嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

吉見町の元巣神社近況 1985年

2009年01月31日 | 吉見地域

   どうか円満に別れさせて “離婚の神様”繁盛記
     ひっそりと祈る姿哀れ 全員女性、宮司も戸惑い顔
 いよいよ結婚シーズン。出雲神様は、日本全国駆けずり回ってカップルの縁結びに大忙し。だがその陰で、一度結んだ縁(えにし)の糸をほぐす神様が、このところちょっとした評判になっている。「離婚」は、社会の価値観や意識の変化を色濃く反映し、このところ増加の一途をたどっているが、世間の目をのがれ、「どうか別れさせて下さい」と神に祈る姿は、いかにも哀れ。この離婚の神様繁盛記は、当の神様も複雑な思いでいることだろう。

 ▼祭神は女の神様
 話題の神様は、比企郡吉見町江綱一五〇一の元巣神社。創立は明らかではない。というのは今から二百四十余年前の寛保二年(1742)夏の大洪水で神社に伝わる古記録がすべて流失してしまったからだ。
 したがって言い伝えによるしかないが、大和の畝傍山の社(橿原神宮)から遷霊奉斎したのに始まり、室町時代の天文元年(1532)に藤原重清がこの地に下向し、当時、同地域はしばしば水害に見舞われ、庶民が難儀していたのをあわれんで、もろもろの災厄防除を祈願したという話が残っている。
 祭神は、啼沢女命(なきさわめのみこと)という女の神様。では、この神様が、今、なぜ離婚の神様として脚光を浴びているのだろうか。
 同神社の宮司である馬場福治さんは、「元巣という神社の名前に大いに関係があるのだと思います。このあたりには古くから、“元巣”を元の巣に戻ると解釈し、心に悩むことすべてが、元のいい状態に戻りますようにと祈願する“元巣信仰”があったようです。離婚は正にお互いが元の巣に戻ることですから…」という。元巣神社は、現在、ここにあるほか、奈良、静岡にある。いずれも離婚祈願が増えているのだろうか-。
 神社のわきで酒、プロパンガス、雑貨の販売をしている氏子総代の間下治男さんは「この地域の人たちは、結婚式に行く際は、元巣様の前を通りません。元に戻って夫婦別れしてしまうという言い伝えがある空です」という。昔は新婦が新郎の家へ行列を組んで嫁いで行った。どの行列も「元に戻っては大変」と神社の前をよけて、わざわざ遠回りをして行ったという。「いまも結婚式に行く際は、神社の前を通りませんよ」と間下さん。今なお地域の人たちの間には、“元巣信仰”が根強く生きている。

 ▼増える離婚件数
 こうした言い伝え、習慣が、いつの間にか元巣神社を“離婚の神様”の座に祭り上げてしまったのだろうか。
 馬場宮司は「どのくらいの祈願者があるか分かりません。一年に十人程度ですが、はっきりと離婚祈願にくる人がいます。世相の反映ですかね」という。それもここ数年のことという。
 県の人口動態調査では、昨年一年間に七千八百九十三組の夫婦が離婚した。これは一日に二一・六組、一時間六分四十六秒に一組の割合で夫婦が別れたことになる。五年前に比べると二五%、二十年前に比べると実に四・四倍に急増している。
 離婚件数が増えれば、トラブルも増える道理。昨年、浦和家庭裁判所に持ち込まれた離婚調停は千九百件、こちらも確実の増えている。いってみれば、話し合いがこじれ、ニッチもサッチもいかなくなり、やむを得ず裁判所へというケースだ。財産分与、慰謝料、離婚後の養育費問題など、そこにはさまざまな難問がある。
 県教育委員、弁護士で家裁の調停委員として数多くの離婚事件を扱っている伊藤政子さんは「さまざまな離婚を扱いながら賢い離婚の選択の難しさを痛感します。離婚の現実は予想外に厳しい」という。俗ないい方をすれば、確たる見通しも設計もなく、ひっつくのも早ければ、別れるのも早い-そんな風潮を反映して、離婚は増える一方だが、一つ一つのケースに足を踏み込めば、ドロドロしたものがあるのが当然のことだ。そこで神様の袖(そで)にすがることになる。

 ▼再び幸せの道を
 「この間も川越の人でしたが、円満に別れることができました、とお礼に来られた人がいました。離婚祈願といっても、お互いが再び幸せな道を歩むことができるようにというのが祈願の目的です。それにしても世相ですかね…」と馬場宮司は、元巣神社に祈願すれば、離婚できるという評判に戸惑い顔だ。
 祈願に来る人は、今のところ全員女性。家裁の調停申し立ても七四%強が妻からのもの。この数字は何を意味するのだろうか-。
     『埼玉新聞』1985年(昭和60)9月23日


坂東11番札所・岩殿山安楽寺 吉見観音

2009年01月27日 | 吉見地域

 『朝日新聞』(夕刊)2009年1月26日「街・メガロポリス・ひと」に「恋愛運アップ」若い女性殺到/埼玉・吉見観音/モデル紹介きっかけ 元日200メートルの列という見出しの記事がある。女性モデルの「御利益発言」をきっかけにインターネットで広まり、初詣の参拝客は例年の1.5倍にというもの。吉見観音は坂東11番の札所。1978年頃の巡礼の記事があったので以下紹介する。

   坂東札所 素通り“バス巡礼”
        一時は20軒近い茶店も

 秋の秩父路にお遍路さんの姿が目立つ。今年の秩父の札所は、十二年に一度の午歳(うまどし)総開帳が行われており、どこも例年にないにぎわいだ。庶民信仰の対象として人気を集めてきた札所巡りだが、県内には、この秩父の札所をはじめ、十四の霊場がある。
 この中の“名門コース”と言ったら坂東三十三カ所霊場だろう。最古の歴史を誇り、西国三十三カ所と並び称せられる伝統と格式はピカ一。県内にはこの札所が四カ所ある。このうち二カ所が比企郡内だ。拠点の十一番・岩殿山安楽寺を吉見町御所に訪ね、巡礼たちの足音に耳を傾けてみよう。
 吉見の観音さまとして知られる安楽寺は、なだらかに比企丘陵の中腹にあり、どっしりとした山門をくぐると、三メートルの露座の大仏と十八メートルの朱の三重塔(県重要文化財)を従えるように寄せ棟造りの本堂がデーンを構える。付近一帯は、御所の名の通り、かつて平治の乱で追われた頼朝の弟源範頼(のりより)が館を構えた由緒ある土地柄で、この本堂と三重塔も稚児僧(ちごそう)として同寺に入った範頼が後に建てたもの。「坂東札所は、一番の鎌倉の杉本寺から神奈川を上り、埼玉を回ると十三番が浅草の観音様で知られる金竜山浅草寺。埼玉の札所で足慣らしをした後、意気揚々と江戸に上ったのでしょう。当山の昔のにぎわいもたいしたものだったそうです」と同寺の二十二世住職、島本虔栄(けんえい)さん。
 三十三カ所の札所は、観音が庶民の願いにこたえて三十三通りに姿を変え難儀を救うという言い伝えから始まったと言われているが、江戸時代あたりから慰安旅行の性格が強まり、お伊勢参り同様、八っあん、熊さんタイプの“花よりダンゴ”型巡礼が大挙して繰り出すようになった。安楽寺の門前にも、こうした巡礼相手の店が軒を連ねるようになり、一時は二十軒近くにも達したという。山門のすぐそばに住む同所、自動車販売業小川和男さんは「家にある位牌(いはい)だけでもざっと十五代。中にはいかがわしい店もあったようですが、これも観音さまの引き合わせというもんでしょう。みんな商売熱心だったようです」という。毎年六月十八日のだんご祭りに、一軒の店で五、六俵のだんごを売りつくしたという。
 その門前のにぎわいも、明治に入るとぱったり。世相があわただしくなるにつれ、巡礼巡りどころの騒ぎではなくなってしまったのだろう。明治の末、最後まで残っていた一軒の茶店が店をたたむと、かつての門前町もただの郊外の農村に変わってしまった。現在、同所、国島喜一さんが昔のままの「どびん屋」の屋号で休憩所を開いているが、古寺巡礼ブームの昨今でもバスを連ねてのかけ足巡礼がほとんどとあって、門前は素通り。「昔は村の集まりでも、観音さまの世話の順に席順も決まっていたというほど、何事によらず観音さま中心の生活だったようですが、今はもう時々行事の手助けをする程度の付き合いで」と小川さん。かつて大仏を造るため、住民総出で黄銅鉱を掘り出した裏山では、銅に代わって土砂採りのショベルカーがうなりを上げている。

メモ:坂東札所は鎌倉時代、尼将軍政子が西国札所をまねて関東地方に設けたもので、鎌倉を中心にした中世の交通路に沿って、神奈川九、埼玉四、東京一、群馬二、栃木四、茨城六、千葉七と一都六県に分布している。県内の札所は、九番・都幾山慈光寺(都幾川村)【現・ときがわ町】、十番巌殿山正法寺(東松山市)、十一番安楽寺、十二番・華林山慈恩寺(岩槻市)【現・さいたま市岩槻区】の四カ所。
 比企地方には源氏関係の遺跡が多いが、これは範頼(のりより)から義世(よしよ)まで五代にわたり居住し、吉見氏を名乗ったため。義世は源氏を滅ぼした鎌倉幕府に反抗、永仁四年(1296)に執権・北条貞宗に殺された。
     『読売新聞』1978年(昭和53)9月24日 まちかど風土記106 鎌倉街道・吉見町