嵐山町郷土史片々13 永峰大工さん宅の青石塔婆
菅谷から千手堂へ通ずる県道の南側に永峰音吉さんという大工さんの家がある。
その入口に近年移された青石塔婆(あおいしとうば)が建っている。
青石塔婆のことは、別称板碑ともいい、これは墓でないことを、はっきりおことわりしておく。
こん日では、盆の供養や故人の回向(えこう)をしたしるしに、板で作った塔婆をたてる。
青石塔婆(板碑)も、この板の塔婆と趣旨は同じで、供養したしるしに建てたもので、現今の塔婆は板のため、長い年月には耐えられないが、石の塔婆は、約八〇〇年もたった今日まで残っている。
供養して塔を建てるのに二通りあって、一つは死者のため追善供養(ついぜんくよう)と、もう一つは、生存中、自分の来世のため極楽往生する様建てる逆修供養(ぎゃくしゅうくよう)の二つがある。板碑には、このことが刻んである。
塔婆のことを梵語(ぼんご。サンスクリット語)でスチューバといい、今寺院等に残る三重塔、五重塔なども、この塔婆と同じことで、ただこうしたものは、財力や勢力のあったものが、建立したものである。
青石塔婆に使用した石は、緑色なので青石といい、一名下里石、秩父石などと呼ぶが、緑泥片岩(りょくでいへんがん)というのが正しい。
槻川(つきがわ)沿いの小川町下里(しもざと)付近や、荒川沿いの長瀞付近から、多く産出するので、下里石、秩父石などという。
この石は、板状にはがれるのでこうした塔婆に利用されたり、比企西部一帯では、墓石に利用しているが、近頃は切り出されて、建築の装飾用材として鉄平石と共にその需要が大きい。
昔は槻川や荒川を利用して各地に運ばれ、関東一円に青石塔婆の分布は及んでいる。(なお古くは古墳にも利用されている)
永峰さんの処の青石塔婆は、高一七〇センチ、上方巾四〇センチ下方巾四六センチで、下方がやや広巾である。普通は上下とも殆んど同じ巾である。
この板碑は、両面に刻まれている。と言うのは、後世再び利用して板碑の裏面に刻んだものである。
一般には、現在北向きになっている方が塔婆であるが、ここへ移した時、文字のはっきりした方を南向きにしたため、北向きの方は、生垣の樫木にさえぎられて見にくい。私は、むしろ北向きの面を見えるようにしたかった。
北向面は、既に文字は風化摩滅しているが、種子(上部の梵字)の刻み方からして、足利時代(約五百年前)のものと思われるが、誰が、何時、なんのために造立したか不明である。
この北向の面は出来ないで、南向の面の写真を揚げる。
南向の面は、この板碑の裏面を利用したのもで、これもまた供養したことを刻みつけたものと考えてよいだろう。
その供養というのは、ここでは経文の書写である。
明和五年(1768)今より約二百年前、永峰家の先祖と思はれる遠山十三代の玄峰というものが、夕乗軒という庵に住み七十六才の時、大乗妙典の経文を全部書き写したということを刻みつけたものである。
経文を書写した供養の記念碑ともいうべきもので、これも塔婆と考えてよいだろう。
こうした書写供養塔や一万巻読誦供養塔は、江戸時代に、割合大きな石をもって寺院の境内や辻の近くの路傍に造立され、現在も各地に残っているので、気をつけて見ていただきたい。
こうした書写や経文読誦の碑が残るのは、現在のような太平ムードの中に、なにか不安な生活に心のよりどころを求めたものか、また一方、混沌とした時代に、そうした信仰だけにたよって生きたか江戸時代民衆生活を考えるのに、庚申講や観音講などの調査とともに見のがすことが出来ない。
さて、この板碑であるが、永峰さんが遠山からここへ住居を移した時、この板碑も移し、はじめて人目にふれるようになった。
もとは遠山の家の裏山にあったとか、今後は町の文化財として、大切に保存すべきものであろうと私は思う。 (筆者は埼玉県立川越工業高校教頭)
『嵐山町報道』228号 1973年(昭和48)4月15日
嵐山町郷土史片々11 木曽殿と木曽ぞの橋
-木曽義仲に因んで-
木曽義仲は、鎌形で誕生したと伝えられている。
「木曽義仲産湯の清水」と石に刻まれ、鎌形八幡神社境内に建てられている以上、たれもが真実と思うのは無理もない。
江戸時代、修験(法印)の桜井坊の簾藤某なるものが、自ら刻んで建てたとか。(現在の簾藤甲子治氏先祖)
県では旧跡として戦前県指定としたが、戦後指定解除した。
それは真実性に乏しいからである。義仲が鎌形に生まれたことすらはっきりと知るすべもない。
義仲の父義賢が、大蔵の館にいたことは、古い文献にもある。
今残る大蔵の館址がそれで、義賢より後に大蔵氏なるものが、この地に居住している。
義仲は、この館に生まれたのかも知れない。
なぜ、義仲が鎌形で生まれたと語り伝えられたかというと、大蔵の館は悪源太義平に攻められ、いわゆる大蔵の戦で義賢は戦死した。(平家物語による)
この戦のため、義賢の妻山吹姫は、鎌形にのがれ庵をつくり、義賢の菩提を弔ったとか、それが班渓寺なるものの濫觴とかいうが、どこまで真実か、真偽のほどは、わからない。
こうしたことより、鎌形にて義仲は出生したこととなり、果たして大蔵にて生まれたのか、鎌形にて生まれたのかわからない。
それは、どちらでもよい。
しかし、鎌形に住む人達にとっては、義仲が鎌形にて生れ、八幡神社の清水を産湯につかったとしたほうが、郷土を愛する夢としてよい。
山吹姫なるものも、義賢の妻であるともいい、義仲の妻ともいいそれについても、はっきり知るすべもない。
山吹姫の位牌は現在班渓寺にある。しかし、それすら後世(江戸時代の作)のものである。
更に鎌形には、義仲に因んで、「木曽殿屋敷」と呼ばれるところが、班渓寺の西側にあって、近くに木曽殿清水がある。
土地の人は、またいう。
こちらが本当の「義仲の産湯の清水」だと、なぜなら、木曽殿屋敷が、ここにあったのだからという。(木曽殿屋敷については、新編武蔵風土記稿にある。)
木曽殿なる地名は義仲の英雄を慕って後に付けられた地名なのか、義仲が一時的にもこの地に移り住んだものか、今はその屋敷の跡すら不明である。
もう一つ義仲に因み「木曽ぞの橋」なるものがある。
鎌形地内の植木山から中島を通って玉川村に通じる県道の橋で、わずか数メートル、ここには、西方から流れる川があって、橋のあたり深い小さな渓谷らしき地形をなし、土地の人は、妻の川とよぶ。
今、その橋は、妻の沢と書いてある。
昭和三十八年(1963)頃、架けかえた時、県の東松山土木事務所で、そう書いてしまった。
それはそれとして、この橋の別名「木曽ぞの橋」と刻んである。
明治年間か、県道の開通した時加設された木桁の橋は、「木曽殿橋」とあったという。
その時、どうして木曽殿をここに、ひきだしたものか、はっきりしない。
思うに、鎌形が義仲に関係しているので、この橋を「木曽殿橋」と当時の人の命名であろう。
それが更に大正末期か昭和の初め、架けかえの時に問題となった。
その時この橋の架設担当の県の土木事務所のものの手により「木曽ぞの橋」と書いてしまった。
その頃、菅谷小学校長宮崎貞吉氏や当地の小林仙造氏が、時の村長杉田富次郎氏に木曽殿と訂正するよう再三促したので、杉田村長も県へ連絡したところ、「橋の名称などは、単なる符牒なのだから問題でない」と一蹴されてしまったということである。
しかし、そのため「木曽殿」か「木曽ぞの」かは、今でも土地の人々の話題となり、疑問として、とどまるところを知らない。
さらに、ここに訪れる人々はこの橋の名を重要視して、なんとか木曽義仲に関連づけようとしている。
地名等のおこりには、過去の発展を物語るものが多いが、この橋の名称は、まことに無責任にすぎこのわけを知らない人々は長く話題とすることであろう。 (筆者は埼玉県立川越工業高校教頭。埼玉県郷土文化会常任理事)
『嵐山町報道』225号 1972年(昭和47)9月15日