嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

大蔵館の通用門を発掘 1983

2008年12月25日 | 大蔵

   大蔵館跡 通用門を発掘
     町道 鎌倉街道裏付け

 嵐山町教育委員会は、県指定史跡の大蔵館跡東側約三百平方メートルを発掘、幅四メートルの切れ目がある土塁二か所と堀を発見した。この土塁の部分は、大蔵館の通用門だったと推測できるという。
 発掘は、現在ある農道が幅四メートル、長さ百五十メートルの町道に拡幅されることに伴って行われた。
 大蔵館は、都幾川沿いの丘陵地にあり、広さ約三・四ヘクタール。木曽義仲の父、源義賢の館と伝えられている。義賢は、平安時代末期の久寿二年(一一五五)に源義平に攻められて滅び、当時二歳だった木曽義仲は、斉藤別当実盛によって木曽へ逃れた。
 こうした、貴重な史跡のため、発掘調査して後世に残すことにしたものだが、大蔵館の表玄関の通用門が発見されたことで、同町教委では、国立婦人教育会館わきから鎌倉街道の笛吹峠を通って鳩山町へ抜ける町道が鎌倉街道だった、という見方を固めている。今後、調査を続け、報告書をまとめ裏付けることにしている。
     『読売新聞』1984年(昭和59)1月8日


発掘調査で菅谷館跡西側の鎌倉街道跡は堀跡と判明 1983年

2008年12月18日 | 千手堂

   鎌倉街道 実は堀跡 嵐山町の菅谷館跡近く
 坂東武者が「いざ鎌倉へ」とはせ参じた鎌倉街道と呼ばれる道は県内を縦横に走っているが、その典型とされていた比企郡嵐山町の菅谷館跡(国指定の史跡)の西側を走る「鎌倉街道跡」約二百メートルが、実は堀の跡で、従来のルートは間違っていたことが県立歴史資料館などの調査で明らかになった。この場所は、鎌倉街道の石碑や県の案内板が立てられ、断定的に記述している書物も多く、一般に広く知られていただけに、専門家や地元関係者はショックを受けている。
19830324

   200メートル分、定説覆す
    県立歴史資料館 専門家らショック
 代表的な鎌倉街道は上通、中道、下道と呼ばれ、嵐山町を南北に縦断しているのは上通の一部。このうち、鎌倉街道跡でないと断定されたのは、菅谷館跡・県立歴史資料館の西側約三十メートルの同町千手堂の雑木林や畑の中を走る約二百メートルの部分。鎌倉時代の代表的内な武将、畠山重忠が約二十年間住んだ菅谷館跡の近くにあり、周囲より一メートルほどくぼんだ幅約五メートルのこの「道」は、重忠が鎌倉に参上する時に通った道とされていた。
 従来の定説をくつがえすきっかけとなったのは、同資料館が五十六(1981)、五十七年度の二年がかりで進めた「歴史の道調査」。「街道跡と言っても、外見以外に決め手はない。発掘調査してみたらどうか」との専門調査員の提案で、昨年夏(1982)、嵐山町のほか、入間郡毛呂山町、比企郡小川町、大里郡寄居町の四カ所で、幅五十センチほど掘ったところ、毛呂山、小川、寄居町の三カ所では街道の両側に排水用とみられる側溝を確認、本格的な道があったことが分かった。しかし、嵐山町千手堂の部分は道らしい跡を確認できず、逆に、室町時代のものと思われる堀(上幅五メートル、下幅一・五メートル、深さ二メートル)のあることが分かった。
 さらに、近くに舗装道路を造ることにしていた嵐山町の教育委員会が、今年一月から道路予定部分を発掘調査したところ、「街道跡」とされてきた所の下に少なくとも長さ八十メートルの堀があることが判明した。また、鎌倉時代末期から室町時代後期のものとみられる板碑四本、多数の柱の跡などが発掘された。
 同資料館の栗原文蔵・調査研究部長は、「鎌倉街道跡でないことは争う余地がない。専門家にも堀を見てもらったが、皆『参ったなあ』というのが率直な感想でした」と話す。
 では、本当の鎌倉街道はどこを通っていたのか。同資料館では、地元の古老などの話から、国立婦人教育会館の敷地内を通るコースが最も妥当とみている。
 一方、近くに舗装道路を三月末までに完成させることにしていた嵐山町は県教委文化財保護課と協議、堀が発掘された部分は、いつでも復元できるように砂で埋め戻し、その上に土盛りして舗装することで合意した。計画は一年遅れるが、予定通りのルートで舗装道路はできることになった。しかし、「新たに発掘された堀や柱跡が国師弟の史跡の菅谷館跡の一部の可能性もあり、この際、きちんと調査すべきだ」という声が研究者の間にあり、議論を呼びそうだ。
     『朝日新聞』1983年(昭和58)3月24日

   鎌倉街道跡ではない
     菅谷館跡西側くぼ地 実は城郭の堀跡
 嵐山町菅谷の国指定史跡菅谷館跡西側にある延長二百メートルのくぼ地が「鎌倉街道」の跡と言われていたが、実は城郭の堀跡であることが、嵐山町遺跡調査会(阿部富育会長)の発掘調査で判明した。県立歴史資料館の昨年夏(1982)の調査でも一部で堀跡が発見されており、定説が覆った。

   発掘調査で定説覆る
 町遺跡調査会の発掘調査は、農免道路敷設工事に伴い、山王遺跡、上石堂遺跡が姿を消すため今年一月から進められていた。大妻女子大付属嵐山女子高校西側から槻川、都幾川の合流地点まで延長約五百メートル、幅十メートルを発掘し、今月いっぱいで終了する。
 発掘は、鎌倉街道の延長沿いに行われ、珍しい中世の陶器の破片が段ボール箱に五個分発見された。そして長さ百メートルにわたって堀が発見された。幅は、広い所で五メートル、深さは三メートル。昨年七月、歴史資料館は、鎌倉街道の地下遺構がどのようになっているかを調べるため、二地点で掘った。この時、堀跡が出てきて、同資料館では、さらに本格的な調査が必要だとしていた。今回、同調査会の発掘により、城郭の堀跡が出現したことで、鎌倉街道ではなかったことが裏付けられた。
 菅谷館跡西側には、町が「鎌倉街道」の石碑を建てているほか、県も「ふるさと歩道」のコースを示す看板を立てている。これも“幻の街道”になりそうだ。
 その時私は 「鎌倉街道ではない」と語る県立歴史資料館、林宏一歴史資料室長(三八)
  「鎌倉街道という古くからの伝承だった。毛呂山町などの道路状遺構と違っており、わずか二メートル幅の発掘で堀が出てきたことから、鎌倉街道でないことは明確だ」
     『読売新聞』1983年(昭和58)3月24日


菅谷館跡西側の鎌倉街道跡に疑問符 1982年

2008年12月17日 | 千手堂

   菅谷館跡の西側を走る街道跡 本名説に“疑問符”
     畠山重忠の通った鎌倉街道はどこか 県立資料館が調査
 鎌倉時代の代表的な武将、畠山重忠は、ゆかりの地・菅谷館のある比企郡嵐山町のどこを通って鎌倉に上ったのか-。県内には、各地に武士団がおり、それぞれが本拠地から「いざ鎌倉」とはせ参じて行った鎌倉街道と伝えられる古道が縦横に走っているが、県立歴史資料館の調査によって、これまで「まず本物」とみられてきた同町菅谷の国指定史跡、菅谷館跡の西側を走る鎌倉街道跡は「どうやら間違い」と“疑問符”がつけられた。同資料館は、まだ調査中のため「確定的なことはいえない」と慎重だが、この街道跡については「鎌倉街道」と断定的に記述している書物も多く、すでに石碑や県の案内板も建てられていることなどから、今後、研究者だけでなく町民の間からも議論がわき起こりそうな雲行きだ。

  嵐山町 石碑や案内板が建てられているが
       街道跡、確認できず 今月にも専門家が協議
 問題となっている鎌倉街道跡は通称、上道(上野信濃越後本道)と呼ばれる古道の一部といわれるもので、四十八年(1973)5月、国の指定史跡となった菅谷館跡の西側約三十メートルの同町千手堂にあり、山林や桑畑に囲まれた幅約十メートルで南北にくぼ地状となって約二百メートル走っている。今回、“疑問符”がつけられるきっかけとなった調査は、同館跡内にある県立歴史資料館(島田桂一郞館長)が中心となり、文化庁の補助を受けて、五十六(1981)、五十七年度の二カ年事業として進めている「歴史の道調査事業」。五十六年には、県下七十九市町村の学校教師や郷土史家ら各一人を調査員に委嘱して各地域に言い伝えられる鎌倉街道を調査し、昨年(1982)三月、伝承地所在確認の報告書を刊行。五十七年度からは同資料館の学芸部員や専門調査員が伝承地を実地調査するなどして、周辺の寺社や地蔵尊、馬頭観音との関係、地元の古老からの聴き取り調査などを行ってきた。
 その結果、大半の部分については問題なく調査は終わったが、最期に残ったのが、同資料館の“おひざ元”の鎌倉街道跡。同事業の調査項目には発掘は含まれていなかったというが、同資料館では、より確かな調査を行おうと、昨年秋、学芸部員ら職員の労力奉仕で試掘調査を実施。嵐山町のほか、入間郡毛呂山町と比企郡小川町、大里郡寄居町の四カ所で、街道を横断する形で幅五十センチの溝二本を掘ったところ、毛呂山、小川、寄居町の三カ所では街道両側に排水用らしい側溝を確認、街道跡はまず間違いないことが裏付けられた。しかし、問題の嵐山町の街道跡では側溝はおろか、街道跡である確認もできず、「大掛かりな調査をしなければはっきりしたことは言い切れないが、(どこが鎌倉街道の)本家本元かよくわからない」(島田館長)事態となり、館跡に近いことから現在の街道跡は、堀の跡ではないかとの疑問も出てきている。
 同町内にはもともと鎌倉街道跡と伝えられるルートが、同町千手堂をはじめ、中世の中ごろ、鎌倉の方向から信州・善光寺に通じる道筋を折り込んで書かれた宴曲抄に記されている現在の国立婦人教育会館筋を通るルートなど三つあったという。いつごろ、だれが千手堂のルートを確定的な鎌倉街道跡としたかは分からないが、三十三年(1958)四月、地元の有志約八十人が「鎌倉街道」の石碑を“街道筋”横に建立、鎌倉街道について書かれた本などにも、ほとんどの著者が。この鎌倉街道を確定的に記載している。同資料館も例外ではなく、同館発行の冊子にも「(菅谷館跡の)西側には館跡にそって鎌倉街道が通っております」と記述され、“街道跡”横に県の案内板が建てられているだけに、資料館も今回の調査結果はショックだったらしく、島田館長も「発掘の前に、軍事的にみても、街道があまりに館跡に近過ぎ、おかしいのではないかとの議論もありました」と困惑した表情。
 同資料館では今年三月に調査報告書をまとめる予定で、一月には学芸部員と県の専門調査員らがそれぞれの調査結果を持ち寄り、同町内のどこを鎌倉街道が通っていたかを突き止める会議を開くことにしている。
 畠山重忠といえば、現在の大里郡川本町を本拠に嵐山町菅谷を別館に構えていたと伝えられる郷土の英雄だけに、一月の会議は注目を集めそうで、今後、研究者の間だけでなく、町民などの間からも「わが英雄はどこを通って鎌倉へ上ったのだろうか」との議論がわき起こりそうだ。
     『埼玉新聞』1983年(昭和58)1月1日
1958年(昭和33)4月、地元の有志約八十人が建てた「鎌倉街道」の石碑についてはhttp://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/weblog/2008/09/post_5651_1.htmlを参照。


菅谷館跡に木橋を復元 1981年

2008年12月17日 | 菅谷

   「戦国時代の橋」を再現 史跡公園・菅谷館跡にまた新名所
 県が六千万円を投入、さる五十年(1975)から史跡公園整備を進めている比企郡嵐山町の菅谷館跡に、同事業の“目玉”となる「戦国時代の橋」がこのほど架けられ、中世の歴史のメッカにまた一つ新しい名所が誕生した。
 菅谷館は、鎌倉時代に畠山重忠が築いた居館。その後、戦国時代に造りかえられたといわれており、現在は本郭(くるわ)を中心に二の郭、三の郭、西の郭、南の郭跡が扇状に残っている。それぞれの郭は、土塁と空堀で防備されているが、古記録などを総合すると、戦国時代には、この空堀に連絡橋が架けられていた。
 県立歴史資料館では、昨年(1980)十月、西の郭と三の郭で発掘調査を実施。この結果、木橋は、三の郭の出入り口になっていたもので、手前には幅九メートルの門があり、ここは盛り土されて西の郭より約一メートル高くなっていた-などが確認された。また、空堀から木橋の橋脚を立てたと考えられる「石積み」が発見されたため、これを基にして、絵巻物全集などの資料、静岡県沼津市の山中城に復元されている中世の橋を参考にして、“戦国時代の橋”を再現した。
 このほど完成した木橋は工費八百万円。ヒノキの丸太棒を敷いた長さ二十一メートル、幅二・四メートルの橋で、高さ一・一メートルの手すりが取り付けられている。これは再現できなかったが、戦国時代には、敵が侵入するのを防ぐために、橋は三の郭から引っぱって取り払えるようになっていた。
     『読売新聞』1981年(昭和56)4月10日


地元町民の手で杉山城整備 1981年

2008年12月17日 | 杉山

   土塁など戦国時代のままに 嵐山の町民「杉山城」復元
 郷土の貴重な城址(じょうし)を守ろうと比企郡嵐山町の町民たちが、中世の山城「杉山城」を整備、県民たちが、じっくりかんしょうできる立派な史跡にに仕立て上げた。
 杉山城は、比企郡嵐山町から県道菅谷-寄居線を通って町道へ入った杉山地内にある。山の標高は、九十五・三メートルで面積は約七ヘクタール。武蔵七党に属する児玉党の一族が戦国末期に築城したとされる。
 自然の地形を生かした山城で、川越、松山、鉢形城など大きな城の守りや連絡の役割を果たしていた出城が砦(とりで)だったと推測されている。こうした城郭は、防御を中心に築かれているのが通常だが、杉山城は、小口のくい違い土塁で内部を目隠しにしたり、幅一メートル程度の狭い通路に斜面を付けて侵入してくる敵をどの地点からも攻撃できるように工夫され、攻防を兼ね備えた「陰陽和合の城」として城郭史上で全国的に貴重な資料となっている。この貴重な郷土遺産、県指定史跡として保護されていることになっているが、実際には放置されたまま。雑木が茂り、見るかげもなくなっていた。そこで立ち上がったのが杉山地内の住民たち。一年がかりで山に入ってしの竹や高さ二、三メートルの木を取り除き、史料をもとにくい違い土塁や空堀など中世をしのばせる遺跡を再生させた。
 南から「南三の郭」「南二の郭」「水の手郭」「本郭」「東二の郭」「東三の郭」「北二の郭」「北三の郭」、郭の周囲に築かれている高さ二メートルの土塁、深さ二メートルの空堀など。また、道路も戦国時代のままで復元されており、山すその積善寺から南三の郭を通って本郭から搦手口(からめてぐち)へ出るコースと本郭から東三の郭へ行き町道へ出る二本の散策コースも整えた。
 町民たちは、すっかり全貌(ぜんぼう)を現した城址をながめて、「年に一回、清掃をしていつまでも郷土遺産を守っていこう」と話し合っている。

19810509

     『読売新聞』1981年(昭和56)5月9日