嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

嵐山町の石仏6 石造物の分類とその概要4 菩薩3

2009年03月06日 | 嵐山町の石仏造立の背景

・地蔵菩薩(じぞうぼさつ)
 地蔵菩薩は「お地蔵様」とか「地蔵尊」と呼ばれ、人々に常に親しまれてきた菩薩である。主に村の入口や街角、峠の頂上、墓地などに造立され、社会生活の中に良く溶け込んでいる仏である。また墓石の中にも地蔵菩薩を彫刻したものが多く見られる。
 地蔵菩薩は菩薩でありながら頭の上に宝冠をかぶらず、頭を丸く剃った僧侶形であらわされる。身体には袈裟と衣だけを着け、左手に宝珠を持ち、右手は与願印を示している。これがふつうに見る地蔵菩薩像である。また右手に錫杖を持つ場合もある。地蔵菩薩像は平安時代に木像として初めて出現し、それ以後諸仏のうち最も造像数が多い。石像も鎌倉時代から各地で造立されたというが、嵐山町にはそのような古い石像は見あたらない。
 「地蔵」という名の起りは「土地は万物を育てるもので、植物を生長させ、花を咲かせ実を結ばせる偉大な力を蔵しており、これと同様に地蔵菩薩はすべての衆生を救済する偉大な功徳の力を蔵することがあたかも土地のようであるところから、この名が起こった」と仏典には記されている。地蔵信仰の起源はインド仏教で、地蔵菩薩は釈迦入滅後、弥勒如来が現れるまでの仏不在時代に、この世の衆生を救済するのがその役割である。
 江戸時代に入り、地蔵菩薩を信仰して現世利益を受けるために、各地で石像が造られるようになった。庶民の望む救済は多種多様で、延命や安全・治病・子安子育・豊作などと数え切れないほどであった。またこの時代の地蔵菩薩像は立像が多いが、これは左手には宝珠、右手に錫杖をついてどこにでも行き、庶民の苦を救い平安をもたらす仏として、民衆が地蔵菩薩に期待する救済者の姿であった。
 地蔵菩薩は現世利益のほか、死者も救済する信仰でもある。現在でも交通事故や山海での遭難などによる故人のために、肉親や友人がその地に地蔵菩薩を造立し慰霊することが行なわれている。また子どもを亡くした親にとって、地蔵菩薩は唯一頼れる最高の仏であった。亡き子の墓石に地蔵菩薩を彫り、死後の救済を祈る風習は数え切れないほどである。
 地蔵菩薩が六体並んで寺院や墓地の入口などにあるのが「六地蔵」である。六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)の輪廻に苦しむ死者を現存者の供養により救済しようとする思想であり、死者をおだやかな浄土へ導くのが地蔵菩薩の力である。死者が六道のどこにいようとも、地蔵菩薩がそれぞれの姿であらわれ救済してくれるといった願いが、六地蔵には込められている。
 六角の石幢に六地蔵を浮彫にした石塔も見られる。寺院の本堂に装飾として吊られた幢幡があるが、六面石幢とはこの幢幡を六つ組み合わせた形を原型とし造られた石塔である。
 嵐山町の地蔵菩薩像はこれまで百基以上が確認されており、各大字すべてに造立されている。初出は1666年(寛文6)年で、1600年代には1基のみが確認されている。1700年から1720年までの間には20基が造立され、このうち17基は講中など集団によるものであり、個人による造立は残りの3基のみである。これ以後の造立は個人によるものが多い。造立の目的は、江戸末期までのものは念仏供養や経典読誦供養などが多く、二十三夜待や巡拝の供養、死者の菩提を願うものなども見られる。またそのほとんどが丸彫や浮彫等の像塔で、文字塔はわずかである。

※嵐山町博物誌調査報告第8集『嵐山町の石造物1』(嵐山町教育委員会発行、2003年3月)掲載の島﨑守男「嵐山町の石仏造立の背景」(同書12頁)より作成


最新の画像もっと見る

コメントを投稿