嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

川島-13 庚申塔 1732年

2010年04月01日 | 川島

番号:川13
分類:庚申塔
形態:駒型青面金剛
場所:字長山、★
年代:1732年(享保17)
寸法:
石質:安山岩
正面:奉造立庚申尊躰所願成就攸/下川嶋村/(青面金剛立像) 同行/二十人/維享保十七壬子十一月吉祥日
左面:
右面:
裏面:
台石:
備考:一部欠損。


川島-12 弁財天 1749年

2010年04月01日 | 川島

番号:川12
分類:弁財天
形態:石祠
場所:字長山、池
年代:1749年(寛延2)
寸法:
石質:砂岩
正面:【カ】
左面:武州比企[郡/下[川島/願主同行七人
右面:寛延二己巳
裏面:
台石:
備考:完形。カ(地蔵菩薩)。下部は埋まっている。嵐山町最古の弁財天。1982年(昭和57)島﨑竹雄氏が池改修。


川島-7 毘沙門天 1807年

2010年03月02日 | 川島

番号:川7
分類:毘沙門天
形態:自然石型文字塔
場所:鬼鎮神社
年代:1807年(文化4)
寸法:149×68×15
石質:緑泥石片岩
正面:文化四年歳在丁卯/毘沙門塔/三月吉日建 甲巌居士書
左面:
右面:
裏面:當村講中/石工 森田仲八房次/□□施主□浄/長右衛門
台石:
備考:一部欠損。


市野川改修記念碑建つ 1951年

2009年02月25日 | 川島

 朝な夕な照るにつけ曇るにつけ我々の念願してやまなかった市の川改修工事は地元民の熱意が県政を動かしたのか、県が積極的に之を取り上げたのか、何れにしても両々相俟って行はれたと言はねばならないのであるが、其の大事業が成って茲に十年、この大業を記念すべく幾度か記念碑建設のことが話題に上ったが、種々困難が伴ひ其の実現を見ることが出来なかったのは我々の最も痛惜に堪えない所であった。処が今度川島水房数名の発起人の努力と関係者一同の認識有る協力に依り、遂に立派なる記念碑が建立されたのである。そして初夏の風薫る五月十五日荘厳なる除幕式が挙行された。ここに於て我々の念願は達成され、この事業を永遠に記録し得ると共に後世人をして前人の労苦を偲ばせ益々農業に精進せしめ得ることとなったのである。
 碑は仙台石で巾二尺五寸、高さ八尺五寸、台石の高さを加へれば実に一丈余尺。「市の川改修記念碑」の天額は建設大臣の書で碑文の起草は小川伊三郎翁(川島)、吉野仁堂先生(水房)の合作になり松崎春川先生が之を揮毫し、彫刻は長沼石工(みずふさ)の手になったもので、治水事業の重大性を碑の全面に如実に表したものである。
 そして当日の参列者は改修当時の県会議員工営所長現在の土木工営所長関係地域の町村長村会議員技術者功労者等関係者全員であった。
 顧れば市の川九十九曲りの面影は何処へやら、今は絵のやうな美しい流れが淙々として流域をうるほしている。これを見る時、当時の関係者の労苦を偲びただ無量の感慨に打たれるのみである。そして今回の事業に努力された発起人並び関係者一同に満腔の謝意を表し、尚永遠に朽ちることなく流域の幸多かれと祈念して止まぬものである。(森田與資)
     『菅谷村報道』14号 1951年(昭和26)7月10日


嵐山町川島 鬼鎮神社の祭神は賽神 簾藤惣次郎 1984年

2009年02月01日 | 川島

   きじんさま 祭神は賽神(さいのかみ)
           縁結びの道祖神
 鬼鎮神社 大字志賀第一川島区に在り、元七郷村大字広野の飛地であった当時の民有祠であったが明治二十二年(1889)本地【菅谷村】に属し村社として遠く都鄙(とひ)に鳴りわたる名社である。
 由来鬼神又は近くの林に雉子(きじ)の多く群棲(ぐんせい)しているので雉子之宮(きじのみや)と称号していたが、改革の際、ここに奉仕した社掌並びに敬神有力の人々等相謀り相賛けて現称の尊号を奉上した。
 祭神は賽神(さいのかみ)で、神域の風光は清美の上に大きな松、高く伸びた杉、春は桜、秋は楓も美しく、社頭森厳宏壮にして、春秋の大祭、毎月の例祭は勿論、平日でも遠近よりの参拝者の絶え間がない。
 世間に伝えられる当社は「畠山重忠公が菅谷城の鬼門鎮護の神として崇(あが)め奉斎したが、重忠亡び後、世力を尽して主祭する者が無かった為に長い間さびれていた」と言われていたが、今では重忠時代のように盛大に復しつつある。(稲村坦元先生埼玉県史の菅谷村原稿要旨*)
 鬼鎮神社の祭神については、賽神(さいのかみ)又は衝立久那止神(つきたつくなとのかみ)・八衢彦命(やちまたひこのみこと)・八衢姫命(やちまたひめのみこと)とも書かれている。これらの神々について調べて見ると
◎さいのかみ(賽神・塞神・幸神・道祖神・さえのかみに同じ)
◎さえのかみ(障神・賽神・道祖神・みちのかみに同じ)道行く人を災難から守る神、道路、旅行の安全をつかさどる神。
◎道祖神 道路の悪霊を防いで、行人を守護する神。神話の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が伊弉冉尊(いざなみのみこと)を黄泉の国(よみのくに)(死後の国)に訪ね逃げもどった時、追いかけて来た黄泉醜女(よもつしこめ)(死後の国の悪女…鬼女)をさいぎり止めるために投げた杖(つえ)から成り出た神。
 邪悪の侵入を防ぐ神。日本ではさいのかみ、さえのかみと習合(神仏習合)されて同じ神となった。などのかみ、たむけのかみと同じ。
◎くなどのかみ(久那土神・岐神・ふなどのかみと同じ)
◎ふなどのかみ(岐神) 神話の伊弉諾尊が黄泉国から逃避の後、禊祓(みそぎはらへ、みそぎ)の時、投げ捨てた杖から化生(かせい)した神で聚落(しゅうらく)の入口や道の分岐点に祀(まつ)られたから、道路及び旅行の安全守護の神とされた。くなどのかみ、ちまたのかみ、道祖神、道陸神と同じ。
◎たむけのかみ(手向神) 旅人が道中の安全を祈るために、幣物を手向ける峠など村境に祀る神。
◎ちまたのかみ(岐神) ちまた(道股)【道路の分れるところ、分れ道。辻、町の中の道路、街路、繁華な通り】を守って邪悪の侵入を阻止する神。【古事記】神代記下に衢神とあり、天孫降臨(てんそんこうりん)の時、衢(ちまた)に迎えて先導したから「ちまたのかみ」と言う。猿田彦命(さるたひこのみこと)の異様。
◎八衢比古命(やちまたひこのみこと) 道が八つに分かれた所、道がいくつにも分かれた所。八衢比古命・比売命(ひめのみこと)は道路がいくつにも分れた辻に祀られた男女の神で道路を守り、旅人の安全を守護する神で、道祖神と同じ神である。旅に出たなら必ず無事安全に帰り来る事を祈った。
 路傍にある道祖神で男女両神の彫られた石碓(せきたい)【ママ】もあるが、それは八衢比古命(やちまたひこのみこと)・八衢比売命(やちまたひめのみこと)の両神の幸神で、道路を守り旅の安全を祈ると共に、縁結び、結婚の神として祀られ崇敬されている所もある。
 かく調べて見ると、賽神・塞神・障神・幸神・道祖神・道陸神・道神・久那土神・岐神・手向神・八衢比古命・八衢比売命と神の御名は多くあるけれど、同神異名で時代と信仰のうつり変りにより変化したあとがうかがえる。
 鬼鎮神社の御尊号の由来についても、雉子之宮(きじのみや)・鬼神社(きじんじゃ)・鬼鎮神社(きぢんじんじゃ)と時代の信仰と共に変っている。文政四年(1821)調査の新編武蔵風土記稿には鬼神明神社とあり、徳川期に水房村との間の「鬼神宮別当に関する云々」の文書にも鬼神と記されている**。鬼鎮神社と称されるようになったのは明治三十年(1898)以後と思われる***。
     『嵐山町報道』320号 1984年(昭和59)3月30日

*稲村坦元先生埼玉県史の菅谷村原稿については、「稲村坦元先生菅谷村誌原稿 志賀志 ルビ・注」を参照。
**水房村(滑川町水房)放光寺との争いについては、「鬼神宮(鬼鎮神社)をめぐる帰属争い」を参照。
***鬼鎮神社の名称変更については、「鬼鎮神社の名称の変遷」 を参照。


長山稲荷の不思議な体験 権田重良

2008年11月18日 | 川島

 滑川町大字月輪字矢尻の北側境から熊谷玉川県道に至る雑木林の中を通る人通りもない小路の途中に、地元の古老以外知らない小さな稲荷様の祠(ほこら)がひっそり建っている。この稲荷を長山稲荷といい、近年、朽ち果てていた小さな鳥居は新しく立て替えられた。

 この道は小川方面から松山に至る街道として、また鬼鎮神社の繁栄に伴い東からの鬼神街道として、戦前までは多くの人々が行き交い、稲荷神社も毎年例祭が行われていたと聞いている。月輪境の三叉路と県道の四ツ辻(十字路)にあった鬼神道の道標も周囲の開発によりいつしかなくなってしまったが、稲荷前の小路を過ぎ、県道を横切り、住宅地内を北に向かう道がわずかにその名残(なごり)を留めている。

 昭和五十四年(1979)、東松山-前橋間が開通した関越道は川島の東側、字屋田地内を通っている。その工事に伴い、昭和五十年(1975)初めに森田武治氏宅が移転と決まり、長山稲荷南側の月輪境に屋敷替えすることになった。新築に伴う上水道工事は地元の業者として私が請け負った。当時、県道の北側には農家以外に住宅はなく、水道配管は初雁安行氏宅裏の道より、鬼神道跡と言われた畑中の道を通り、県道を横切り、稲荷様の山道を月輪境の新築現場まで、長い距離(300m)をひかなければならなかった。当時の配管工事は、大きな掘削機もなく、刃のついたチェーンが回転して穴掘りをするトレンチャーと呼ぶ小型のものとほとんど人力によるものだったので、道路分の配管工事完成に数週間かかった。工事現場まで通水し、その後しばらくして森田家の新築工事が完成し、無事移転が終わったのである。森田さんのお宅は、数年前にご主人の武治さんが亡くなり、働き者の奥さんのやすさんとお子さんたちとで新居の生活が始まった。

 後日、工事代金を支払うので来るようにとの連絡があり伺うと、大変ご苦労戴いたと酒肴が用意されており、精算を済ませて、大変御馳走になった。当時は、仕事の完成時に酒は慣例で、酒好きの私は一杯、二杯と酒が進み、かなり時間が過ぎていった。奥さんも新築完成の喜びか、知り合いの工事店相手の気安さか酒が進み、一升瓶の残りが少なくなって来た頃、笑顔で喜びのやすさんの顔と様子が変わって来た。酒が好きだとの世間の噂が思い出されて、夜も遅く時間も過ぎたのでとお礼を述べて帰ろうとすると、突然、やすさんが髪を振り乱して大声を上げた。

 『お前は人様の家の前で穴掘り仕事をして、挨拶の一言もないのは何事だ』。突然の大声にのけぞって、、酒がまわり青白くなったやすさんの顔を見ると、一瞬、長山稲荷の狐の置物の顔に見えた。ご馳走酒のまわった私はぞっとして背筋が寒くなった。まぎれもない狐の顔に驚いて見直すと、大笑いをし、上機嫌で酒をすすめていた顔に変わりはない。何事のないやすさんの様子に冷や汗の私は、早々に新築の家を出た。

 工事の際、迷惑のかかる近隣の家に対する挨拶は施工業者の常識だが、今回は畑中の道や林の小路の工事だから必要ないと思い込み、無信心の私は稲荷荷神社の前で一度も手を合わさずに通り過ぎていた。数週間の工事期間中の事を思い出し、その夜はなかなか寝付かれずに過ぎていった。不思議な事と思いながらも非常識な私に対する長山稲荷の戒めと思い、翌朝早々に参詣に伺い、今後の仕事の安全を願った。

 工事業者として四十数年間を無事に過ごせたのも、この不思議な体験による戒めが私の人生に意義あるものとなったからだと、平成十五年(2003)の現在も忘れられぬ思い出である。

<script charset="utf-8" src="http://maps.google.co.jp/maps?file=api&v=2.x&key=ABQIAAAAiqSLL0x2C9fumhvdtO_9mhRK5KJ_ysfVkCrlOfZpAyQdOP0PshTxZN1UytcCnpzYmax-11cBbQXbKw" type="text/javascript"></script>
<noscript></noscript>
<script type="text/javascript">setTimeout('mapFunction_79119()', 2000);function mapFunction_79119(){var map = new GMap2(document.getElementById('mapContainer_79119'));map.addMapType(G_PHYSICAL_MAP);map.addMapType(G_SATELLITE_3D_MAP);map.addControl(new GLargeMapControl());map.addControl(new GScaleControl());map.addControl(new GHierarchicalMapTypeControl());map.setCenter(new GLatLng(36.04865222602056, 139.3396693468094), 18, G_HYBRID_MAP);var marker = new GMarker(new GLatLng(36.04865222602056, 139.3396693468094));GEvent.addListener(marker, 'click', function() {marker.openInfoWindowHtml('');});map.addOverlay(marker);}</script>
Latitude : 36.04865222602056
Longitude : 139.3396693468094