嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

菅谷館址に忠魂祠が建てられる 1927年

2009年10月22日 | 菅谷


71web

参照: sabasaba13さんの『散歩の変人』川越編(6):埼玉県立歴史資料館(05.7)」。忠魂祠前に立てられた解説板の説明が「この祠(ほこら)は西南戦争以来、各戦役等に散華した本町出身者342柱の御霊を合祀したものであります。」と、「御魂(みたま)」ではなく、「御霊(みたま)」と表記していることに「御霊信仰」という点で注目している。

菅谷-31 馬頭観世音菩薩 1922年

2009年07月17日 | 菅谷

番号:菅31
分類:馬頭観世音菩薩
形態:丸型文字塔
場所:菅谷小学校隣墓地
年代:1922年(大正11)
寸法:100×65×25
石質:緑泥石片岩(台石;安山岩)
正面:馬頭觀世音
左面:
右面:
裏面:系統 内國産洋種/馬名 玉風/特徴 流星後左一白/年齢 五歳/服日 大正十台石:一年一月十八日/施主 中島喜市郎
備考:


菅谷-3 法華経読誦塔 1743年

2009年06月18日 | 菅谷

整理番号:菅3
石仏の分類:法華経読誦塔
形態:角柱型文字塔
所在地:東昌寺
造立年代:1743年(寛保3)
寸法(高さ×幅×奥行):95×54×52
石質:安山岩
正面:天[下]泰平/奉 読[誦南無妙法]蓮華経一千部敬白/[  ]安穏
左面:武州比企郡菅谷村/隠居幽山禅庸和尚
右面:願以此功徳 普及於一切/我等與衆生 皆共成佛道
裏面:茲時寛保三癸亥歳四月吉旦
台石:
備考:長慶山東昌寺4世幽山禅庸大和尚(1745年〈延享2〉4月26日寂)。


菅谷-2 大乗妙典読誦塔 1760年

2009年06月17日 | 菅谷

整理番号:菅2
石仏の分類:大乗妙典読誦塔
形態:角柱型文字塔
所在地:東昌寺入口
造立年代:1760年(宝暦10)
寸法(高さ×幅×奥行):155×83×78
石質:安山岩
正面:奉讀誦大乘妙典一千部敬白
左面:武州比企郡菅谷村住/願主 松浦亮益
右面:願以此功徳 普及於一切/我等與衆生 皆共成佛道
裏面:于時寳暦十龍次庚辰四月日
台石:
備考:龍次は干支の意味。


菅谷館跡に木橋を復元 1981年

2008年12月17日 | 菅谷

   「戦国時代の橋」を再現 史跡公園・菅谷館跡にまた新名所
 県が六千万円を投入、さる五十年(1975)から史跡公園整備を進めている比企郡嵐山町の菅谷館跡に、同事業の“目玉”となる「戦国時代の橋」がこのほど架けられ、中世の歴史のメッカにまた一つ新しい名所が誕生した。
 菅谷館は、鎌倉時代に畠山重忠が築いた居館。その後、戦国時代に造りかえられたといわれており、現在は本郭(くるわ)を中心に二の郭、三の郭、西の郭、南の郭跡が扇状に残っている。それぞれの郭は、土塁と空堀で防備されているが、古記録などを総合すると、戦国時代には、この空堀に連絡橋が架けられていた。
 県立歴史資料館では、昨年(1980)十月、西の郭と三の郭で発掘調査を実施。この結果、木橋は、三の郭の出入り口になっていたもので、手前には幅九メートルの門があり、ここは盛り土されて西の郭より約一メートル高くなっていた-などが確認された。また、空堀から木橋の橋脚を立てたと考えられる「石積み」が発見されたため、これを基にして、絵巻物全集などの資料、静岡県沼津市の山中城に復元されている中世の橋を参考にして、“戦国時代の橋”を再現した。
 このほど完成した木橋は工費八百万円。ヒノキの丸太棒を敷いた長さ二十一メートル、幅二・四メートルの橋で、高さ一・一メートルの手すりが取り付けられている。これは再現できなかったが、戦国時代には、敵が侵入するのを防ぐために、橋は三の郭から引っぱって取り払えるようになっていた。
     『読売新聞』1981年(昭和56)4月10日


比企西国札所26番多田堂

2008年09月05日 | 菅谷

 菅谷(すがや)の東昌寺(とうしょうじ)の山門を入ると、すぐ左側に観音堂(かんのんどう)がある。この観音堂の前身が多田堂で、岡松屋の道路向にある菅谷自治会館の場所、字東側(ひがしがわ)の菅谷154番地にあった。

  秀忠の乳母と岡部氏
 多田堂の本尊は千手観音(せんじゅかんのん)である。これは徳川将軍家二代秀忠の幼少期に乳母(うば)を勤めた岡部局(おかべのつぼね)が持仏(じぶつ)にしたことに由来すると言われている。菅谷の地は江戸時代の前半期は旗本岡部氏の知行地(ちぎょうち)であった。岡部氏の嵐山町域の知行地は他に、志賀(しか)、太郎丸(たろうまる)、勝田(かちだ)、滑川(なめがわ)町域では中尾(なかお)、水房(みずふさ)などがあった。岡部氏の先祖は岡部主水(もんど)という。主水の父は今川義元の家臣川村善右衛門(ぜんえもん)、母は岡部與惣兵衛(よそべい)の娘である。善右衛門は若くして亡くなり、妻は徳川家康に召し出され、幼い秀忠の乳母を勤めた。やがて主水も家康に仕えたが、家康から母方の岡部姓を名乗るように言われ、岡部主水と称した。

 岡部局は、将軍秀忠の病気全快のお礼と武運(ぶうん)長久(ちょうきゅう)を祈願して江戸の池上本門寺(いけがみほんもんじ)に五重塔を寄進(きしん)した。これは関東地方に現存する最古・最大の塔で、近年、全面解体修理が施(ほどこ)された。国指定の重要文化財である。

  多田堂の由来
 菅谷に居住していた多田七左衛門は、元禄期に岡部藤十郎(とうじゅうろう)から知行地菅谷村の支配を命じられた。二代目多田平馬重勝(ただへいましげかつ)は岡部家から十石(こく)五人扶持(ぶち)を与えられ、多田家は「陣屋(じんや)」と言われるようになった。岡部氏は菅谷の長慶寺(ちょうけいじ)跡地と伝えられた土地を1706年(宝永3(ほうえい))、多田家に与えた。長慶寺は畠山重忠が菅谷館(やかた)のかたわらに建て、後に館の鬼門(きもん)よけの地に移した寺と言われている。多田家は岡部家から賜(たまわ)ったこの地にお堂を建て、岡部局が持仏として信仰していた千手観音を祀(まつ)って多田堂と名付け、その地を多田家の墳墓(ふんぼ)の地とした。

 多田堂建立(こんりゅう)のいきさつは、菅谷自治会館の脇にある多田家の墓地にある高さ約2mの石碑に刻まれている。この碑は1797年(寛政9(かんせい)9)、三代目多田一角英貞(いっかくひでさだ)により建てられた。

 多田堂(ただのどう)は1723年(享保8(きょうほう)8)、比企西国(ひきさいごく)二十六番札所(ふだしょ)となり、人々の信仰をあつめて賑(にぎ)わった。その御詠歌(ごえいか)は次のとおりである。

頼(たの)め多田 菅谷木陰(こかげ)の 雨宿(あまやど)り

       誓(ちか)ひもらさじ 葉桜(はざくら)の笠(かさ)

 幕末には多田堂の維持が困難になり、菅谷村の人たちが維持に協力し、地元では千日堂(せんにちどう)と呼んでいたが、明治になって多田山(たださん)千日堂と改称、毎年9月20日に祭典の行事を行ってきた。1935年(昭和10)12月3日の菅谷の大火で間口(まぐち)二間四尺(約4.9m)奥行(おくゆき)三間四尺(約6.7m)の本堂は全焼。現在は東昌寺境内(けいだい)に観音堂として再建されている。

   博物誌だより123(嵐山町広報2004年11月)から作成


菅谷神社の伊勢講記念碑

2008年09月05日 | 菅谷

 菅谷(すがや)神社参道の杉の木立の間に石碑が二つ並んでいる。

 左にある石碑の上部には、四行八字の篆書(てんしょ)で「神聴無響霊監無象」とあり、「神ノ響無キヲ聴キ(かみのひびきなきをきき)霊ノ象無キヲ監ル(たまのかたちなきをみる)」と読める。神は人に乗り移っての託宣(たくせん)を、霊は夢枕(ゆめまくら)に立つことを言うのだろうか。下側には、「悠々(ゆうゆう)タル我(わ)ガ皇紀(こうき)二千六百年。聖徳(せいとく)ハ八紘(はっこう)ヲ掩(おお)ヒ国光(こっこう)は普(あまね)ク照(てら)シ、宜(よろ)シク新東亜(しんとうあ)建設スベシ。其(そ)ノ基礎ハ愈々(いよいよ)堅(かた)ク、伊勢講同人崇敬(すうけい)シ以(もっ)テ相(あい)連(つらな)リテ、橿原(かしはら)神宮ヲ拝(はい)シ大廟(たいびょう)ヲ謁(えつ)シ虔(けん)ヲ致(いた)シ、国土平康(へいこう)ヲ祈(いの)リ豊穣(ほうじょう)肥鮮(ひせん)ヲ願ヒ、武運(ぶうん)長久(ちょうきゅう)ヲ希(こいねが)ヒ家内(かない)安全ヲ望ミ、菅谷神社ニ会(かい)シ禊事(けいじ)ヲ脩(しゅう)シ、神前ノ壌(つち)ニ接スル壱反歩(いったんぶ)併(ならび)ニ壱百円ヲ献(けん)ジ、杉ヲ植ヱ神木(しんぼく)ト為(な)シ、文(ふみ)ヲ作リ石ニ刻(きざ)ミ伝(つた)フ。/皇紀(こうき)二千六百年四月三日 小柳通義撰文(せんぶん)併書[花押(かおう)]/菅谷村伊勢講同人(どうじん)之(これ)ヲ建ツ」とある。裏面には講元山岸徳太郎、世話人8名、伊勢講同人30名の名前が刻まれている。この碑文の作書者小柳通義(おやなぎつうぎ)は儒学者(じゅがくしゃ)で、二松学舎の創設者三島中洲(みしまちゅうしゅう)の門下、また菅谷館跡の畠山重忠像の建主であり、像の傍(かたわら)の碑文「重忠公冠題百字碑文」の作者でもある。

 その右にある石碑は皇紀(こうき)二千六百年紀念事業寄付者芳名(ほうめい)で、菅谷村伊勢講同人33名が九四五円と土地一反歩(三〇〇坪)を寄付していることがわかる。これらの石碑が立てられた1940年(昭和15)は、(皇紀)紀元二千六百年奉祝(ほうしゅく)の年であり、この人達も伊勢神宮と橿原神宮(かしはらじんぐう)を参拝した筈である。当時、鉄道省は両神宮参拝のセット割引乗車券を発行しており、橿原神宮正月三箇日(さんがにち)の参拝者は125万人で前年の20倍であったという。

 1937年(昭和12)に始まった日中全面戦争は長引き、国民生活は悪化し、東京オリンピックや万国博(ばんこくはく)は中止の止むなきに至った。その為にも紀元二千六百年祭は年頭より盛大に行われた。橿原神宮を中心に諸行事が行われ、極め付けは政府主催の紀元二千六百年式典で11月10日より14日まで宮城前広場で実施された。それらは「万世一系(ばんせいいっけい)・東亜安定・世界平和」をうたいあげたものだった。

 因(ちな)みに皇紀とは、日本の建国神話に初代天皇として登場する神武(じんむ)天皇が、日向(ひゅうが)から東進し大和(やまと)地方を平定の後、大和の橿原(かしはら)の宮で即位したとされる年を皇紀元年と定めた紀元である。古代から中国には千二百六十年毎の辛酉(しんゆう)の年には大革命が起きるという辛酉革命説がある。聖徳太子(しょうとくたいし)が推古天皇の摂政(せっしょう)であった西暦601年(干支(えと)では辛酉(かのととり))の千二百六十年前の辛酉年に大革命があったなら、それは神武天皇の即位であるとして、政府は1872年(明治5)、皇紀元年は西暦紀元前660年と決定した。翌年、神武天皇即位の日(紀元節)は太陽暦で2月11日、崩御(ほうぎょ)の日(神武天皇祭)は4月3日であるとされ、それぞれ祝日となった。また橿原神宮(かしはらじんぐう)は1890年(明治23)に創建された神社である。

   博物誌だより121(嵐山町広報2004年8月)から作成