嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

嵐山町の石仏8 石造物の分類とその概要6 天部

2009年03月08日 | 嵐山町の石仏造立の背景

○天部(てんぶ)
 天部は仏を守ることを主な役目とする。天部の大半はバラモン教(後のヒンズー教)の神々が起源である。このうち梵天・帝釈天・多聞天(毘沙門天)に日天・月天・伊舎那天・火天・摩天・地天・水天・風天・羅刹天を加えたものを十二天という。「十二」は仏を完全に防護することに由来し、各天の守備範囲は北が多聞天、北東が伊舎那天、東が帝釈天、南東が火天、南が摩天、南西が羅刹天、西が水天、北西が風天、さらに上方を梵天、下方を地天、また昼は日天、夜は月天が守っている。
 嵐山町には石仏として水天が3基、日天が千手堂の槻川橋付近に1基ある。また天部には十二天のほかにも弁財天や大黒天、摩利子天などが石仏としての造立されている。

・水天(すいてん)
 天部のうち自然を神としたもので、日が日天、月が月天、水を水天などとした。嵐山町には水天は三基あるが像塔は見当らず、文字塔と石祠が見られ、文字塔は水源に、石祠は水田に近い畑中に造立されている。水天は弁財天、九頭竜権現などと共に水の守護神として祀られた。インドのベーダ神話から水の支配者として仏教に取り入れられたもので、十二天のうち西方を守る龍王とされる。水の災害を防ぎ、雨乞いを祈って造られたもののようである。

・日天(にってん)
 日天は日天子ともいう。サンスクリット語では「アディティヤ」である。太陽を仏教に採り入れた天部の一つで、もとはヒンズー教の神である。嵐山町の日天子は日待塔として造立されている文字塔が千手堂の槻川橋付近にあり、これが嵐山町唯一のものである。この日待塔に並んで題目塔が三基あるが、日蓮宗の開祖日蓮が日天子を崇拝していたといわれることと何らかの関連があるものと推測される。

・毘沙門天(びしゃもんてん)
 毘沙門天のもとの名は多聞天と言い、仏の世界の東西南北を守る四天王のひとりで、北方を守っていた。四天王とは持国天(東)・増長天(南)・広目天(西)・多門天(北)をいう。いずれも武神の像容で、忿怒の表情であり、毘沙門天は宝塔を手にすることが特徴である。
 四天一組で信仰されていたが、その信仰は早くから衰えたようで、毘沙門天だけが独尊で信仰が続いた。武神が福神へと変化し、七福神の一員となったのである。嵐山町の毘沙門天は文字塔が1基確認されているのみで、川島の鬼鎮神社境内の北面に文字塔が造立されている。

・弁財天(べんざいてん)
 弁財天の由来は他の天部の仏と同じように、インドのヒンズー教がもとになっている。「聖なる川」という名の通り、もとは水の女神であった。川は豊かな大地を潤すことから、豊かな実りの女神とされ、それから財宝を与える女神へと発展し、七福神の一員として福徳や財を祈る神に位置付けられた。
 弁財天造立の目的は池沼・河川・水源地など水辺に祭り水神として、また巳待供養の主尊として豊かな水を願うことであった。
 嵐山町の弁財天には像容のものはなく、文字塔が13基と石祠が1基ある。石祠の弁財天は1749年(寛延2)、講中による造立で、これが嵐山町における弁財天の初出のものである。この石祠は水源池の小島の中にある。文字塔弁財天のうち八基は個人による造立で、それ以外の四基は講中・村中といった集団による造立である。また造立者不明のものが1基ある。造立地は個人宅の庭池畔に3基、沼の堤上にあるものが4基、谷奥の湧水地に立つものが3基、寺院にあるものが2基、路傍にあるものが1基である。

・大黒天(だいこくてん)
 大黒天も元はヒンズー教の神で、武神として三面六手で真黒な恐ろしい姿であったが、仏教に取り入れられ日本に入ってきたときには、日本の大国主命と一体となりおだやかな姿に変化していた。また大黒天は台所の守護神という一面があったので、穀物の神、食物の神、財産を豊かにする神としても信仰されるようになった。江戸時代には現在知られるような米俵の上に立ち、小槌と大きな袋を持つ姿となり、恵比寿と共に七福神の代表的な存在となった。
 嵐山町の大黒天は立像と座像がそれぞれ1基ずつ、文字塔が6基あり、文字塔のうち1基は「甲子大黒天」となっている。この「甲子」でわかるように、大黒天の多くは甲子講中・子待講中によって造立されたものである。嵐山町の初出は1857年(安政4)で、1864年(元治元)までの間の造立は文字塔のみである。像塔2基はいずれも昭和期に個人で造立されたようであるが、年代は刻されていない。

・摩利支天(まりしてん)
 摩利支天はサンスクリット語で「マリーナ」と言い、その意味は「かげろう」で、仏教では日天と月天の前を目に見えないほどの速さで駆ける女性の天であるとされている。駆ける速さに加え、さらに偉大な神通力を持ち、すべての困難から免れるということが、仏教経典に述べられている。特に武士階級に信仰された。
 嵐山町には像塔が2基、文字塔が1基あり、像塔はごく最近、立像と座像が個人により、大蔵の大行院にごく最近になって建てられている。また文字塔は明治期に、時の剣術家によって造立されたものが志賀の宝城寺にある。

※嵐山町博物誌調査報告第8集『嵐山町の石造物1』(嵐山町教育委員会発行、2003年3月)掲載の島﨑守男「嵐山町の石仏造立の背景」(同書13頁~15頁)より作成


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