嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

町の今昔 新発見の十三仏板碑と桜井坊 長島喜平 1969年

2010年12月17日 | 十三仏

〔はじめに〕前助役安藤先生より郷土史のことにつき、『報道』に書くよう依頼され、先年中に四回ばかり書いたが、病院へ入院してからそのままになり、最近簾藤惣次郎先生にお願いして、書いていただいた。続いて私も、ここにまた何回か書いてみましょう。
〔桜井坊〕昨年鎌形の簾藤甲子治さんから、前の畑から板碑が発見されたので見てくれと頼まれた。
 因みに簾藤さんの家は、修験道の家柄で桜井坊といい、ほかに大行院と石橋坊があって、この一院二坊が、鎌形八幡神社の祭を司り徳川幕府より御朱印二十石をうけ大行院十四石、桜井坊と石橋坊が各三石宛分配を受けていた。
 この一院二坊のうち、現在鎌形に存続するのは、簾藤さんの家だけで、多くの古文書を蔵していたというが、戦後焼却してしまったとのこと、それでも、漢籍五箱と古文書箱が残り、現在私が、鎌形神社の文書と共に読み、近々印刷の運びとなっている。
〔桜井坊の板碑〕桜井坊の板碑には、正応六年(1293)、今より約七百年前のものがあり、それには、大峰八大金剛童子とあり、大峰山は、大和吉野の奧で、修験即ち山伏の本山道場であった。
 この板碑により、桜井坊は既に鎌倉時代末期に存在していたと考えられる。
 徳川時代には、この一院二坊は幸手大先達不動院の霞下(配下)となり、京都聖護院末であった。
 板碑は、このほか正安三年(1301)の三尊板碑があり、石橋坊跡には、弘長二年(1262)の板碑があり、現在発見のものでは、これが嵐山町最古である。
〔新発見の十三仏板碑〕十三仏板碑は、県下に数えるほどしかない。
 簾藤さんの畑から掘りだされた板碑は、高さ七六糎(センチ)、巾三四糎で、永正四年(1507)十月の紀年銘があり、室町期のものである。
 十三仏信仰は、鎌倉末期に始まり、室町時代には、板碑にも刻まれるようになった。
 写真でわかるように、円の中に梵字で夫々仏を刻み、蓮華台の上にのせ、横に三仏づつ四列に配し下部は破損し、四仏不明であるが配列から推測でき、次のようになる。
      大日 薬師 弥勒 不動 
  虚空蔵 阿閦 観音 地蔵 釈迦
      弥陀 勢至 普賢 文殊
 上部の一尊の虚空蔵は、子供のいたずらか、または、なにかの呪術(まじない)のため、虚空蔵に穴を開けたものか、はっきりしない。
〔結び〕ここでは字数の制限で十三仏板碑の紹介にとどめ、出来れば、この十三仏板碑や菅中の板碑、更に石橋坊の弘長の板碑を町で指定したいと考える。(埼玉県郷土文化会理事比企支部長)

   『嵐山町報道』200号 1969年(昭和44)12月10日


町の今昔 吉田宗心寺の複合塔婆について 長島喜平 1968年

2010年12月16日 | 吉田

 吉田の曹同宗三休山宗心寺(森下道隆禅師住職)に昭和三四年(1959)十一月二十日嵐山町より指定された文化財の青石塔婆(板碑)がある。
 これは最近まで宗心寺所管の専蔵院跡の草群の中に倒れていたものを、町の文化財保護委員会の協議により、町当局に保存を進言し宗心寺境内に運びこみ、風化を防ぐため覆いをしたものである。
 塔婆とは、梵語でスチューパ(stupa)という。塔というと五重塔のような高い建物をさし、これは仏舎利(お釈迦さまの骨つぼ)を安置するが、一般に塔婆と言うと、法要や施餓鬼のとき、細長い木板に梵字と造立の趣旨、造立者を記し墓におさめる。
 塔婆は、まだ卒塔婆ともいい、平家物語などには卒塔婆流しとして既にあらわれ、浄土宗発展と共に盛んに立てられるようになった。
 ここで言う塔婆とは青石塔婆または板碑(いたび)と呼び、木片でなく青石を使用している。
 青石とは正確には緑泥片岩といい、小川町下里から産出するので下里石と言ったり、秩父の野上付近より更に多く産出するので、秩父青石と言い、荒川を利用して関東一円に運ばれて利用された。
この石は板状にはがれる性状があるので、塔婆や記念碑・庚申塔・墓標などに利用され、現今では建築用に門や玄関の装飾などに利用されている。
青石塔婆は、要するに墓石ではなく、追善供養の法要や更に逆修という理由により造立され、逆修とは死後の冥福を生前に祈り、これには、自己および自分夫婦のために造立されたものが多い。
さて、この板碑を複合塔婆と称しているのは、文化財審議に提出された時、既に提出者がその名称を使用していたのが正式になった。
 一名弥陀三尊来迎板碑で、中央に阿弥陀様と、その両脇に向って右に観音、左に勢至が線刻され、更に上部サンスクリット(梵字)にてキリーク(阿弥陀)が刻され現物は欠損しているが、ほぼ察せられる。このように弥陀の種子(梵字)と図像を組合わせたので、複合塔婆とよんだのである。
 造立年は文永七年八月(1270)で鎌倉時代にて、所謂元寇と言って元の大軍が日本へ押し寄せてきた年より五年前の造立される。
 阿弥陀信仰は平安末期に法然の浄土宗によって盛んになり、時代が進むにつれ、浄土宗のみならず一般的に阿弥陀信仰は隆盛を極わめこうした板碑にまで、当時の信仰を物語っている。なお、この塔婆(板碑)高さは一三四センチ、幅四六センチあり阿弥陀様の線刻はすぐれ、あまり例がないので、工芸美術品としても価値が高い。
 更に付記するが、関東には板碑約一万枚残り、嵐山町としては一五七枚あげられている。
 また鎌倉時代頃より造立され、本県では、小原の大沼公園にある嘉禄二年(1226)のものが一番古く、嵐山町では、鎌形の簾藤甲子治氏蔵の弘長二年(1262)のものが一番古いとされ、この宗心寺板碑(1270)は、それより八年後のものである。
 最近文化財の消滅が宅地造成や工業団地等により甚だしい折から、嵐山町で宗心寺板碑の保存に保護の手をさしのべたのことは、まことに意義深いことであり、一般町民の方々にも、板碑と限らず、史蹟や民具等に至るまで、大切に保存することにつとめていただきたい。
(付記)「嵐山町の文化財と観光」(昭四二、四月町制施行記念)を、お持ちの方は、複合塔婆の項、泉蔵院、室町を鎌倉に訂正してください。(筆者:嵐山町観光協会理事)

   『嵐山町報道』187号 1968年(昭和43)8月25日


町の今昔 嵐山町史資料銘記集 長島喜平 1968年

2010年12月15日 | 古里

 急に安藤助役さんから有線で、嵐山町報道に、郷土史的なものを掲載してほしいとの要請があったので、嵐山町郷土史片々として、書いてみることにした。
 まず第一回に資料銘記集を書きますが、資料銘記とは、資料になる銘で、文献のように系統だっていないで、仏像、懸仏、鰐口、銅鐘等に刻まれた文字、経分の奧書、建築の棟札、墓標、碑などの断簡的な文字である。
 その数は膨大なものであるからここでは一応江戸時代までとしそれ以後は割愛することにした。まず平沢寺の経筒(県指定考古資)
  敬白 勧進沙門実与
  奉施入如法経御筒一口
  右志者爲自他法界平等利益也
  久安四年歳次戊申二月廿九日戊午当国大主散位
  平朝臣玆繩方縁等
  藤原守通 阿部末恒
  藤原助貞
とあり(1148年)、平安期の埋経風習を考察するに貴重な資料である。

(二)向徳寺の仏像は、正式には銅造阿弥陀如来及両脇侍立像となっている。蓮華台座が三重になり、花弁が下にそりかえっているところに銘がある。
  武州小代奉冶鋳檀那父栄尊母阿息西文宝治二己酉二月八日
とあり(1248年)、小代は鎌倉時代児玉党一族正代の根拠地東松山市高坂である。
 このような三尊を善光寺式三尊といい、南埼玉郡宮代町西光院のものと共に、県下ですぐれたものである。

(三)鎌形簾藤甲子治氏蔵板碑
  弘長二年戌十二月 諸行無常是生滅法 生滅々巳滅爲楽
があり(1262年)、同氏蔵として、このほか数枚あり、最近十三仏板碑も発見された。

(四)吉田宗心寺複合塔婆
  弥陀三尊図と蓮台上にキリーク(欠損)、更に文永七年八月
とある(1270年)。
 尚、阿弥陀三尊板碑の天文五年(1536のものが菅谷中学にある。

(五)吉田日影堂板碑(1340年)
  南無釈迦牟尼仏、南無法蓮華経、南無十羅刹女等、暦応三年庚辰十一月日 一結輯三十三人敬白

(六)鎌形八幡神社の懸仏(二枚)
 懸仏とは俗称で、本来は御正体といい、華蔓とも言った。神仏習合にて、神を仏像にあらわしたものであるという。
  渋河閑坊 貞和二二戌子年七月 施立 大工兼泰
  奉納八幡宮宝前 安元二丙申天八月之吉 清水冠者源義高
前者(1348年)は、当時陰刻であるが、後者(1176年)は、のちに刻したものらしい。

(七)古里吉場平五郎氏蔵板碑 
  貞治六年八月
にキリーク梵字の阿弥陀と花瓶がある(1367年)。このほか、この町内には160基ばかりの板碑がある。

(八)越生町最勝院の般若経奧書
  至徳三年卯月日 武州比企郡釜形郷八幡宮常住於平沢寺丹仙房書
  至徳三年卯月日 比企郡平沢寺住僧金剛仏子栄徳
最勝寺の般若経はおしいことに散逸している(1386年)。

(九)入間市蓮華院鰐口
  奉施入武州比企郡千手堂鰐口大工越松本
  寛正二年辛巳十月十七日願主釜形四郎五郞 敬白 栄満 妙阿
 この時代社寺具の移動が多い(1461年)。

(十)浄蓮寺の銅鐘 
  敬白 武州比企郡釜形郷 八幡宮鐘 大旦那矢野安芸守 文明拾一年己亥八月九日 聖永運 永海(一四七九)
 矢野安芸守は上杉氏の家臣、当時争乱のさなか、軍旅のよって運ばれたものか(1479年)。

 枚数の都合上簡略にいたしました。次回は民族的なものを取りあげます。(文化財副委員長)

   『嵐山町報道』185号 1968年(昭和43)6月25日