嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

千手堂・配水場東台地石仏群

2009年09月21日 | 千手堂
F002web

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発掘調査で菅谷館跡西側の鎌倉街道跡は堀跡と判明 1983年

2008年12月18日 | 千手堂

   鎌倉街道 実は堀跡 嵐山町の菅谷館跡近く
 坂東武者が「いざ鎌倉へ」とはせ参じた鎌倉街道と呼ばれる道は県内を縦横に走っているが、その典型とされていた比企郡嵐山町の菅谷館跡(国指定の史跡)の西側を走る「鎌倉街道跡」約二百メートルが、実は堀の跡で、従来のルートは間違っていたことが県立歴史資料館などの調査で明らかになった。この場所は、鎌倉街道の石碑や県の案内板が立てられ、断定的に記述している書物も多く、一般に広く知られていただけに、専門家や地元関係者はショックを受けている。
19830324

   200メートル分、定説覆す
    県立歴史資料館 専門家らショック
 代表的な鎌倉街道は上通、中道、下道と呼ばれ、嵐山町を南北に縦断しているのは上通の一部。このうち、鎌倉街道跡でないと断定されたのは、菅谷館跡・県立歴史資料館の西側約三十メートルの同町千手堂の雑木林や畑の中を走る約二百メートルの部分。鎌倉時代の代表的内な武将、畠山重忠が約二十年間住んだ菅谷館跡の近くにあり、周囲より一メートルほどくぼんだ幅約五メートルのこの「道」は、重忠が鎌倉に参上する時に通った道とされていた。
 従来の定説をくつがえすきっかけとなったのは、同資料館が五十六(1981)、五十七年度の二年がかりで進めた「歴史の道調査」。「街道跡と言っても、外見以外に決め手はない。発掘調査してみたらどうか」との専門調査員の提案で、昨年夏(1982)、嵐山町のほか、入間郡毛呂山町、比企郡小川町、大里郡寄居町の四カ所で、幅五十センチほど掘ったところ、毛呂山、小川、寄居町の三カ所では街道の両側に排水用とみられる側溝を確認、本格的な道があったことが分かった。しかし、嵐山町千手堂の部分は道らしい跡を確認できず、逆に、室町時代のものと思われる堀(上幅五メートル、下幅一・五メートル、深さ二メートル)のあることが分かった。
 さらに、近くに舗装道路を造ることにしていた嵐山町の教育委員会が、今年一月から道路予定部分を発掘調査したところ、「街道跡」とされてきた所の下に少なくとも長さ八十メートルの堀があることが判明した。また、鎌倉時代末期から室町時代後期のものとみられる板碑四本、多数の柱の跡などが発掘された。
 同資料館の栗原文蔵・調査研究部長は、「鎌倉街道跡でないことは争う余地がない。専門家にも堀を見てもらったが、皆『参ったなあ』というのが率直な感想でした」と話す。
 では、本当の鎌倉街道はどこを通っていたのか。同資料館では、地元の古老などの話から、国立婦人教育会館の敷地内を通るコースが最も妥当とみている。
 一方、近くに舗装道路を三月末までに完成させることにしていた嵐山町は県教委文化財保護課と協議、堀が発掘された部分は、いつでも復元できるように砂で埋め戻し、その上に土盛りして舗装することで合意した。計画は一年遅れるが、予定通りのルートで舗装道路はできることになった。しかし、「新たに発掘された堀や柱跡が国師弟の史跡の菅谷館跡の一部の可能性もあり、この際、きちんと調査すべきだ」という声が研究者の間にあり、議論を呼びそうだ。
     『朝日新聞』1983年(昭和58)3月24日

   鎌倉街道跡ではない
     菅谷館跡西側くぼ地 実は城郭の堀跡
 嵐山町菅谷の国指定史跡菅谷館跡西側にある延長二百メートルのくぼ地が「鎌倉街道」の跡と言われていたが、実は城郭の堀跡であることが、嵐山町遺跡調査会(阿部富育会長)の発掘調査で判明した。県立歴史資料館の昨年夏(1982)の調査でも一部で堀跡が発見されており、定説が覆った。

   発掘調査で定説覆る
 町遺跡調査会の発掘調査は、農免道路敷設工事に伴い、山王遺跡、上石堂遺跡が姿を消すため今年一月から進められていた。大妻女子大付属嵐山女子高校西側から槻川、都幾川の合流地点まで延長約五百メートル、幅十メートルを発掘し、今月いっぱいで終了する。
 発掘は、鎌倉街道の延長沿いに行われ、珍しい中世の陶器の破片が段ボール箱に五個分発見された。そして長さ百メートルにわたって堀が発見された。幅は、広い所で五メートル、深さは三メートル。昨年七月、歴史資料館は、鎌倉街道の地下遺構がどのようになっているかを調べるため、二地点で掘った。この時、堀跡が出てきて、同資料館では、さらに本格的な調査が必要だとしていた。今回、同調査会の発掘により、城郭の堀跡が出現したことで、鎌倉街道ではなかったことが裏付けられた。
 菅谷館跡西側には、町が「鎌倉街道」の石碑を建てているほか、県も「ふるさと歩道」のコースを示す看板を立てている。これも“幻の街道”になりそうだ。
 その時私は 「鎌倉街道ではない」と語る県立歴史資料館、林宏一歴史資料室長(三八)
  「鎌倉街道という古くからの伝承だった。毛呂山町などの道路状遺構と違っており、わずか二メートル幅の発掘で堀が出てきたことから、鎌倉街道でないことは明確だ」
     『読売新聞』1983年(昭和58)3月24日


菅谷館跡西側の鎌倉街道跡に疑問符 1982年

2008年12月17日 | 千手堂

   菅谷館跡の西側を走る街道跡 本名説に“疑問符”
     畠山重忠の通った鎌倉街道はどこか 県立資料館が調査
 鎌倉時代の代表的な武将、畠山重忠は、ゆかりの地・菅谷館のある比企郡嵐山町のどこを通って鎌倉に上ったのか-。県内には、各地に武士団がおり、それぞれが本拠地から「いざ鎌倉」とはせ参じて行った鎌倉街道と伝えられる古道が縦横に走っているが、県立歴史資料館の調査によって、これまで「まず本物」とみられてきた同町菅谷の国指定史跡、菅谷館跡の西側を走る鎌倉街道跡は「どうやら間違い」と“疑問符”がつけられた。同資料館は、まだ調査中のため「確定的なことはいえない」と慎重だが、この街道跡については「鎌倉街道」と断定的に記述している書物も多く、すでに石碑や県の案内板も建てられていることなどから、今後、研究者だけでなく町民の間からも議論がわき起こりそうな雲行きだ。

  嵐山町 石碑や案内板が建てられているが
       街道跡、確認できず 今月にも専門家が協議
 問題となっている鎌倉街道跡は通称、上道(上野信濃越後本道)と呼ばれる古道の一部といわれるもので、四十八年(1973)5月、国の指定史跡となった菅谷館跡の西側約三十メートルの同町千手堂にあり、山林や桑畑に囲まれた幅約十メートルで南北にくぼ地状となって約二百メートル走っている。今回、“疑問符”がつけられるきっかけとなった調査は、同館跡内にある県立歴史資料館(島田桂一郞館長)が中心となり、文化庁の補助を受けて、五十六(1981)、五十七年度の二カ年事業として進めている「歴史の道調査事業」。五十六年には、県下七十九市町村の学校教師や郷土史家ら各一人を調査員に委嘱して各地域に言い伝えられる鎌倉街道を調査し、昨年(1982)三月、伝承地所在確認の報告書を刊行。五十七年度からは同資料館の学芸部員や専門調査員が伝承地を実地調査するなどして、周辺の寺社や地蔵尊、馬頭観音との関係、地元の古老からの聴き取り調査などを行ってきた。
 その結果、大半の部分については問題なく調査は終わったが、最期に残ったのが、同資料館の“おひざ元”の鎌倉街道跡。同事業の調査項目には発掘は含まれていなかったというが、同資料館では、より確かな調査を行おうと、昨年秋、学芸部員ら職員の労力奉仕で試掘調査を実施。嵐山町のほか、入間郡毛呂山町と比企郡小川町、大里郡寄居町の四カ所で、街道を横断する形で幅五十センチの溝二本を掘ったところ、毛呂山、小川、寄居町の三カ所では街道両側に排水用らしい側溝を確認、街道跡はまず間違いないことが裏付けられた。しかし、問題の嵐山町の街道跡では側溝はおろか、街道跡である確認もできず、「大掛かりな調査をしなければはっきりしたことは言い切れないが、(どこが鎌倉街道の)本家本元かよくわからない」(島田館長)事態となり、館跡に近いことから現在の街道跡は、堀の跡ではないかとの疑問も出てきている。
 同町内にはもともと鎌倉街道跡と伝えられるルートが、同町千手堂をはじめ、中世の中ごろ、鎌倉の方向から信州・善光寺に通じる道筋を折り込んで書かれた宴曲抄に記されている現在の国立婦人教育会館筋を通るルートなど三つあったという。いつごろ、だれが千手堂のルートを確定的な鎌倉街道跡としたかは分からないが、三十三年(1958)四月、地元の有志約八十人が「鎌倉街道」の石碑を“街道筋”横に建立、鎌倉街道について書かれた本などにも、ほとんどの著者が。この鎌倉街道を確定的に記載している。同資料館も例外ではなく、同館発行の冊子にも「(菅谷館跡の)西側には館跡にそって鎌倉街道が通っております」と記述され、“街道跡”横に県の案内板が建てられているだけに、資料館も今回の調査結果はショックだったらしく、島田館長も「発掘の前に、軍事的にみても、街道があまりに館跡に近過ぎ、おかしいのではないかとの議論もありました」と困惑した表情。
 同資料館では今年三月に調査報告書をまとめる予定で、一月には学芸部員と県の専門調査員らがそれぞれの調査結果を持ち寄り、同町内のどこを鎌倉街道が通っていたかを突き止める会議を開くことにしている。
 畠山重忠といえば、現在の大里郡川本町を本拠に嵐山町菅谷を別館に構えていたと伝えられる郷土の英雄だけに、一月の会議は注目を集めそうで、今後、研究者の間だけでなく、町民などの間からも「わが英雄はどこを通って鎌倉へ上ったのだろうか」との議論がわき起こりそうだ。
     『埼玉新聞』1983年(昭和58)1月1日
1958年(昭和33)4月、地元の有志約八十人が建てた「鎌倉街道」の石碑についてはhttp://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/weblog/2008/09/post_5651_1.htmlを参照。


比企西国札所27番千手院

2008年09月05日 | 千手堂

 大平山(おおびらやま)を背にした山麓に比企西国札所二十七番普門山(ふもんざん)千手院がある。参道を上って、六道地蔵の手前の内田勇家墓地にある六十六部納経塔は、下野国南摩(なんま)(現栃木県鹿沼市)の人、牛久十蔵の供養塔である。1748年(寛延元)、諸国巡礼の途上、この地で倒れた。

  千手堂の由来
 1941年(昭和16)1月、本尊の初開帳の日、惣代(そうだい)の一人である瀬山光太郎氏が持参したという「千手観世音由緒(ゆいしょ)」によれば、村上天皇の時代、962年(応和2)に千手観音堂が建てられたという。醍醐・村上天皇の時代は天皇親政が実施され、のちに「延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の治」とよばれたが、貴族が支配する社会のもとで有力な農民層が武装し、地方に武士団をつくり始めていた。平将門や藤原純友が活躍した「承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱」もこの時代である。国は生活に困った人たちに施しを行い、社会の不安を鎮めるために諸国に神社や寺院を建立して信仰することを勧めていた。千手堂の本尊は、一切衆生(しゅじょう)を救おうとする慈悲深い千手観音であった。1896年(明治29)の「寺籍財産明細帳」によれば、その千手観音像は949年(天暦3)、村上天皇自作のものであったという。

  千手院の時代へ
 その後何度か観音堂の焼失があったが、1546年(天文15(てんぶん))に亡くなった遠山の遠山寺二世の幻室伊蓬(いほう)和尚を開山として千手院が創建された。千手観世音を祀るお堂であったものが、ここに寺院としての形を整え、曹洞宗の千手院となったのである。

  寺院の焼失と再建
 1876年(明治9)3月19日、千手院は火災によって焼失した。それから七年後に、観音堂再建の取り組みが本格的に開始された。住職沢田俊明(しゅんめい)を先頭に、千手堂村をはじめ、松山町、遠山、平沢、鎌形、菅谷、大蔵、志賀、広野、越畑、杉山、小川、玉川、月輪の各村の募縁(ぼえん)世話人が活躍して寄付を募った。当時の檀家数はわずか二十戸、それだけに各地域の協力を得ての再建であり、本堂は杉山村豊岡(とよおか)にあった蔵身庵(ぞうしんあん)の建物を購入した。

  寺院の庭で剣術指導
 沢田俊明は甲源一刀流の名手で、1880年(明治13)から、剣術の門人をとって指導を始めた。焼け跡の寺院の庭で、若者たちが集まって技を磨いた。その中に後の名剣士瀬山鉄五郎がいた。彼は『英名録』という自らの剣の記録を残している。千手院本堂入口正面には、彼が願主となった御詠歌の奉納額が掲げられている。

   雲かすみ たなびく峰の千手堂

          心は 法(のり)の花の一筋

 比企西国札所めぐりの御詠歌集では、「雲かすみ 輝く峰の千手堂 心は 法(のり)の花の一筋」とあり、「たなびく」ではなく「輝く」が比企西国札所創設期のものである

  博物誌だより128(嵐山町広報2005年3月)から作成


戦争従軍記念碑

2008年08月31日 | 千手堂

 日本は明治維新を経て近代国家の建設をめざしたが、その過程で他国と戦争をするという歴史を持っている。その歴史は、他国の人に多くの犠牲を与えるとともに、日本の従軍(じゅうぐん)した兵士の父母や兄弟や子どもにも肉親を失うという悲惨な現実をもたらした。
 嵐山町域(ちょういき)の神社や寺院などの境内(けいだい)に、従軍記念碑がいくつか建てられている。千手堂(せんじゅどう)の春日(かすが)神社の社殿の脇には、「従軍之碑 殉国(じゅんこく)者芳名」と題された石碑がひっそりと建っている。碑の表には、日露戦争と太平洋戦争で戦死した千手堂出身の兵士十一名の名前が刻(きざ)まれている。二十歳から三十三歳の年齢の若者である。戦死した兵士の想(おも)いと前途ある肉親を失う家族の悲しみが迫(せま)ってくる。碑には続いて五十余名の従軍者の名前も刻まれている。つぎは裏面の文である。

ここに刻みしは明治二十七年の日清戦争より昭和二十年大東亜戦争終熄(しゅうそく)までの各戦役に従軍せし六十有余名の氏名なり。干戈(かんか)斂(おさま)りて二十五年生存者一同相謀(あいはか)り忠魂の義烈を千載(せんざい)に留め併せて故人の雄魂を鎮(しず)めんとして碑を建つるものなり
  昭和四十五年十月二十五日建之
       千手堂従軍者一同

 越畑(おっぱた)の八宮(やみや)神社の石段の脇には「日清・日露戦役記念碑」が建てられている。裏面には越畑地区から従軍した兵士の名前が刻まれている。日清戦争の従軍者が五名、日露戦争の従軍者が十七名、一名が戦病死(せんびょうし)。そのうち四名は両戦役(せんえき)に従軍している。碑は明治四十年十一月、つまり日露戦争後間もなく建てられたもので、碑の表の題字は陸軍中将(ちゅうじょう) 男爵(だんしゃく) 佐藤延勝(のぶかつ)の書である。

 遠山(とおやま)の八幡(はちまん)神社にも登り口の右に、「従軍の碑  殉国者芳名」の碑が建てられている。碑の表には各戦争ごとの従軍者の名前が記されている。日清戦争一名、日露戦争九名、太平洋戦争五十九名。その中には戦死者もいる。裏面には戦死者への想いを込めた文が記されている。

(前文略す)大東亜戦となり戦線広域に亙(わた)り、遂に武運拙なく鉾(ほこ)を納めて終戦となる。我等戦友殉国の忠魂に合掌し、在りし日を偲(しの)びて碑に記す。
  昭和五十六年十一月吉日建之
       遠山従軍者一同

 なお菅谷館跡(すがややかんせき)の一角には、西南戦争以来の各戦争で戦死した嵐山町域出身者の霊を祀(まつ)る祠(ほこら)がある。
 こうした神社や館跡に建てられている記念碑の他に、広野(ひろの)の広正寺(こうしょうじ)の境内には、高さ約二メ-トル幅一メ-トルの大きな「芳魂(ほうこん)供養塔(くようとう)」がある。これは日清・日露戦争以来の檀家(だんか)の戦没者三十六人の霊を供養するためのものである。
 日本の平和憲法が制定される前に嵐山町域でも、多数の戦死者がいたのである。
   博物誌だより   (嵐山町広報2004年3月)から作成