嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

比企西国札所27番千手院

2008年09月05日 | 千手堂

 大平山(おおびらやま)を背にした山麓に比企西国札所二十七番普門山(ふもんざん)千手院がある。参道を上って、六道地蔵の手前の内田勇家墓地にある六十六部納経塔は、下野国南摩(なんま)(現栃木県鹿沼市)の人、牛久十蔵の供養塔である。1748年(寛延元)、諸国巡礼の途上、この地で倒れた。

  千手堂の由来
 1941年(昭和16)1月、本尊の初開帳の日、惣代(そうだい)の一人である瀬山光太郎氏が持参したという「千手観世音由緒(ゆいしょ)」によれば、村上天皇の時代、962年(応和2)に千手観音堂が建てられたという。醍醐・村上天皇の時代は天皇親政が実施され、のちに「延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の治」とよばれたが、貴族が支配する社会のもとで有力な農民層が武装し、地方に武士団をつくり始めていた。平将門や藤原純友が活躍した「承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱」もこの時代である。国は生活に困った人たちに施しを行い、社会の不安を鎮めるために諸国に神社や寺院を建立して信仰することを勧めていた。千手堂の本尊は、一切衆生(しゅじょう)を救おうとする慈悲深い千手観音であった。1896年(明治29)の「寺籍財産明細帳」によれば、その千手観音像は949年(天暦3)、村上天皇自作のものであったという。

  千手院の時代へ
 その後何度か観音堂の焼失があったが、1546年(天文15(てんぶん))に亡くなった遠山の遠山寺二世の幻室伊蓬(いほう)和尚を開山として千手院が創建された。千手観世音を祀るお堂であったものが、ここに寺院としての形を整え、曹洞宗の千手院となったのである。

  寺院の焼失と再建
 1876年(明治9)3月19日、千手院は火災によって焼失した。それから七年後に、観音堂再建の取り組みが本格的に開始された。住職沢田俊明(しゅんめい)を先頭に、千手堂村をはじめ、松山町、遠山、平沢、鎌形、菅谷、大蔵、志賀、広野、越畑、杉山、小川、玉川、月輪の各村の募縁(ぼえん)世話人が活躍して寄付を募った。当時の檀家数はわずか二十戸、それだけに各地域の協力を得ての再建であり、本堂は杉山村豊岡(とよおか)にあった蔵身庵(ぞうしんあん)の建物を購入した。

  寺院の庭で剣術指導
 沢田俊明は甲源一刀流の名手で、1880年(明治13)から、剣術の門人をとって指導を始めた。焼け跡の寺院の庭で、若者たちが集まって技を磨いた。その中に後の名剣士瀬山鉄五郎がいた。彼は『英名録』という自らの剣の記録を残している。千手院本堂入口正面には、彼が願主となった御詠歌の奉納額が掲げられている。

   雲かすみ たなびく峰の千手堂

          心は 法(のり)の花の一筋

 比企西国札所めぐりの御詠歌集では、「雲かすみ 輝く峰の千手堂 心は 法(のり)の花の一筋」とあり、「たなびく」ではなく「輝く」が比企西国札所創設期のものである

  博物誌だより128(嵐山町広報2005年3月)から作成


比企西国札所26番多田堂

2008年09月05日 | 菅谷

 菅谷(すがや)の東昌寺(とうしょうじ)の山門を入ると、すぐ左側に観音堂(かんのんどう)がある。この観音堂の前身が多田堂で、岡松屋の道路向にある菅谷自治会館の場所、字東側(ひがしがわ)の菅谷154番地にあった。

  秀忠の乳母と岡部氏
 多田堂の本尊は千手観音(せんじゅかんのん)である。これは徳川将軍家二代秀忠の幼少期に乳母(うば)を勤めた岡部局(おかべのつぼね)が持仏(じぶつ)にしたことに由来すると言われている。菅谷の地は江戸時代の前半期は旗本岡部氏の知行地(ちぎょうち)であった。岡部氏の嵐山町域の知行地は他に、志賀(しか)、太郎丸(たろうまる)、勝田(かちだ)、滑川(なめがわ)町域では中尾(なかお)、水房(みずふさ)などがあった。岡部氏の先祖は岡部主水(もんど)という。主水の父は今川義元の家臣川村善右衛門(ぜんえもん)、母は岡部與惣兵衛(よそべい)の娘である。善右衛門は若くして亡くなり、妻は徳川家康に召し出され、幼い秀忠の乳母を勤めた。やがて主水も家康に仕えたが、家康から母方の岡部姓を名乗るように言われ、岡部主水と称した。

 岡部局は、将軍秀忠の病気全快のお礼と武運(ぶうん)長久(ちょうきゅう)を祈願して江戸の池上本門寺(いけがみほんもんじ)に五重塔を寄進(きしん)した。これは関東地方に現存する最古・最大の塔で、近年、全面解体修理が施(ほどこ)された。国指定の重要文化財である。

  多田堂の由来
 菅谷に居住していた多田七左衛門は、元禄期に岡部藤十郎(とうじゅうろう)から知行地菅谷村の支配を命じられた。二代目多田平馬重勝(ただへいましげかつ)は岡部家から十石(こく)五人扶持(ぶち)を与えられ、多田家は「陣屋(じんや)」と言われるようになった。岡部氏は菅谷の長慶寺(ちょうけいじ)跡地と伝えられた土地を1706年(宝永3(ほうえい))、多田家に与えた。長慶寺は畠山重忠が菅谷館(やかた)のかたわらに建て、後に館の鬼門(きもん)よけの地に移した寺と言われている。多田家は岡部家から賜(たまわ)ったこの地にお堂を建て、岡部局が持仏として信仰していた千手観音を祀(まつ)って多田堂と名付け、その地を多田家の墳墓(ふんぼ)の地とした。

 多田堂建立(こんりゅう)のいきさつは、菅谷自治会館の脇にある多田家の墓地にある高さ約2mの石碑に刻まれている。この碑は1797年(寛政9(かんせい)9)、三代目多田一角英貞(いっかくひでさだ)により建てられた。

 多田堂(ただのどう)は1723年(享保8(きょうほう)8)、比企西国(ひきさいごく)二十六番札所(ふだしょ)となり、人々の信仰をあつめて賑(にぎ)わった。その御詠歌(ごえいか)は次のとおりである。

頼(たの)め多田 菅谷木陰(こかげ)の 雨宿(あまやど)り

       誓(ちか)ひもらさじ 葉桜(はざくら)の笠(かさ)

 幕末には多田堂の維持が困難になり、菅谷村の人たちが維持に協力し、地元では千日堂(せんにちどう)と呼んでいたが、明治になって多田山(たださん)千日堂と改称、毎年9月20日に祭典の行事を行ってきた。1935年(昭和10)12月3日の菅谷の大火で間口(まぐち)二間四尺(約4.9m)奥行(おくゆき)三間四尺(約6.7m)の本堂は全焼。現在は東昌寺境内(けいだい)に観音堂として再建されている。

   博物誌だより123(嵐山町広報2004年11月)から作成


比企西国札所25番御堂山

2008年09月05日 | 太郎丸

 観音(かんのん)(観世音菩薩(かんぜおんぼさつ))は三十三の姿に変身して人びとを救うとされ、その教えが元となって各地に観音霊場(れいじょう)、札所ができました。町内の路傍や墓地にある「奉納百番供養塔(ほうのうひゃくばんくようとう)」と刻(きざ)まれた石碑は、百か所の観音様をおまつりしたお寺を巡(めぐ)って無事に帰って来られたことを感謝して造られたものです。お寺を巡って参拝することを「巡拝(じゅんぱい)」ということから、これらの石塔を巡拝塔といいます。巡拝は巡礼(じゅんれい)や遍路(へんろ)とも呼ばれています。

 百番とは、西国(さいごく)三十三か所(近畿地方二府五県)・坂東(ばんどう)三十三か所(関東地方一都六県)・秩父(ちちぶ)三十四か所(埼玉県秩父郡市)の全部あわせて百か所の札所(ふだしょ)のことです。観音信仰は江戸時代中頃(1700年代)から盛んになりました。町内にある巡拝塔も寛政(かんせい)年間(1789年~1801年)以降のものなので、このころから経済的に余裕のある農民層に巡拝が広まっていったと考えられます。また、月山(がっさん)・湯殿山(ゆどのさん)・羽黒山(はぐろさん)の出羽三山(でわさんざん)や四国などの地名が刻まれているものもあり、各地の霊場を巡り歩いたこともわかります。

 西国や坂東の霊場巡りは日にちがかかり、道中(どうちゅう)の諸経費の負担も大変でした。そこで各地に、西国・坂東の札所をまねた霊場がつくられ、観音巡礼をより身近なものにしました。

 比企西国札所は、享保8年(きょうほう)(1723)に穏誉浄安(おんよじょうあん)により開かれたといわれ、東松山市九か所、吉見町一か所、川島町十二か所、滑川町四か所、嵐山町六か所、小川町一か所の比企郡内あわせて三十三か所のお寺やお堂を巡る全行程約60㎞のコースです。

 嵐山町内では、第二十五番御堂山(みどうやま)が最初の札所になります。御堂山は大字太郎丸(たろうまる)にある嵐山病院の東、滑川町境にある小高い山で、南には市野川(いちのかわ)が流れています。西側の石段を登ると中腹に小さなお堂があります。お堂はかなり荒れており、本尊の聖(しょう)観音像は盗まれてありませんが、観音はどんな状況の中にいる人にも救いの手を差しのべてくれる仏様ですので、お詣りする人があり、信仰は現在も続いているようです。

 札所を巡拝して唱(とな)える御詠歌(ごえいか)はお経を唱えるのと同じ功徳(くどく)があるとされています。御堂山の御詠歌は次のとおりです。「法(のり)」は仏の教え、仏法、「たつき」は事をなすための拠り所、手段の意味です。

篠原(しのはら)を分(わ)けつつゆけば御堂山(みどうやま)

           法(のり)をたつきの道(みち)しるべにて

       写真:1954年(昭和29)、御堂山から撮影

   博物誌だより122(嵐山町広報2004年9月)から作成


菅谷神社の伊勢講記念碑

2008年09月05日 | 菅谷

 菅谷(すがや)神社参道の杉の木立の間に石碑が二つ並んでいる。

 左にある石碑の上部には、四行八字の篆書(てんしょ)で「神聴無響霊監無象」とあり、「神ノ響無キヲ聴キ(かみのひびきなきをきき)霊ノ象無キヲ監ル(たまのかたちなきをみる)」と読める。神は人に乗り移っての託宣(たくせん)を、霊は夢枕(ゆめまくら)に立つことを言うのだろうか。下側には、「悠々(ゆうゆう)タル我(わ)ガ皇紀(こうき)二千六百年。聖徳(せいとく)ハ八紘(はっこう)ヲ掩(おお)ヒ国光(こっこう)は普(あまね)ク照(てら)シ、宜(よろ)シク新東亜(しんとうあ)建設スベシ。其(そ)ノ基礎ハ愈々(いよいよ)堅(かた)ク、伊勢講同人崇敬(すうけい)シ以(もっ)テ相(あい)連(つらな)リテ、橿原(かしはら)神宮ヲ拝(はい)シ大廟(たいびょう)ヲ謁(えつ)シ虔(けん)ヲ致(いた)シ、国土平康(へいこう)ヲ祈(いの)リ豊穣(ほうじょう)肥鮮(ひせん)ヲ願ヒ、武運(ぶうん)長久(ちょうきゅう)ヲ希(こいねが)ヒ家内(かない)安全ヲ望ミ、菅谷神社ニ会(かい)シ禊事(けいじ)ヲ脩(しゅう)シ、神前ノ壌(つち)ニ接スル壱反歩(いったんぶ)併(ならび)ニ壱百円ヲ献(けん)ジ、杉ヲ植ヱ神木(しんぼく)ト為(な)シ、文(ふみ)ヲ作リ石ニ刻(きざ)ミ伝(つた)フ。/皇紀(こうき)二千六百年四月三日 小柳通義撰文(せんぶん)併書[花押(かおう)]/菅谷村伊勢講同人(どうじん)之(これ)ヲ建ツ」とある。裏面には講元山岸徳太郎、世話人8名、伊勢講同人30名の名前が刻まれている。この碑文の作書者小柳通義(おやなぎつうぎ)は儒学者(じゅがくしゃ)で、二松学舎の創設者三島中洲(みしまちゅうしゅう)の門下、また菅谷館跡の畠山重忠像の建主であり、像の傍(かたわら)の碑文「重忠公冠題百字碑文」の作者でもある。

 その右にある石碑は皇紀(こうき)二千六百年紀念事業寄付者芳名(ほうめい)で、菅谷村伊勢講同人33名が九四五円と土地一反歩(三〇〇坪)を寄付していることがわかる。これらの石碑が立てられた1940年(昭和15)は、(皇紀)紀元二千六百年奉祝(ほうしゅく)の年であり、この人達も伊勢神宮と橿原神宮(かしはらじんぐう)を参拝した筈である。当時、鉄道省は両神宮参拝のセット割引乗車券を発行しており、橿原神宮正月三箇日(さんがにち)の参拝者は125万人で前年の20倍であったという。

 1937年(昭和12)に始まった日中全面戦争は長引き、国民生活は悪化し、東京オリンピックや万国博(ばんこくはく)は中止の止むなきに至った。その為にも紀元二千六百年祭は年頭より盛大に行われた。橿原神宮を中心に諸行事が行われ、極め付けは政府主催の紀元二千六百年式典で11月10日より14日まで宮城前広場で実施された。それらは「万世一系(ばんせいいっけい)・東亜安定・世界平和」をうたいあげたものだった。

 因(ちな)みに皇紀とは、日本の建国神話に初代天皇として登場する神武(じんむ)天皇が、日向(ひゅうが)から東進し大和(やまと)地方を平定の後、大和の橿原(かしはら)の宮で即位したとされる年を皇紀元年と定めた紀元である。古代から中国には千二百六十年毎の辛酉(しんゆう)の年には大革命が起きるという辛酉革命説がある。聖徳太子(しょうとくたいし)が推古天皇の摂政(せっしょう)であった西暦601年(干支(えと)では辛酉(かのととり))の千二百六十年前の辛酉年に大革命があったなら、それは神武天皇の即位であるとして、政府は1872年(明治5)、皇紀元年は西暦紀元前660年と決定した。翌年、神武天皇即位の日(紀元節)は太陽暦で2月11日、崩御(ほうぎょ)の日(神武天皇祭)は4月3日であるとされ、それぞれ祝日となった。また橿原神宮(かしはらじんぐう)は1890年(明治23)に創建された神社である。

   博物誌だより121(嵐山町広報2004年8月)から作成