嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

小倉城址に登る 杉田一夫

2009年04月22日 | 小倉

  小倉城址に登る    杉田一夫
武蔵嵐山桜花鮮   武蔵嵐山桜花鮮やかなり
小倉山頂鶯声清   小倉山頂鶯声清し
忽我魂驚馬蹄響   忽ち我が魂は驚く馬蹄の響き
残碑没草暮烟深   残碑は草に没して暮烟(ぼいん)深し

   杉田一夫『折々の賦』(鵬和出版、1987年3月)30頁
※著者は1913年(大正2)4月、比企郡玉川村生まれ。松山中学校、埼玉師範学校本科二部卒業。その後、比企郡内の小中学校へ勤務。玉川村教育長。

 小倉城址は埼玉県比企郡玉川村田黒字小倉にある。海抜一四〇メートルの山頂から望むと、眼下に武蔵嵐山の景勝が指呼の間にあり、その向こうに菅谷館跡、国立婦人教育会館をはさんで渺茫(びょうぼう)たる関東平野が展開している。
 山頂にあった城は、細長いひさご型で、北西は断崖、西・北・東の三面を槻川がめぐって自然の要害を形づくっている。元亀(げんき)(1570-1573)・天正(てんしょう)(1573-1593)の頃、小田原北条氏に属し、遠山衛門大夫光景の居城であり、鎌倉街道の押さえとして重要な存在であった。天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原城攻めの時、松山城と共に落城したという。
 昭和十一年(1936)、県史跡指定のため、比企郡鳩山町故小鷹健吾先生、同郡都幾川村福田浜之先生などと共に奔走し、「二の丸後」の碑を書いて建てた。今唯一人山頂に立って、つわものどもの夢の跡を偲び、草に没した残碑を探してさまようこと数時間、日の暮れるのも忘れる思いであった。
 小倉城登り口にある延命山大福寺には、城主遠山衛門大夫光景夫人の位牌がある。高さ七六センチ、幅一三センチ、桐材で作られ、表に「華楽院殿妙香大禅定尼」、裏に「遠山衛門大夫光景室葦園」と記してある。
 なお、小倉城址に近接している嵐山町大字遠山の遠山寺は、光景が、父政景追善のため建立したといわれ、同寺の過去帳によると「桃雲宗見居士、天正十五年丁亥五月二十九日没遠山衛門大夫藤原光景事」とある。(同書30頁~32頁)


花だより23 武蔵嵐山の桜 詩:中島運竝 1966年

2009年04月03日 | 小倉

     つわものどもが夢をみし
     小倉(おぐら)の城の石垣や
     谷間しぶきの 槻川(つきがわ)に
     蚕影(こかげ)のいわを 影うつす
     さくら吹雪の 深山路に
     京の都の名にちなむ
     その名も むさし嵐山(あらしやま)

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 嵐山(あらしやま)の桜は川に花びらを散らしていた。両岸の常緑木の中に桜の花だけが白く浮きたっていた。遠山への道路にそって桜は咲いている。谷川橋に立って眺めると大平山(おおびらやま)の木々の新芽の萌えるような山麓に一際桜の花が映えていた。
          『報道』167号 1966年(昭和41)4月

 2009年4月10日
 内田泰永さん撮影


小倉城阯 大塚仲太郎 1935年

2009年01月17日 | 小倉

 比企郡菅谷村なる武藏嵐山から西方を望むと、槻川を隔てゝ小がある。此處は玉川村大字田黑の小名小倉で、後方の丘陵に城阯がある。田黑は玉川と鎌形との間に介在してゐる地で、谷間の田の畔に民家が散在してゐるから田畔であつたらしく、墓碑に『杉田三右衞門姓法名實相院宗淸、産武州田畔村□於江州膳所城歳僅廿七、寛永十一年(1634)甲戌冬十二月十六日夜也』と記したのがある。
 城阯は新篇武藏風土記稿に『城蹟、北の方にて小名小倉の内にあり、遠山右衞門大夫光景が居城の蹟なりと云、四方二町許の地にして、東北の二方は都幾川・槻川の二流に臨み、西南は山に添ひて頗る要害の地なり。光景は隣村遠山村の遠山寺の開基檀越にして、天正十五年(1587)五月卒せし人なれば、爰に住せしも元龜天正の頃なるべし。』とあつて都幾川に臨んでゐるといふ説明は誤ってゐる。
 又土地では單に城山と呼んでゐるだけであるが、假りに小倉に在る故に小倉城城阯と名づけることゝした。
 城蹟のある丘陵は字城山で、小川町大字下里との境界にある。北は斷崖でその麓に槻川が廻つて居り、東に至つて鹽山太平山を刻んで鹽澤をなして東流し、菅谷館址附近で都幾川を合せて平野部を流れる。南は田黑の道現平と鹽山との間の隘路によつて鎌形に通じ、都幾川は更に其南方を劃して城の第一防禦線をなしてゐる。西は下里の寒澤德壽割谷のを眼下に眺め、丘陵續きなる靑山砦即ち割谷の城は指呼の間にあつて、相呼應してゐる。此の兩城間は山脈と川流との関係で、自らなる數箇の曲輪をなして背後の守備は容易である。略圖について説明すると、一・二・三・四・五・六は内曲輪で、七・八は外輪といへようと思ふ。
 繩張について見るに、丘陵の自然を利用しての築城であるから、後世發達した平城の樣に整つた形はして居ない。多角形的に曲輪が突出するが、曲輪の配列は同心圓的と見られる。地形に制せられ中央部は狹くなり、形状の上からは二部に分れてゐる。されど巨細に構造を觀察すると矢張り同一中心である。他との聯絡を斷つために穴堀を設けてある。穴堀には二種あつて一は行き貫けるもの一は行きつまるもので、敵をなやますに適う樣な構造である。而して凹部を設けてある所があり、犬走りのついてゐる所もある。小ながら虎口の發生も見え即ち桝形といふべきものである。中部なる狹隘部の緩斜面には一小城郭樣のものを築造して、守備の手薄を補つたかの如く見える。此の壘は江戸澤に臨んでゐる。江戸澤は井戸澤で山城にとつては、用水の多少が城の生命に深い關係があるので、その大切なる用水の井戸を見張り守備する役をつとめた壘であらう。
 城主は前に掲げた如く遠山光景と傳へる。風土記稿の遠山寺の條を見ると(前略)開山は遠山右衞門大夫光景と云。過去帳を見るに、當寺開基無外宗關居士此父政景也、天正八年(1580)三月廿三日開基桃雲宗見大居士遠山右衞門大夫藤原光景、天正十五年(1587)五月廿九日とあり。按に此二人ともに開基とのせ、宗關居士の下に此の父政景也とあるによれば、其實光景が父政景の追福のため當寺を草創して父を開基とせしを合せて二人共開基と記せるに似たり。』云々とある。小倉の大福寺には現に
  華樂院殿妙高大禪定尼 遠山衞門大夫藤原光影室華園
と記す位牌があるけれ共、遠山寺にも大福寺にも遠山氏の墳墓はない。只双方に寶篋印塔の頭部らしい破片があつて、何れも同質石材である。
 遠山氏は風土記のいふが如く甲斐守綱景の一族で北條氏に屬した人だらう。北條氏の武將で大永の頃、江戸城二の丸に遠山四郎兵衞と云ふ者があり、天文廿三年(1555)十月古河御所攻の先手として遠山丹波守直景が見え、永祿六年に遠山丹波同隼人、同九年北条氏政川越までの出陣の時遠山なる者、天正十年(1582)八月北條氏直甲州若御子出馬の砌遠山丹波守なるものが從つてゐる。氏政の將と親じゃ四郎左衞門が秩父橫瀬瀨白谷に居ることが秩父志に見え、政景光景の歿後天正十八年(1590)小田原攻の時、遠山左衞門佐景政は小田原に詰め、弟中村某甥遠山丹波守を留守せしめたが、遠山丹波守は江戸城を開いて豊臣方に降つてゐる。當時の戰記に政景・光景の名は出て來ないが、北條氏の家臣である事は小倉城の位置と名に景字を用ふる事とで想像出來る。
 當時松山城も鉢形城も北条氏に屬してゐる。此の二城をつなぐ中間に腰越・靑山の二砦があつた。關東古戰録に
「永祿五年(1562)小田原より松山には上田安礫齋同上重介朝廣を置き靑山腰越の砦と共に守らしむ」
とある。靑山の砦とは割谷城のことで、今でも靑山と下里との境にあつて、靑山に屬してゐる。けれ共風土記には下里の條にあつて、『山の上にて廻り三四丁許の地を云、古へ何人の住せしと云ふことを傳へず、』とある。此所は彼の地震から世界的に知られた仙元山の峰つゞきに築城したもので、玉川より小川を經て鉢形に通ずる道路を脚下に見下し、腰越砦を望み東に小倉城を眺め得る地で、一の連絡線上のものと考へられる。
 里人の傳説に、時代も人名も不明、或る時鹽山から石火矢を放たれ、城は燒かれて陥つたといふ。深谷記に是は御城燒れ遠山丹波殿とあるのを當てゝ考へると一致してゐるらしいが、實査したところでは燒かれた形跡は見當らない。地名陣場山は陣を布いた所と傳へる。長塚・菩提・佛原等は戰の痛ましい跡を語るに充分の名である。
 矢の口から矢崎に矢を射て戰つたとも云ふはたの澤は端の澤と書くが、實は旗の澤で旗を立てた地であり、矢尻からは鎧の小札が出たといふ、千騎澤は多數の兵の屯した處、おはやしは鬨をあげた所、鍛冶屋々敷は兵器製作所であつたといふ。
 天正十八年(1590)五月前田利家から玉川村の光明寺下した制札があることから考へて、此邊一體の城砦は松山・鉢形と共に落ちたものと思へる。當時の小倉城主は光景の子かと思ふが名は知れない。遠山にも小倉にも遠山氏の者がないところを見ると、落城の時他へ移つたものか又は姓を變へて土着したものか、遠山寺の鐘銘を見ると光景の家臣杉田吉兼といふ者大檀那として鑄造せし由が見える。杉田氏は今も遠山を始め鎌形・下里等にあるけれ共、光景の子孫の事は判らない。
 とにかく小倉城址は原形に近く、嵐山てふ遊覽地にも接してゐるから、保存して學術上の參考資料に供する値は十分あると思ふ。
 小倉城には關係はないが、小川から槻川に沿ふて小倉に至り、それから鎌形で都幾川を橫ぎり笛吹峠方面に行く道を鎌倉裏街道といつた口碑が殘つてゐる。彼の宗良親王の笛吹峠から退却せられた道は之によつたもので、太平記の上田山は植木山の誤だといふ。植木山は鎌形八幡の後方臺地の事である。眞僞は別として此の沿道には當時の靑石塔婆が相當多く殘つてゐる。
 小川から水境を經て菅谷に至る今の小川松山道も、小川から矢の口を通つて玉川村に入る小川越生道も、正保元祿两圖にはない、却つて奈良梨から小川に入る者が腰越に至つて、一方日影から古寺を經て安戸に行く道と連結してゐる。古老に聞いても小川から入間郡方面に出る者は、昔は下里から或は割谷を越え、或は小倉尾根を越えて玉川に出たのだといふ。是等を綜合して考へると宗良親王新田義宗等の通過説も一蹴出來ないと思ふ。
 (因に本研究は玉川小學校小鷹訓導の研究に俟つ所多きを謝す。)(昭和一〇・六・五)