嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

戦争従軍記念碑

2008年08月31日 | 千手堂

 日本は明治維新を経て近代国家の建設をめざしたが、その過程で他国と戦争をするという歴史を持っている。その歴史は、他国の人に多くの犠牲を与えるとともに、日本の従軍(じゅうぐん)した兵士の父母や兄弟や子どもにも肉親を失うという悲惨な現実をもたらした。
 嵐山町域(ちょういき)の神社や寺院などの境内(けいだい)に、従軍記念碑がいくつか建てられている。千手堂(せんじゅどう)の春日(かすが)神社の社殿の脇には、「従軍之碑 殉国(じゅんこく)者芳名」と題された石碑がひっそりと建っている。碑の表には、日露戦争と太平洋戦争で戦死した千手堂出身の兵士十一名の名前が刻(きざ)まれている。二十歳から三十三歳の年齢の若者である。戦死した兵士の想(おも)いと前途ある肉親を失う家族の悲しみが迫(せま)ってくる。碑には続いて五十余名の従軍者の名前も刻まれている。つぎは裏面の文である。

ここに刻みしは明治二十七年の日清戦争より昭和二十年大東亜戦争終熄(しゅうそく)までの各戦役に従軍せし六十有余名の氏名なり。干戈(かんか)斂(おさま)りて二十五年生存者一同相謀(あいはか)り忠魂の義烈を千載(せんざい)に留め併せて故人の雄魂を鎮(しず)めんとして碑を建つるものなり
  昭和四十五年十月二十五日建之
       千手堂従軍者一同

 越畑(おっぱた)の八宮(やみや)神社の石段の脇には「日清・日露戦役記念碑」が建てられている。裏面には越畑地区から従軍した兵士の名前が刻まれている。日清戦争の従軍者が五名、日露戦争の従軍者が十七名、一名が戦病死(せんびょうし)。そのうち四名は両戦役(せんえき)に従軍している。碑は明治四十年十一月、つまり日露戦争後間もなく建てられたもので、碑の表の題字は陸軍中将(ちゅうじょう) 男爵(だんしゃく) 佐藤延勝(のぶかつ)の書である。

 遠山(とおやま)の八幡(はちまん)神社にも登り口の右に、「従軍の碑  殉国者芳名」の碑が建てられている。碑の表には各戦争ごとの従軍者の名前が記されている。日清戦争一名、日露戦争九名、太平洋戦争五十九名。その中には戦死者もいる。裏面には戦死者への想いを込めた文が記されている。

(前文略す)大東亜戦となり戦線広域に亙(わた)り、遂に武運拙なく鉾(ほこ)を納めて終戦となる。我等戦友殉国の忠魂に合掌し、在りし日を偲(しの)びて碑に記す。
  昭和五十六年十一月吉日建之
       遠山従軍者一同

 なお菅谷館跡(すがややかんせき)の一角には、西南戦争以来の各戦争で戦死した嵐山町域出身者の霊を祀(まつ)る祠(ほこら)がある。
 こうした神社や館跡に建てられている記念碑の他に、広野(ひろの)の広正寺(こうしょうじ)の境内には、高さ約二メ-トル幅一メ-トルの大きな「芳魂(ほうこん)供養塔(くようとう)」がある。これは日清・日露戦争以来の檀家(だんか)の戦没者三十六人の霊を供養するためのものである。
 日本の平和憲法が制定される前に嵐山町域でも、多数の戦死者がいたのである。
   博物誌だより   (嵐山町広報2004年3月)から作成


猿の彫られた庚申塔

2008年08月10日 | 吉田

 道を歩いていて怖(こわ)い顔をした仏様(ほとけさま)や下の方に猿が彫(ほ)られた石造物を見かけたことはありませんか。それは庚申塔(こうしんとう)で、正面の真ん中に彫られているのが、病魔・病鬼を払い除くといわれる青面金剛です。青面金剛(しょうめんこんごう)の腕は六本、手には、弓、矢、剣、矛(ほこ)、綱、輪などを持っています。なかには邪鬼(じゃき)を踏みつけているものもあり、強い力の持ち主であることを示しています。

 嵐山町内には広野・八宮(やみや)神社前の百庚申(ひゃくこうしん)群を入れて二百基以上の庚申塔があります。庚申塔の形はいろいろあり、文字だけを刻(きざ)んだものもありますが、文字と青面金剛像、太陽、月、猿、鶏、鬼などの絵を組み合わせて彫られたものもあります。町内にある庚申塔のなかで、猿が彫られているものが四十基あります。三匹の「見ざる、聞かざる、言わざる」を彫ったものが三十四基、一匹のものが六基です。

 吉田第三配水場のタンク付近の石仏群中の庚申塔は1685年(貞享2)に作られたものです。塔の上部から中央にかけて「奉納(ほうのう)二世安楽(にせあんらく)」と文字が刻まれ、中央部には三猿が彫られています。二世とは現世(げんせ)と当世(とうせ)(当来の世)を指し、日々の暮らしに追われるこの世の安穏(あんのん)とあの世での極楽往生(ごくらくおうじょう)を願い、二十五名の人びとが金銭を出し合ってこの供養塔(くようとう)を造立(ぞうりゅう)したのです。

 遠山寺入口にある1800年(寛政12)造立の庚申塔以外は、三匹の猿が行儀良く並んで座っています。三匹が正面を向いて座っているものが二十三基、両脇の猿が中央正面向きの猿に向かい合うものが九基あり、これらは塔の下部に彫られています。

 猿が一匹のものでは、三番叟(さんばそう)を舞うもの四基、棒状のものを振りかざし動きまわる姿のものが二基あります。

●写真

上の写真は、志賀・観音堂(かんのんどう)にある1735年(享保20)の庚申塔下部を写したものです。剣先烏帽子(けんさきえぼし)をかむり狩衣(かりぎぬ)姿の猿が、右肩に幣束(へいそく)のようなものを担(かつ)ぎ左手に鈴を持って、祝賀の舞いを踊っている姿が彫られています。

 猿と庚申信仰との関係は明らかではありません。六十日ごとにめぐってくる庚申(かのえさる)の夜、身を慎んでお祈りをし夜明かしをする庚申講の集まりを三年間続ければ、現世安穏・長寿万歳・五穀豊饒(ほうじょう)が約束される。猿に三番叟を舞わさせたのはこの大願成就(じょうじゅ)を祝福するものとも考えられます。

博物誌だより114( 嵐山町広報2004年1月号掲載)から作成


大正・昭和の道標

2008年08月09日 | 吉田

江戸時代の道標(みちしるべ)には石仏・石神が利用されていたが、明治以後のものは独立したものである。嵐山町内には、明治時代の道標はないが、大正時代に建立されたものが三基、昭和初期のものが一基確認されている。

太郎丸の道標(1925年)
          形態 四角柱・安山岩製
(正面)南・菅谷方面 菅谷駅迄(まで)約十五丁途中ヨリ分レ川島鬼鎮神社ニ至ル約八丁松山町迄約二里
(左)西・役場学校方面 本村学校迄約三十丁途中ヨリ分レテ小川町ニ至ル約[
(右)東・宮前村方面 次ナル大字ハ水房(みずふさ) 菅谷熊谷県道[
(裏)大正十四年八月 七郷村軍人分会第七班太郎丸支部

現在、県道嵐山深谷線(昭和35年県道となった本田月輪線)となっている道路は、嵐山病院北で丁字路(ていじろ)となり、西に迂回して回り込んで若草保育園前に出ていた。田幡家の前にあった道標は、県道が北に直線化され現在の十字路になった時に、南東の路傍に移設されたのである。

吉田の道標(1933年)
          形態 四角柱・安山岩製
(正面)東・本村勝田宮前村ヲ経テ松山町ニ至ル約十一粁(キロ)約三里
(左)南・本村廣野太郎丸ヲ経テ菅谷方面鬼鎮神社至約五粁約一里十町
(右)北・手白神社ヲ経テ小川熊谷縣道ニ至ル約五五〇米約五丁
(裏)昭和八年一月 七郷村青年団吉田支部

吉田の道標(下吉田島田理容店北の三叉路(さんさろ))の距離は尺貫法とメートル法が併記されているが、二基の道標に共通することは次のことである。

1.人馬、荷車の交通の時代であったので利便上、低い位置に設置されている。
2.丁字路の正面に設置されている。三叉路は、行き先を判断することがむずかしい地点であったからである。
3.表示内容は主要な道路や町への道筋をあげている。
4.鬼鎮神社への道筋をあげている。
5.建立者が在郷軍人分会や青年団と記されている。
6.この種の道標建立の最大目的は、陸軍が軍事演習を行うとき、円滑に行動するためのものであった。在郷軍人や、やがて兵役に服する青年団員はこれを支援する立場で建立したのである。

博物誌だより112(嵐山町広報 年 月掲載)から作成