と呼び、いわゆる「観音経」として奉唱された。観音経によると、衆生の苦悩を救うため観世音菩薩は衆生の様々な苦しみに応じて、三十三の姿に身を変えて救済した。この変身のことを「観音の三十三応現身」と呼び、これが三十三観音で、三十三の霊場の由来である。観音信仰の巡拝地の代表的な西国三十三番札所、坂東(関東)三十三番札所、それに秩父三十四番札所を加えて百番となる。ちなみに比企郡下には比企西国三十三ヵ所という霊場もあった。これらの観音霊場を巡拝することは大変困難であった。それぞれの霊場札所を巡った証として納経帳に朱印を受けて廻るのである。交通の困難な時代であり、その上多大な経費のかかることであったが、農村経済の向上、社会の安定などによりこうしたことが行なわれるようになった。村を離れる旅や、物見遊山は堅く禁じられていたが、信仰が目的の場合は許可されたのであった。しかし実際には信心に名を借り、実は行楽として巡拝が行なわれていたようである。百番霊場の巡拝を完成することができたのは観世音菩薩のご加護によるものと、感謝と記念のために供養塔を建てたのである。
 嵐山町の巡拝塔の初出は1775年(安永4)である。また最も新しい造立のものは1993(平成5)年となっている。巡拝塔の中に百番供養塔が2基あるが、これは数人による造立で、他は全て個人によるものである


嵐山町の石仏9 石造物の分類とその概要7 供養塔1

2009年03月09日 | 嵐山町の石仏造立の背景

○供養塔(くようとう)
 「供養」とは読経したり念仏を唱えたりして、仏や仏の教え、あるいは死者の霊などにお供えものをして仏事を行なうことである。その際に建てられたのが「供養塔」であり、中でも多く造立されているのが経典供養塔である。経典供養塔のうち経典の名称や経文・真言などを石塔に刻んだものを「刻経塔」、経典読誦の回数などを刻んだものを「読誦塔」、写経した経典を寺社に奉納したことを刻んだものを「写経塔」・「納経塔」・「廻国塔」と称した。
 江戸時代の嵐山町域において、経典への信仰は盛んに行なわれていた。刻経塔のうち「名号塔」は1668年(寛文8)のものが、「題目塔」では1699年(元禄12)のものがいずれも町内における造立の初出である。その後の経典供養塔造立は1741年(寛保元)から1850年(嘉永3)までが最盛期であり、この間に各種供養塔50基が造立されている。また最も新しい造立は1897年(明治30)の普門品供養塔である。
 供養塔には経典供養塔以外にも、諸国の霊場などを巡拝した際の供養として造立された「巡拝塔」などがある。

・読誦塔(どくじゅとう)
 経典供養塔の中で中心となるものは読誦塔である。ある一つの経典を読誦した記念として建立した供養塔である。経典はもともと読誦することを目的としたものであるが、それが「何遍・何部を読誦したか」ということが碑面に記されている。
 嵐山町の読誦塔碑面には「法華一千部成就」「南無妙法蓮華経一千部」「大乗妙典一千部」「大乗妙典敬誦」「普門品五萬巻」「光明真言弐百萬遍」「千部供養塔」「百万遍供養塔」といった類の銘文が刻されている。このうち「法華」とは法華経、つまり妙法蓮華経のことである。妙法蓮華経は「大乗妙典」あるいは「大乗経」とも呼ばれ、「経王」という場合もある。これは「経典の中で妙法蓮華経が最高のものである」とするところからきている。また、妙法蓮華経の中に「観世音菩薩普門品・第二十五」という章があり、これを略して「普門品」、または「観音経」と呼ばれている。
 「光明真言」とは密教で称える呪文の一つであり、大日如来の真言で、また一切の仏菩薩の、総ての呪文でもある。光明真言を読誦すると一切の罪業が除かれるといい、この真言をもって祈祷した土砂を死者にかけると、生前の罪障が消滅するといわれている。
 嵐山町では光明真言の読誦塔は二基があり、さらに法華経と合わせた「法華経光明真言」が1基ある。
 「金光明最勝王経」の読誦塔は、嵐山町では杉山の薬師堂にただ一基のみが見られる。金光明最勝王経は703年(唐の則天武后の長安3)に義浄が訳した経典である。これを信じれば四天王をはじめ、天神・地神がその国土を守り、民衆に利益を与え、天変地異をなくし人々は豊かで安楽になると繰り返し述べているところから、鎮護国家の経典として尊重され広まった。聖武天皇がこの経典に基づき国分寺を建てさせて、「金光明四天王護国寺」と称してこの経典を読誦させた。

・名号塔(みょうごうとう)
 「名号」とは仏・菩薩の名をいうが、特に「阿弥陀仏」、または「南無阿弥陀仏」の文字を名号塔に刻み、ふつう名号塔というと六字名号塔のことを指す。「南無」とは絶対帰依する(仏・法・僧を信じ敬う)ことを現わしている。浄土教系の宗派では「名号を奉唱すれば必ず極楽浄土に往生する」と説いている。
 嵐山町の名号塔は計16基を確認している。町内に阿弥陀如来を本尊とする寺院は9ヵ寺あるが、名号塔の造立はこれら寺院のある集落に見られる。

・題目塔(だいもくとう)
 経典などの題号を、本来は「題目」という。日蓮は法華経のなかに釈尊の教説の根本精神が含まれていると説き、法華経の題号である「妙法蓮華経」の上に、絶対帰依を意味する「南無」をつけて「南無妙法蓮華経」の七字を唱えることをはじめた。そして日蓮宗ではこれを唱えることが唯一の実践修行となった。
 題目塔を造立したのは日蓮宗信徒だけである。町内には題目講中の造立が8基、個人の造立が13基確認されており、造立地は日蓮宗寺院のある千手堂・鎌形に集中している。


嵐山町の石仏8 石造物の分類とその概要6 天部

2009年03月08日 | 嵐山町の石仏造立の背景

○天部(てんぶ)
 天部は仏を守ることを主な役目とする。天部の大半はバラモン教(後のヒンズー教)の神々が起源である。このうち梵天・帝釈天・多聞天(毘沙門天)に日天・月天・伊舎那天・火天・摩天・地天・水天・風天・羅刹天を加えたものを十二天という。「十二」は仏を完全に防護することに由来し、各天の守備範囲は北が多聞天、北東が伊舎那天、東が帝釈天、南東が火天、南が摩天、南西が羅刹天、西が水天、北西が風天、さらに上方を梵天、下方を地天、また昼は日天、夜は月天が守っている。
 嵐山町には石仏として水天が3基、日天が千手堂の槻川橋付近に1基ある。また天部には十二天のほかにも弁財天や大黒天、摩利子天などが石仏としての造立されている。

・水天(すいてん)
 天部のうち自然を神としたもので、日が日天、月が月天、水を水天などとした。嵐山町には水天は三基あるが像塔は見当らず、文字塔と石祠が見られ、文字塔は水源に、石祠は水田に近い畑中に造立されている。水天は弁財天、九頭竜権現などと共に水の守護神として祀られた。インドのベーダ神話から水の支配者として仏教に取り入れられたもので、十二天のうち西方を守る龍王とされる。水の災害を防ぎ、雨乞いを祈って造られたもののようである。

・日天(にってん)
 日天は日天子ともいう。サンスクリット語では「アディティヤ」である。太陽を仏教に採り入れた天部の一つで、もとはヒンズー教の神である。嵐山町の日天子は日待塔として造立されている文字塔が千手堂の槻川橋付近にあり、これが嵐山町唯一のものである。この日待塔に並んで題目塔が三基あるが、日蓮宗の開祖日蓮が日天子を崇拝していたといわれることと何らかの関連があるものと推測される。

・毘沙門天(びしゃもんてん)
 毘沙門天のもとの名は多聞天と言い、仏の世界の東西南北を守る四天王のひとりで、北方を守っていた。四天王とは持国天(東)・増長天(南)・広目天(西)・多門天(北)をいう。いずれも武神の像容で、忿怒の表情であり、毘沙門天は宝塔を手にすることが特徴である。
 四天一組で信仰されていたが、その信仰は早くから衰えたようで、毘沙門天だけが独尊で信仰が続いた。武神が福神へと変化し、七福神の一員となったのである。嵐山町の毘沙門天は文字塔が1基確認されているのみで、川島の鬼鎮神社境内の北面に文字塔が造立されている。

・弁財天(べんざいてん)
 弁財天の由来は他の天部の仏と同じように、インドのヒンズー教がもとになっている。「聖なる川」という名の通り、もとは水の女神であった。川は豊かな大地を潤すことから、豊かな実りの女神とされ、それから財宝を与える女神へと発展し、七福神の一員として福徳や財を祈る神に位置付けられた。
 弁財天造立の目的は池沼・河川・水源地など水辺に祭り水神として、また巳待供養の主尊として豊かな水を願うことであった。
 嵐山町の弁財天には像容のものはなく、文字塔が13基と石祠が1基ある。石祠の弁財天は1749年(寛延2)、講中による造立で、これが嵐山町における弁財天の初出のものである。この石祠は水源池の小島の中にある。文字塔弁財天のうち八基は個人による造立で、それ以外の四基は講中・村中といった集団による造立である。また造立者不明のものが1基ある。造立地は個人宅の庭池畔に3基、沼の堤上にあるものが4基、谷奥の湧水地に立つものが3基、寺院にあるものが2基、路傍にあるものが1基である。

・大黒天(だいこくてん)
 大黒天も元はヒンズー教の神で、武神として三面六手で真黒な恐ろしい姿であったが、仏教に取り入れられ日本に入ってきたときには、日本の大国主命と一体となりおだやかな姿に変化していた。また大黒天は台所の守護神という一面があったので、穀物の神、食物の神、財産を豊かにする神としても信仰されるようになった。江戸時代には現在知られるような米俵の上に立ち、小槌と大きな袋を持つ姿となり、恵比寿と共に七福神の代表的な存在となった。
 嵐山町の大黒天は立像と座像がそれぞれ1基ずつ、文字塔が6基あり、文字塔のうち1基は「甲子大黒天」となっている。この「甲子」でわかるように、大黒天の多くは甲子講中・子待講中によって造立されたものである。嵐山町の初出は1857年(安政4)で、1864年(元治元)までの間の造立は文字塔のみである。像塔2基はいずれも昭和期に個人で造立されたようであるが、年代は刻されていない。

・摩利支天(まりしてん)
 摩利支天はサンスクリット語で「マリーナ」と言い、その意味は「かげろう」で、仏教では日天と月天の前を目に見えないほどの速さで駆ける女性の天であるとされている。駆ける速さに加え、さらに偉大な神通力を持ち、すべての困難から免れるということが、仏教経典に述べられている。特に武士階級に信仰された。
 嵐山町には像塔が2基、文字塔が1基あり、像塔はごく最近、立像と座像が個人により、大蔵の大行院にごく最近になって建てられている。また文字塔は明治期に、時の剣術家によって造立されたものが志賀の宝城寺にある。

※嵐山町博物誌調査報告第8集『嵐山町の石造物1』(嵐山町教育委員会発行、2003年3月)掲載の島﨑守男「嵐山町の石仏造立の背景」(同書13頁~15頁)より作成


嵐山町の石仏7 石造物の分類とその概要5 明王

2009年03月07日 | 嵐山町の石仏造立の背景

○明王(みょうおう)

・不動明王(ふどうみょうおう)
 如来・菩薩の次の位に置かれるのが明王である。明王のうち、不動明王は最も良く知られ、その代表的存在である。大日如来の使者とされ、その姿は忿怒の相で、体は童子の形、右手に剣、左手には羂索を持っている。髪は束ねて、一部を編んで左肩から胸にたらし、がっちり座っている。これが不動明王の基本的な姿であるが、現存するものの中には両眼を見開き、りっぱな体格の立像もある。不動明王としての要点は、忿怒相、右手に剣、左手に羂索、後背に炎の四点が挙げられる。
 忿怒の相は、外に向けられるばかりでなく、自分自身の我欲・執着に向けるものでもある。剣は煩悩を切り捨て、光背の炎は煩悩を焼き滅ぼす意味がある。羂索は煩悩を縛りあげる縄であり、迷える衆生を救助するための網と考えられる。
 嵐山町では座像が三基、立像が二基それぞれ確認されている。

・馬頭明王(ばとうみょうおう)
 馬頭明王は嵐山町では唯一、文字塔が一基確認されている。古里他十一ヶ村の馬持中による造立である。観音が一様に慈悲相であるのに対し、馬頭観世音菩薩は忿怒相であるところから、馬頭明王とも呼ばれた。よって、この造立目的は馬頭観世音と同様のものと見ることができる。

※嵐山町博物誌調査報告第8集『嵐山町の石造物1』(嵐山町教育委員会発行、2003年3月)掲載の島﨑守男「嵐山町の石仏造立の背景」(同書13頁)より作成


嵐山町の石仏6 石造物の分類とその概要4 菩薩3

2009年03月06日 | 嵐山町の石仏造立の背景

・地蔵菩薩(じぞうぼさつ)
 地蔵菩薩は「お地蔵様」とか「地蔵尊」と呼ばれ、人々に常に親しまれてきた菩薩である。主に村の入口や街角、峠の頂上、墓地などに造立され、社会生活の中に良く溶け込んでいる仏である。また墓石の中にも地蔵菩薩を彫刻したものが多く見られる。
 地蔵菩薩は菩薩でありながら頭の上に宝冠をかぶらず、頭を丸く剃った僧侶形であらわされる。身体には袈裟と衣だけを着け、左手に宝珠を持ち、右手は与願印を示している。これがふつうに見る地蔵菩薩像である。また右手に錫杖を持つ場合もある。地蔵菩薩像は平安時代に木像として初めて出現し、それ以後諸仏のうち最も造像数が多い。石像も鎌倉時代から各地で造立されたというが、嵐山町にはそのような古い石像は見あたらない。
 「地蔵」という名の起りは「土地は万物を育てるもので、植物を生長させ、花を咲かせ実を結ばせる偉大な力を蔵しており、これと同様に地蔵菩薩はすべての衆生を救済する偉大な功徳の力を蔵することがあたかも土地のようであるところから、この名が起こった」と仏典には記されている。地蔵信仰の起源はインド仏教で、地蔵菩薩は釈迦入滅後、弥勒如来が現れるまでの仏不在時代に、この世の衆生を救済するのがその役割である。
 江戸時代に入り、地蔵菩薩を信仰して現世利益を受けるために、各地で石像が造られるようになった。庶民の望む救済は多種多様で、延命や安全・治病・子安子育・豊作などと数え切れないほどであった。またこの時代の地蔵菩薩像は立像が多いが、これは左手には宝珠、右手に錫杖をついてどこにでも行き、庶民の苦を救い平安をもたらす仏として、民衆が地蔵菩薩に期待する救済者の姿であった。
 地蔵菩薩は現世利益のほか、死者も救済する信仰でもある。現在でも交通事故や山海での遭難などによる故人のために、肉親や友人がその地に地蔵菩薩を造立し慰霊することが行なわれている。また子どもを亡くした親にとって、地蔵菩薩は唯一頼れる最高の仏であった。亡き子の墓石に地蔵菩薩を彫り、死後の救済を祈る風習は数え切れないほどである。
 地蔵菩薩が六体並んで寺院や墓地の入口などにあるのが「六地蔵」である。六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)の輪廻に苦しむ死者を現存者の供養により救済しようとする思想であり、死者をおだやかな浄土へ導くのが地蔵菩薩の力である。死者が六道のどこにいようとも、地蔵菩薩がそれぞれの姿であらわれ救済してくれるといった願いが、六地蔵には込められている。
 六角の石幢に六地蔵を浮彫にした石塔も見られる。寺院の本堂に装飾として吊られた幢幡があるが、六面石幢とはこの幢幡を六つ組み合わせた形を原型とし造られた石塔である。
 嵐山町の地蔵菩薩像はこれまで百基以上が確認されており、各大字すべてに造立されている。初出は1666年(寛文6)年で、1600年代には1基のみが確認されている。1700年から1720年までの間には20基が造立され、このうち17基は講中など集団によるものであり、個人による造立は残りの3基のみである。これ以後の造立は個人によるものが多い。造立の目的は、江戸末期までのものは念仏供養や経典読誦供養などが多く、二十三夜待や巡拝の供養、死者の菩提を願うものなども見られる。またそのほとんどが丸彫や浮彫等の像塔で、文字塔はわずかである。

※嵐山町博物誌調査報告第8集『嵐山町の石造物1』(嵐山町教育委員会発行、2003年3月)掲載の島﨑守男「嵐山町の石仏造立の背景」(同書12頁)より作成


嵐山町の石仏5 石造物の分類とその概要3 菩薩2

2009年03月05日 | 嵐山町の石仏造立の背景

・馬頭観世音菩薩(ばとうかんぜおんぼさつ)
 観音は皆一様に温顔で、慈悲にあふれた表情をしているため、顔を見ただけではその種類を当てることはたやすくない。しかし七観音のうち馬頭観世音菩薩だけは、三面ある顔のどれを見ても仁王像のような忿怒の相をしているため、すぐにそれと判別できる。
 馬頭観世音はサンスクリット語で「ハヤグリーバ」といい、これは「馬の頭を持つもの」の意味である。厳しい、怒った顔でなければ教化できない者たちに対する時に必要な姿である。馬首を頭上にのせるのは、古代インドの伝説にある転輪聖王の馬が悪魔を降伏させる力を持ち、また馬がものを食べるように、煩悩や迷いをむさぼり食ってくれるということに由来する。
 怒った顔が三面(ときに四面)、手は八本あるいは六本、正面の顔は眉間に目がある三眼。頭部に馬の頭をつけているのがその特徴である。馬の頭があることから、馬を守る仏と考えられるようになり、昔は馬が重要な交通手段であったことから、旅の安全を守ってくれる仏として、また馬の無病息災を祈願する仏として信仰されるようになった。この観音は牛馬に関係をもつ職業の人たちの講集団(例えば馬持中、村中)や個人に信仰されて造立された。また時代が下るに従い、特定の死馬供養の目的で造立され、墓標的な意味を持つものも出現するようになった。造立の場所は里道の分岐点、峠道の頂上、交通の難所、斃馬捨て場、屋敷内などである。
  嵐山町の馬頭観世音菩薩の分布と地区ごとの造立年代については次の分布図及び表のとおりである。

 図 嵐山町内における馬頭観世音菩薩の分布 準備中

 表 嵐山町内における馬頭観世音菩薩の地区別造立年代 準備中

※嵐山町博物誌調査報告第8集『嵐山町の石造物1』(嵐山町教育委員会発行、2003年3月)掲載の島﨑守男「嵐山町の石仏造立の背景」(同書10頁~12頁)より作成


嵐山町の石仏4 石造物の分類とその概要2 菩薩1

2009年03月04日 | 嵐山町の石仏造立の背景

○菩薩(ぼさつ)
 菩薩とは菩提薩埵(ぼだいさつた)の略語で、サンスクリット語の「ボーデイ・サットバ」がもとである。これは「悟りを目指して修行している人」という意味である。悟った人・ブッダ(仏陀)にはなっていないので、狭い意味だと菩薩像は仏像と言えないわけである。菩薩は如来(仏)の次の位にあって、将来は如来になる資格があるが、世の中の苦しむ人々を救済するまでは、人々のために尽くし如来(仏)にはならないことを信条としている。これが大乗仏教の菩薩であり、大乗仏教の経典をもとに多くの菩薩像が生まれた。菩薩像は修行僧の姿ではなく、インドの在家の貴族や商人の服装がもとになっている。在家の服装をした菩薩の表情は、如来と同様に女性的でおだやかな顔をしている。ただし怒りの顔の馬頭観世音菩薩だけは例外である。
 菩薩像は多面多手像が多く、一面二手の如来との違いを見せている。十一面観世音菩薩、千手千眼観世音菩薩、普賢菩薩は手が二十本もあり、文珠菩薩にも多手像がある。いろいろな人々に対するには顔がたくさんある方が良いし、救いのためにさしのべる手も数が多いほうが良いということである。
 また菩薩像は装身具で身を飾っており、ショールのような天衣(てんね)やタスキ状の条帛(じょうはく)、スカートのような裳(も)などを着けている。装飾品もイヤリング、ネックレス、ブレスレッドで飾り、地蔵菩薩以外は頭に宝冠をかぶっているのが特徴となっている。
 さらに、持物(じもつ)と呼ばれる持ち物を手にするのが菩薩である。例をあげれば、地蔵菩薩は杖や宝珠、観音菩薩の多くは蓮華(蓮の花)などであり、これらの持物はそれぞれ菩薩の能力を表わす意味がこめられている。

・弥勒菩薩(みろくぼさつ)
 弥勒菩薩はサンスクリット語で「マイトレーヤ」という。釈尊入滅の五十六億七千万年の後に、兜率天からこの世に降りてきて、釈尊と同じように悟りを開いて仏(如来)となり、衆生を救済するために法を説くと信じられている未来仏である。
 嵐山町の弥勒菩薩は文字塔のみ、二基がある。双方とも「大」をつけて「弥勒大菩薩」と刻されている。この「大」は菩薩の中の菩薩、偉大な菩薩という意味である。

・勢至菩薩(せいしぼさつ)
 勢至菩薩は古代インドのサンスクリット語で「マハースターマプラープタ」といい、これは「偉大な威力を獲得したもの」の意味で「大勢至」と訳されている。この仏は知恵の光明で人々を照らし、苦しみを除いてくれるといわれている。
 その像容は、阿弥陀三尊像では観音と同じように造られている。異なるところは、観音が宝冠中に弥陀の化仏があるのに対し、勢至菩薩の宝冠には水瓶(宝瓶)がついていることである。
 また勢至菩薩は十三仏の一尊としても造像されている。独尊としては、主に月待信仰・二十三夜待の主尊として造立されている。江戸時代以後のものは二十三夜待供養を目的としてはいるが、子孫安全を願う意味もあった。
 嵐山町の勢至菩薩に像容のものはない。十三仏としては菅谷の東昌寺に1基、二十三夜塔としては文字塔が志賀・吉田に各1基ずつある。

・聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)
 サンスクリット語では「アールヤアバロキテシュバラ」という。「アール」は「聖」、「アバロキテシュバラ」は「音を観る」の意味で、自在を表わす二つの言葉を合わせたものである。つまり「すべてのことを見知っており、自在に行動して衆生を救う」というのが聖観世音菩薩である。また観音の基本なので「正観世音菩薩」とも書く。
 聖観世音菩薩は現世利益をもたらしてくれる慈悲の仏である。観音の力や能力は法華経の「観世音菩薩普門品 第二十五章」に詳しく説明されている。これが有名な観音経である。終わりの部分には「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」という言葉が数多く出てくるが、これは「観音さまの偉大な力を念じれば、あらゆることから救われる」ということをあらわしている。それはすべての病気から天変地異に至るまで、およそ人間にふりかかるであろう災難の全てから救われることを意味している。聖観世音菩薩は現世利益の第一人者なのである。
 像容は右手が与願印、左手にはふつう蓮華(蓮の花)を持っている。蓮華は泥沼から清らかな花を咲かせるので、汚れのない仏の心を開かせようとする、清らかな理想をあらわしている。
 嵐山町の聖観世音菩薩は千手堂に1基、鎌形に2基、大蔵に3基、古里に3基、吉田に1基、広野に1基、杉山に1基の計12基が確認されている。

・十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんぜおんぼさつ)
 庶民の信仰の対象には移り変わりがある。まず聖観世音菩薩が厚く信仰されていたが、その後に変化観音が現われた。そのはじめが十一面観世音菩薩で、聖観世音菩薩にとって代る経過をたどる。観音は変化して人々を救うため、救われる方の望みが優先されるようになり、功徳や力が様々に解釈されるようになったのである。
 仏教では東西南北の間に北東・南東・南西・北西を加え八方、さらに上下を加えて十方という空間のとらえ方をする。この観音経の教義によって作られたのが十一面観世音菩薩であり、すべての方向にいる人々を救うことを表わしている。
 像容は前を向く本面のほかに十一面があるものと、本面と合わせて十一面のものがある。嵐山町には上部に聖観世音菩薩をのせた文字塔1基が、勝田の廃寺跡にある。

・如意輪観世音菩薩(にょいりんかんぜおんぼさつ)
 古代インドのサンスクリット語で「チンタマニチャクラ」といい、「如意宝珠と輪宝を持つ」という意味である。人々の願いを思うままにかなえてくれるのが宝珠である。また「チャクラ」とは輪のことである。仏教の教えを説き広めることを「輪を転がすこと」に例えている。
 如意輪観世音菩薩の像容は、右手を立て膝にして座る、あるいは椅子に座ったような姿で右足だけを曲げて左膝に乗せるといったものである。楽な姿で、右手を軽く頬にあて、少し考えるように首をかしげている。この形は思惟相(しゆいそう)と言い、苦しんでいる人々のことを心配している姿をあらわしている。像容としては五手、六手像が最も多く、右側の手の一本は思惟相、他の二本が如意宝珠と数珠を持ち、左は一本が左膝のほうに下り、あとの二本で観世音菩薩に共通の持物である蓮華と輪宝を持っている。このうち如意宝珠と輪宝が如意輪の名の由来で、如意宝珠で思うままに財宝をもたらし願いをかなえ、輪宝で人々の煩悩を打ち砕くとされている。
 如意輪観世音菩薩は二十二夜待講の主尊とされ、石仏としての造立は二十二夜待の供養塔が多い。嵐山町では根岸・将軍沢地区以外はすべての大字で見られ、いずれも二十二夜待講の供養塔として造立されているものがほとんどである。
 月齢の二十二日の夜に人々が一ヵ所に集まり、月待の信仰行事を行なうのが二十二夜待で、その信仰集団が二十二夜待講である。その供養のしるしとして造立したのが二十二夜塔である。この塔の造立の多くは講集団によるものだが、少数個人の造立も見られる。
 講には女人講中とするものが多い。他に○○村中、同行○○人、○○村と刻するものもあるが、これらはすべて女人講中とみなしてよいだろう。中には念仏講と共同の造立も一基確認されている。造立の場所は寺院境内、門前や村境の辻などである。
 二十二夜の表向きの行事は、願い事にご利益をいただくため、まず如意輪観世音菩薩に礼拝誓願礼式を行なう。これが終わると慰安会となり、飲食を共にして親睦を深め、情報交換などの場として和やかな講を開いたと伝えられている。

  図 嵐山町内における如意輪観世音菩薩(二十二夜塔含む)の分布 準備中

※嵐山町博物誌調査報告第8集『嵐山町の石造物1』(嵐山町教育委員会発行、2003年3月)掲載の島﨑守男「嵐山町の石仏造立の背景」(同書8頁~10頁)より作成


嵐山町の石仏3 石造物の分類とその概要1 如来

2009年03月03日 | 嵐山町の石仏造立の背景

 今回の調査により嵐山町で確認された石造物は、主として仏教関係の石仏が中心である。ここでは調査で確認された石造物をそれぞれの分類に従い、その概要について解説する。

○如来(にょらい)
 如来はサンスクリット語で「タターガタ」という。「正しく目覚めた人」という意味を持つ「ブッダ」を漢字にあてはめると「仏陀」、それを略して「仏」となる。如来は音ではなく、意味の上で仏陀を表わす言葉の一つである。
 正しく悟りを開いた「人」という意味では、実在の人物で悟りを開いたのは釈迦如来だけなので、如来は正確に言うと釈迦如来だけになる。その他に、釈迦のように教えをこの世で体現した如来、釈迦以前からある真理を示す形の如来や、それを人々に伝えるために出現した如来もある。
 仏像の基本となったのは釈迦の像容である。釈迦像の特徴にはまず「肉髻相(にくけいそう)」がある。頭の肉が盛り上がって髻(もとどり・髪を頭の上に束ねたところ)のように見えることでこう呼ばれ、像では頭頂部が大きくふくらんでいるように見える。頭部にはもう一つの特徴として「螺髪(らほつ)」があり、粒状のうずまきをした髪がそれである。左右の目の間で眉間の位置にあって、ホクロのように見える特徴は「白毫相(びゃくごうそう)」である。じつはホクロではなく、クルクル巻いた白い毛である。その毛を伸ばすと二メートル位になるとされ、これは仏の知恵を表わしている。仏像では丸い水晶がはめこまれている。
 如来像の体型は肉付きがよく、ふくよかに作られている。立像では手が長く、手先が膝より下にくるほどにつくられている。着衣にも如来共通の型が見られる。その姿は僧侶と同じスタイルで、袈裟だけを
つけた質素な形に統一されている。ただし大日如来だけは例外で、菩薩型の宝冠や装身具をつけている。
 嵐山町には如来の石仏は合計14基がある。

・釈迦如来(しゃかにょらい)
 釈迦如来(お釈迦さま)は他の如来と違い、インドに実在した人物である。釈迦族の出身で、悟りの境地に達した聖者であることから「釈迦牟仁」とか「釈尊」とも称されている。誕生から入滅まで種々の像が見られるが、座禅の姿(禅定印)と説法の像が多く造られている。禅定印像は法界定印に手指を組む座像である。説法の釈迦如来像は、座像と立像があり、右手で施無畏印(衆生のおそれや心配を取り去り救済すること)、左手で与願印(衆生のさまざまの願いを聞き入れてくれること)の形をとっている。また左手を与願印にせず、施無畏印と与願印を組にして説法の印と呼ぶこともある。
左手の掌(たなごころ)を下に向けて軽く指先を地面にふれるようにし(右手の場合もある)、もう片方の手は腹の前で拳を握る格好をしている像もある。これは降魔成道の釈迦像である。
 嵐山町には丸彫座像が菅谷に1基、文字塔が広野に1基あるだけである。釈迦如来の種子は「バク」。
 
・阿弥陀如来(あみだにょらい)
 阿弥陀如来は、衆生を苦しみのない、美しい極楽浄土に迎えてくれる如来である。その像はおだやかでやさしい顔をしている。表情や衣にはっきりした特徴はないが、唯一の特徴は手の形(印相)にある。阿弥陀の九品印といい九つの違った型があるが、よく見ると両手とも親指と小指以外の一本の指で輪を作るような形である。如来像を見たとき、両手とも指で輪を作っていたら、阿弥陀如来と見て良いだろう。浄土宗では阿弥陀如来を本尊として、「南無阿弥陀仏(名号)」の念仏を唱えれば、西方極楽浄土に迎えられるという信仰が行なわれていた。中世から近代まで阿弥陀仏信仰は「念仏講」などを通して、最も民間に広まった信仰である。
 嵐山町では阿弥陀如来像は2基が大蔵向徳寺内、1基が古里にあり、文字塔は広野に1基ある。

・甘露王如来(かんろおうにょらい)
 甘露王如来は阿弥陀如来のまたの名である。施餓鬼でいう、五如来(宝勝・妙色身・甘露王・広博身・離怖畏)のうちの一如来で、阿弥陀仏と同体である。「如来の教えや智慧が甘露となって、身心の悩みを除き、長寿を保たせる徳を象徴して甘露王というのだ」と、経典は述べている。嵐山町に像塔はなく、文字塔が鎌形に1基確認されている。

・薬師如来(やくしにょらい)
 薬師如来は現世の渇きのすべてを満足させる、現世利益の如来である。東方にある浄瑠璃浄土の教主で「薬師瑠璃光如来」とも呼ばれる。
 また薬師如来は物を持つ唯一の如来で、多くの薬師像は薬壷(やっこ)という持物を手にしている。また薬師如来の「薬師」とは、今日の医師の意味で、病気を治す仏である。薬師如来が仏になられるとき、十二の大願をおこし、心身に障碍のある人、病に苦しむ人を快復させ、安楽な生活がおくれるよう願った。「諸根具足願、除病安楽願」がこれにあたる。このように薬師如来は医薬の仏として、古くから信仰され、人々から敬愛されてきた。
 像容は左手に薬壷か宝珠を持ち、右手は施無印を結ぶのが一般的で、座像と立像が見られる。嵐山町には大蔵に座像が1基ある。また広野に文字塔が1基ある。薬師如来の種子は「バイ」。

・大日如来(だいにちにょらい)
 大日如来は、真言宗系統の密教では特に、あらゆる仏の中で最高の位置にいるとされている。他の如来像が着衣も簡素なもので、質素ですっきりした姿をしているのに対し、大日如来だけはりっぱな宝冠をかぶり、瓔珞(ようらく・首飾りのようなもの)をかけ、腕に臂釧(ひせん)腕釧(わんせん)といったリングをつけ、菩薩のように豪華な像容となっている。
 大日如来のもとの言葉はサンスクリット語の「ヴァイローチャナ」で、「太陽の子」という意味である。また「摩訶毘盧遮那仏(まかびるしゃなぶつ)」とも呼ばれている。大日如来像は座像で、一面二手、豪華な装飾を身につけ、法界定印(ほつかいじょういん)か、あるいは智拳印を結んでいる。菩薩型の像で、このどちらかの印を結んでいれば、それは大日如来と思ってよいだろう。法界定印は最高の悟りを意味している。智拳印は左手の親指を中に入れて、人差し指を立てた拳を作り、その人差し指の第一関節から上を右手の拳で握りこむ形をしており、これは最高の判断力である「智」を表わしている。法界定印の大日如来と智拳印の大日如来は形の上で二体に分けられているわけではない。大日如来は仏教の二大要素である「理」と「智」を象徴するための二体が存在するのである。法界定印の大日如来が示す「理」の世界を「胎蔵界(たいぞうかい)」、智拳印の大日如来が示す世界を「金剛界」と呼ぶ。曼荼羅の本当の意味は、大日如来の世界を図で構成したものである。両如来の見分け方には他に種子がある。種子とはそれぞれの如来、菩薩、明王、天などの諸仏をシンボル化して、梵字の一字で表わすものである。胎蔵界大日如来は「ア」で、金剛界大日如来は「ヴァン」で表わしている。
 嵐山町には綜彫座像のもの1基が志賀に、文字塔3基が大蔵に、1基が越畑にある。
※嵐山町博物誌調査報告第8集『嵐山町の石造物1』(嵐山町教育委員会発行、2003年3月)掲載の島﨑守男「嵐山町の石仏造立の背景」(同書5頁~8頁)より作成