嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

杉山城址の碑が建てられる 1953年

2009年07月12日 | 杉山

Web46
   杉山城址之碑

     埼玉県郷土文化会々長 稲村坦元 題額
 市之川の清流に平行する旧鎌倉街道を眼下に、吉見丘陵の一角二万三千余坪に亘り土畳、空湟、切落、井戸跡等を擁して、住昔の要害を今日に伝える我が杉山城址はその創始と経歴を詳かにしないが、或いは奈良時代に比企十郎重成の創設ともいい、天慶の乱に於ける源経基の狭服山城にも擬せられ、藤原末期に金子十郎家忠の築城とも云い、治承の頃小高隼人貞次の居城説もある。併し戦国時代には小高氏が居り、更に松山城主上田氏の家臣杉山主水が居城したとも里伝され附近には経基の戦勝祈願を伝える六万部坂を始め、馬場、的場、悪戸、その他城地たることを物語る小名を随所に残すのみならず戦乱に絡む数々の伝説も伝えられているのである。■しこの杉山城址は戦国時代の山城形式を力強く現代に伝える点に於て、関東に数多い城址中の白眉というべきで先年来遊の武蔵野史蹟会会長寺島裕氏に依ってその史蹟的価値を発見され埼玉県史編纂顧問柴田常恵氏等の協力の下に昭和廿一年四月六日埼玉県史蹟にし指定された。斯くて旧来この城址の保存に協力して来た初雁鳴彦氏等の意志を承いで組織された杉山城址保存会の手によって今回この碑の建立を見るに至った。これに因って往時を偲ぶようすがともなれば幸である。
    昭和廿八年四月建
              埼玉県比企郡七郷村 杉山城址保存会

※杉山城については、HP『城跡ほっつき歩き』の「杉山城」を参照。

   杉山城址と特殊私年号青石塔婆に就いて 寺島祐
 ◇杉山城址
 現に埼玉県比企郡菅谷村杉山に残る杉山城址は、市の川の小流を西山裾に望む比企丘陵の一角に残る山城で、その総面積は二万三千余坪といわれ、土量、空湟切落、など城郭としての縄張を充分に存し、二箇所の井戸には現に水を湛え、山城の形態を雑木山の中に完全に近く伝えている。
 併し、この城の起源や由来に就いては文献稀薄の為に明確を欠き、別稿記載の「杉山城址之碑」に記述の程度で多くは里伝に依る他はなく、その創始を比企氏の昔に遡り、或は天慶の乱に関連させる説もあるが、天慶の乱との関連性は関東諸城が概ね用いる説として俄かに信じ難い。
 とにかく、現存するその城湟の諸相から観て、この城の最期の活躍期を戦国時代とする説は最も妥当に見るべきで、松山城の支城として杉山主水なる者が拠城したとする説は肯定されよう。

 ◇杉山城址発見
 関東地方に城址は夥しい数を分布している。併し多くは才月と共に変貌して、その住昔の形態を忠実に伝えるものは稀である。然もこの杉山城址は、僕の観た所では、嘗て東京府が「稀に見る完全に残された城址」……として史跡に指定した山口貯水池北岸の「根古屋城址」よりもより完全に近く、更にスケールの大きい立派なものであった。
 一帯に埼玉県下は、柴田常恵、稲村坦元の両氏及び県史編纂に関係した郷土史家の諸氏が、綿密な調査をした後なので県内には既にそうした発見漏れの史跡はないものと思っていたが、僕が偶然のことから杉山城址を発見し得た事は寧ろ驚きであった。
 惟えばそれは、資料として史家の信頼する江戸幕府編纂の「新篇武蔵国土記稿」にさえ殆んど歯牙のはしくれとして小さく扱われていることが禍いして、調査の対象に上らなかったのではあるまいか。
 僕はその後東京で前後四回も戦災の厄に逢い、所持の資料の一切を烏有にしたので、これを明確にする資料がないが、おそらくこの地を僕が訪れたのは戦時中の昭和十八年頃ではなかったかと思う。
 東上線の武蔵嵐山駅から小川街道をブラブラ歩いて志賀の宝城寺へよった時、向の杉山の丘に城山という字があると聞いたので、大した期待も何もなく一応見ておく程度で足を向けたところ、前述のような城址を偶然発見する結果となったのである。

 ◇県史蹟に指定
 杉山城址の地主であり、当時の七郷村(其後菅谷村へ合併)村長であった初雁鳴彦氏の案内で、雑草生い茂る雑木林の城址を歩いた僕は、地主自身も県の指定を希望したので、その後柴田常思氏や写真師(今は島根県安来市に疎解の角昌彦氏)を伴って再度訪れたりして県指定の手続きを進めた。
 かくて、終戦の翌二十一年四月六日付で杉山城址は地元の希望の通りに「埼玉県指定史蹟」となり、僕自身の希望も茲に達成されたもので、その後現地に建碑の議が起り、別項記載の「杉山城址之碑」の他に、発見者の■蹟を刻んだ「史蹟、杉山城址、埼玉県」の花崗石の大標柱が昭和二十八年四月に「杉山城址保存会」の手で建石されたのであった。

 ◇特殊私年号青石塔婆
 僕が杉山城址を発見した日は詢に多幸な日で、ここに掲げる「特殊私年号青石塔婆」もその同じ道に発見したものであった。その場所は、武蔵嵐山駅から宝城寺への途中の県道の傍で、そこにあった個人墓地のような処にあった。
 由来年号には、朝廷が正式に定めて発布する「公年号」と、それに頓着なく地方豪族などが勝手に命名して使用した「私年号」とがあり、私年号のことは或は異年号、偽年号、逸年号などとも呼び別掲の「国史大辞典」の「日本私年号表」に見ても今日までに発見されたものはその数六十五に及んでいる。
 併し此日僕がそこに発見した梵字弥陀三尊に梵字光明真言を刻んだ青石塔婆は僕の記憶にない珍らしい年号が刻まれていた。それは
  「元真元年九月廿三日」
というもので、干子がないのが些か気になるが、その「元真」の年号は将に特殊な私年号であると観じたので、直ちに至近距離にあった曹洞宗の大谷山宝城寺の住職にその保管を依頼したものである。結局これは、それまで誰も気着かなかった新たな私年号の一つを、僕がこの日この所に新たに発見した訳で、それは小事ながら史学界に於ける一つの新発見といえよう。

 ◇元黙阿弥夫妻の墓
 江戸文化最期の絢爛期といわれる化政時代に、江戸で名を挙げた狂歌師に落栗庵元迺黙阿弥と知恵乃内子の夫妻があった。本名をスメと呼んだ知恵乃内子は、夫に先立って文化四年(1807)六月廿日に逝いたが、夫の元迺黙阿弥は妻よりも四年後の文化八年六月廿八日にあの世へ旅立った。この二人を葬った同会墓が、その生家に近い杉山の字谷(ヤツ)に笠石塔となって残っている。 【以下略】
     『関東史蹟会報』第195号 1960年(昭和35)9月11日


杉山・大野良如翁墓誌 1931年

2009年01月01日 | 杉山

 市野川に沿って越畑に北上する町道端に「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」のヒゲ題目(だいもく)の七文字が刻まれた大きな石碑がある。この題目塔の裏に池上本門寺78世日暉上人が書いた「大野良如翁略伝」がある。上人は妙法山蓮花寺22世でもある。この題目塔については、大野良如翁略伝(http://blog.livedoor.jp/rekisibukai/archives/230914.html)参照。
 大野良如翁は大里郡御正新田(江南町、現熊谷市)に1844年(弘化元)に生まれ、幼名は利三郎、後に太郎兵衛と称した。1865年(慶応元)、杉山村(現嵐山町杉山)の大野卯之吉の養子となる。長じて失明、法華経の教を信じ、忍町(現行田市)の妙法山蓮花寺の21世日教上人の弟子となる。日教上人は祈祷をやっていたので、祈願の人々が参籠(おこもり)等もしていた。
 1924年(大正13)、自宅に日蓮上人像を納めた祖師堂を建てる。旧暦10月12日の「おそっさま」の祭典は、お店が出るほどの賑わいであったという。養子のふくさん(福三郎)・はつさん夫婦が熱心で「なんみょうさん」と呼ばれていた。大野太郎兵衛の墓石は、1926年(大正15)3月、福三郎が建てている。その墓誌には、次のようにある。

       灋蓮院華臺心如居士
     居士幼名利三郎後太郎兵衛ト称ス大里郡御正村新田秋山礒
     五郎次男也弘化元年四月ヲ以テ生ル慶應元年二月大野夘之
     吉養子トナリ家名相続ス居士壮年失明ノ結果深ク法華ノ教
     ヲ信シ明治十五年三月北埼玉郡忍町蓮華寺日教上人ニ随テ
     薙髪シ良如ト号ス尓来日夜修行ノ功徳弘大ニシテ崇拜ノ信
     徒雲集シ声望隆 遠近ニ聞ユ大正十三年四月祖師堂ヲ建立
     シ立正大師ノ尊像ヲ安置ス抑此尊像ハ日蓮宗管長身延山七
     十四世日鑑上人ノ開眼祈願スル所也嗚呼大ナル哉居士ノ徳
     仰ケハ蒼空ノ如ク俯セハ大海ノ如シ窮マル事ナク又尽クル
     事ナシ矣     昭和六年一月吉晨 琴城関廣壽撰并書


地元町民の手で杉山城整備 1981年

2008年12月17日 | 杉山

   土塁など戦国時代のままに 嵐山の町民「杉山城」復元
 郷土の貴重な城址(じょうし)を守ろうと比企郡嵐山町の町民たちが、中世の山城「杉山城」を整備、県民たちが、じっくりかんしょうできる立派な史跡にに仕立て上げた。
 杉山城は、比企郡嵐山町から県道菅谷-寄居線を通って町道へ入った杉山地内にある。山の標高は、九十五・三メートルで面積は約七ヘクタール。武蔵七党に属する児玉党の一族が戦国末期に築城したとされる。
 自然の地形を生かした山城で、川越、松山、鉢形城など大きな城の守りや連絡の役割を果たしていた出城が砦(とりで)だったと推測されている。こうした城郭は、防御を中心に築かれているのが通常だが、杉山城は、小口のくい違い土塁で内部を目隠しにしたり、幅一メートル程度の狭い通路に斜面を付けて侵入してくる敵をどの地点からも攻撃できるように工夫され、攻防を兼ね備えた「陰陽和合の城」として城郭史上で全国的に貴重な資料となっている。この貴重な郷土遺産、県指定史跡として保護されていることになっているが、実際には放置されたまま。雑木が茂り、見るかげもなくなっていた。そこで立ち上がったのが杉山地内の住民たち。一年がかりで山に入ってしの竹や高さ二、三メートルの木を取り除き、史料をもとにくい違い土塁や空堀など中世をしのばせる遺跡を再生させた。
 南から「南三の郭」「南二の郭」「水の手郭」「本郭」「東二の郭」「東三の郭」「北二の郭」「北三の郭」、郭の周囲に築かれている高さ二メートルの土塁、深さ二メートルの空堀など。また、道路も戦国時代のままで復元されており、山すその積善寺から南三の郭を通って本郭から搦手口(からめてぐち)へ出るコースと本郭から東三の郭へ行き町道へ出る二本の散策コースも整えた。
 町民たちは、すっかり全貌(ぜんぼう)を現した城址をながめて、「年に一回、清掃をしていつまでも郷土遺産を守っていこう」と話し合っている。

19810509

     『読売新聞』1981年(昭和56)5月9日