嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

道路行政を確立せよ 関根昭二 1965年

2009年02月27日 | 嵐山地域

   論壇 道路行政を確立せよ
 吾々が見知らぬ町や村を訪れた時そこに坦々と開けた新道を見ると、その町や村がいかにも建設の息吹きに燃えているような感じを受ける。道路は今日ただ単に交通のためのみならず、経済の発展や文化の発達、産業の伸展等に欠かすことのできない要素となってきている。市街地の形成にしても、まづ道路の整備が先決である。こうみてくると道路は極めて重要な政治的意義を持っていることになる。従って村としてもこの道路に対する基本的な考え方を明かにしておく必要がある。
 道路には国道、県道、村道、それに建設省の道路として村が維持管理している所謂(いわゆる)馬入(うまいれ)がある。このうち特に関係があるのは村道と馬入である。現在村道には殆ど村の境界杭が入っていない。馬入については尚更である。従って道幅が何メートルあるのか少しもはっきりしていない。それのみならず、道路になってをりながら登記してない所さへある。道路行政が如何にルーズで投げやりであるか、これだけでもわかる。
 まづ未登記の道路を速やかに登記すべきである。次に境界杭をはっきりと打ち込むべきである。その際、道幅を確定することが必要であるが、これには曲を直し道路が交差する地点を見通しのきくようにラッパ型にすることである。
 第三に道路の階級を設けて村内各に通ずる主要道路を一級道路とし、これはすべて幅員六メートルとする。これに要する費用は全額村負担とする。その他の道路は二級村道として四メートル道路とする。この費用は地元に若干の負担をしてもらう。この一級、二級村道の新設、拡張は地元の協力がなければできないが協力態勢の整った地区から予算を投入して実施してゆくようにすべきである。
 第四は馬入であるが、これはその名の通り昔馬で仕事をした時代そのままの道であり、耕うん機や軽四輪の発達した今日ではかなり狭い道となってしまった。まして市街地形成地区に於ては住宅が次々に建築されている現況であり、消防自動車は入ることができないし下排水も思うに任せない。然もこの馬入たるや六尺の道か九尺の道か少しもはっきりしていない。道路行政を確立する上において先づ基本的なことは道路計画を確立することである。未だに道路の予定線が明確に示されていないことは徒(いたず)らに混乱を来たすだけであり、然も時日が経過すれば困難な事態が惹起されることは明かである。ブロックの塀ができたり、石垣が築かれたりしている現状ではなかなかこれを取り除かせることは難しくなるばかりである。曲がり角や将来道を伸ばしたいと思う処に家が出来れば立退きも容易ではないし、道路も拡張できなくなる。
 従って道路問題についてはこれを総合的に検討する道路委員会なり道路行政審議会なりを特別に設ける必要がある。この委員会は村長の諮問機関とし、役職にとらわれない人選がなさるべきである。
 関根村政発足以来すでに一年となる。理想の田園都市を建設せんとする意欲に対して村長は大いなる期待と希望を寄せている。田園都市構想は先づ道路行政の確立が急務であり、道路に対する基本的考え方を明確に示すことを強く希望して止まない。(関根昭二)
     『菅谷村報道』163号 1965年(昭和40)9月30日 論壇

   村道境界の維持について
 皆様はすでにご承知のことと思いますが、本村内の道路のほとんどが建設省の所有であり、村長の管轄下にあります。道路は公共のものでありますので、関係者は次の事項をよく守りましょう。

  ◎無断で道路以外に使用しないこと
 あまり使用しない道路であるからといって、勝手に畑や宅地等に使用したり、又商品等道路に並べたりして他人に迷惑をかけぬようかならず占用許可を受けて下さい。

  ◎道路に接した土地の境界は勝手に一人ぎめしないこと
 農地や山林などを分割して第三者に売渡す場合、村の立合なくして分割した場合道路境界を村において調査した結果、その境界が道路敷に入りこんでいるときは直ちに境界の変更を地主立合の上することになります。そのために第三者に迷惑をかけぬよう、又ブロック塀並びに他の工作物等を境界に設置する場合も、立合人なくして設置した工作物が道路敷にありますと撤去していただくことになり、設置した者は大きな損害を被る結果になりますから、事前に公共用地境界査定願を提出して村の許可を受けてから実施して下さい。
 なおこのことについて不明な点がありましたら、遠慮なく役場にお問合せ下さい。(産業建設課)
     『菅谷村報道』163号 1965年(昭和40)9月30日


町の今昔 嵐山町の円空仏 長島喜平

2009年01月14日 | 嵐山地域

   嵐山に円空仏三体 町文化財級の価値(『毎日新聞』1982年9月8日)

   おや珍しい円空仏 前鬼と後鬼お供 役行者
      嵐山の農家から発見(『読売新聞』〃9月8日)

   珍しい三体の円空仏 嵐山町の農家で発見
      前鬼と後鬼を従えた役行者 全国でもまれと評価(『埼玉新聞』〃9月9日)

   嵐山町の円空仏=役行者の三体仏=   長島喜平
 「円空仏ってなんですか」「役行者(えんのぎょうじゃ)とは、前鬼・後鬼とは、なんですか」とたびたび聞かれる。
 それは、九月八日と九日の新聞に、鎌形の簾藤甲子治さん宅にある円空仏が報道されたので、町の人々から尋ねられる。
 この仏像は三体が一組になり、役の行者の脇侍として、前鬼・後鬼を従えている。

  まず、円空とは?
 円空は何であるか、いつ、どこで生まれたのか、はっきりしない。
 元和か寛永の頃(1620年~1630年頃)の江戸時代初期に、美濃国中島郡中村(今の岐阜県羽島市)に生まれたという。
 二三歳で出家し、法隆寺や園城寺に学び、尾張国高田寺で密教をおさめ、修験道を行うじ、大峰山や白山などを修行して歩いた。
 円空は仏像を十二万体刻むことを発願し、中部・関東・東北へと遍歴の旅をしながら、仏像を刻んで歩いた。この円空が刻んだ仏像を円空仏という。
 円空仏の特徴は、一本の丸太の木を二つ割りが、四つ割りにしてナタやノミで、そのままの材に切り込みを入れる方法で刻み、仏像の鼻や胸・合掌・台座などは、素木の突起部などを、うまく利用して刻んだ。
 刻んだ仏像の背中(後側)は、割ったままになっているのが多いまことに素朴な仏像彫刻である。
 この円空が刻んだ、役の行者の三体像が、簾藤さん宅にある。
 それでは、役の行者とは、どんな人なのか。
 役の行者は、役の小角(おずぬ)といい、舒明天皇六年(634)に生まれたというが、はっきりしない。役の行者については、伝説的なことが、まことに多い。
 ただ続日本紀(しょくにほんぎ)によれば、大和の葛城山にこもって修行した呪術家であるという。役の行者が死んで約千年も後の江戸時代に、修験道がおおいに発展した頃、修験の始祖としてあがめられ、寛政十一年(1799)には、神変大菩薩という尊号を賜っている。
 山にこもり孔雀明王の呪法を行じ、鬼神を駆使したといい、更に多くの仏典を読み通じ、生駒山・熊野・大峰山・金峰山などの山野を歩き、神験をあらわしたという。
 こうして、役の行者が呪術に通じたので妬(ねた)まれ、ざん言により罪になったが、空中を飛びまわって捕らえることが出来なかったという。
 そこで、役の行者の母を捕らえて行者をおびきだし自首させ、伊豆の大島に流したという。
 しかし夜になると富士山まで飛んでいって修行したり、母のもとに行って孝養をつくしたという。
 こうしたことは、あまりに役の行者が修行してこの道をきわめたことが、伝説となったのであろう。
 役の行者の姿は、多くの場合、頭巾をかむり短い法衣を着、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に経巻を持ち、また腰をおろした形の像や絵が多い。
 なお、前鬼・後鬼を従えているが、前鬼は行者の左側にいて斧(おの)を持ち、後鬼は右にいて徳利を持っているのが普通であるが、この簾藤さん宅のものは、後鬼は何も持っていない。
 この二つの鬼は、もと生駒山の麓に住んでいた悪い夫婦鬼であったが、役の行者が捕らえて大峰山において使ったというが、どちらも改心して善い鬼になったという。
 円空は多くの仏像や、いろいろな像を刻んだ。
 埼玉県下では、春日部市・大宮市を中心に百三十二体、簾藤さん宅の三体を合わせて、百三十五体発見されているが、まだまだ発見されるかも知れない。
 円空仏という円空の刻んだ像は観音・薬師・阿弥陀・不動明王などが多く、役の行者もいくつかあるが、前鬼・後鬼を従えて三体そろったものは、恐らく全国でも簾藤さん宅のものだけだろう。
 それでは、なぜ簾藤さん宅にこの円空仏があるかというと、鎌形には一院二坊の修験(山伏)の家があった。
 一院とは、大行院の斎藤家、二坊とは桜井坊の簾藤家と石橋坊の矢野家があって、この三家にて鎌形八幡宮の別当をしていた。この三家は非常に古い家柄で、江戸時代以前にさかのぼると思われる。
 明治以前は、神官が神社の祭りをしていたとは限らない。修験者が神社を支配して、のりとではなく般若心経(はんにゃしんぎょう)をあげていた神社も多くあった。まさに神と仏がいっしょの神仏混淆(こんこう)の時代であった。
 この大行院と二坊は、今の春日部市、当時幸手領小淵村の不動院(現在はない)の霞下(配下)であった。(霞とはなわばりと考えたほうがよい。)
 この不動院は修験寺であって、京都聖護院直々の配下で、大先達といい、大行院はその下で準年行事職にあって、連絡などで度々不動院まで出向き、また桜井坊や石橋坊は、大行院の代りとして、小淵の不動院に出向いたことであろう。
 その時、桜井坊の当時の主が、手に入れて帰ったものであろう。
 新聞には、ひょっとすると桜井坊の当時の主が、円空に直接会って戴いてきたのかも知れないとあったが、そういう可能性は多分にあると思う。
 円空仏は相当発見されているがこの三体仏のようなものは、全国でも現在のところ類例がないと思うので、ぜひとも嵐山町の文化財に指定したいものである。
     『嵐山町報道』310号 1982年(昭和57)10月30日


関越自動車道東松山-花園間インターチェンジ新設促進期成同盟会発足 1985年

2009年01月02日 | 嵐山地域

   関越道に新インタを
     小川町など九市町村 来月にも本格陳情

 今秋にも全線開通する関越自動車道(練馬-新潟)の東松山-花園インタ間に、新たなインタ建設を求める期成同盟会が発足、五月にも日本道路公団、建設省などへの本格的陳情を始める。
 期成同盟会には、比企郡小川町、嵐山町、熊谷市など近隣九市町村が加盟、小川町の松本繁夫町長が会長になっている。インタ建設地は、小川、嵐山境で、県道熊谷小川秩父線との交差する地点。東松山-花園間は十六・七キロあり、練馬-前橋間では最長。近隣市町村では東松山、花園両インタへ通じる道路が不便なため、熱望している。熊谷市でも、荒川対岸の南部開発構想にとってプラスと判断して加わった。
 しかし、花園インタへの連絡道建設を長期構想としている深谷市は、工業団地への工場誘致で便利になる熊谷市に後れを取ることになるなどから難色を示し、同盟会には加わらなかった。
 今年度は九市町村で二十七万五千円の予算を計上。額は少ないが、食事代などは自前で持つことにして誘致運動を展開していく。
     『朝日新聞』1985年(昭和60)4月18日。嵐山小川インターチェンジは2004年(平成16)3月27日に供用開始。