嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

越畑城址之略記 莊寛・莊國太 1944年

2009年02月28日 | 越畑

   越畑城址之略記
 今回越畑城址建碑に対し概略を述べます。曩(さき)に昭和十三年(1938)莊寛、埼玉県北足立郡戸田村新会観音寺職御嶽隆道師並埼玉県歴史編纂嘱託稲村坦元先生に嘱して莊家の系譜を修成しました。同十七年(1942)3月莊國太祖先の三百年祭を挙行したるに當り偶然大泉青年学校長青木義夫氏の郷里比企郡七郷村而(しか)も同氏所有の地に越畑城址のある事を知り茲(ここ)に始めて建碑の挙に出ました。即ち同年十一月青木校長の導により稲村先生の来村を請ひ城址踏査をなし其御察力に依り事證を得ました。即ち先生の斡旋により県翼賛壮年団長陸軍中将渡邊閣下の御揮毫を賜り城址の記は稲村先生の撰並に謹書であります。
 本日除幕式に際し県翼賛会並に比企郡支部文化協会尚本村の御賛助を仰ぎ盛大なる挙式の出来ました事は誠に感激に堪へざる処御臨席の諸賢に対し深甚の謝意を表する次第であります。
 昭和十九年一月
                         莊寛
                         莊國太
                         莊家一同

   後記
莊式部少輔行秀ハ小田原北條ノ家宰トシテ天文年中ヨリ天正ノ始ニ至ル迄小田原城ニ居住元亀二年(1571)十月其主左京大夫氏康卒後老臣松田尾張守憲秀ト議合ズ郷里越畑城ニ退隠偶々天正十八年小田原ノ役其子和泉守秀永以下士卒ヲ率テ鉢形城応援トシテ馳向フ時已ニ開城続テ松山城モ陥入ルニ及ビテ當城ヲ退キ一族旧領ナルニヨリ新座郡橋戸ノ里ニ移るル時乱後土民山野ニ隠遁シ土地荒廃ス直ニ開拓ニ志ス即関東郡代本多佐渡守伊奈備前守ニ目安箱ヲ■ゲ開発ヲ願上ゲ軈(やが)テ御許容アリ且東照公ヨリ行秀父子當國由緒ノ者故當家ニ仕ヘ奉ル可キ上意アリシモ辞シ奉リ当村並白子村足立郡新曽村ヲ開発ス
慶長二年(1597)四月東照公放鷹ノ砌(みぎり)御立寄アリ村治ノ功績御嘉尚アリテ父子拝謁ヲ賜ヒ且苗字帯刀ノ免許アリ後長男兵庫秀重ヲ當橋戸ニ停メ二男又右衛門三男喜兵衛秀安以下ヲ率テ新曽村ニ移リ父子協力シテ一寺ヲ開基ス號シテ龍寳山観音寺ト稱ス行秀元和八年(1622)六月二十九日卒ス秀永剃髪シテ道覚ト號シ寛永十七年(1640)十月二十四日卒セリ
子孫板橋区大泉足立郡新曽ニ居リ代々祖先ノ遺業ヲ継承シテ土地開拓ニ専ラニシテ連綿トシテ今日ニ至レルナリ
 昭和十九年一月
                          莊國太謹誌


※「越畑城址之碑」の裏に刻された稲村坦元「越畑城阯の記」が書かれたのが1943年(昭和18)9月、石碑の除幕式が行われたのは、翌1944年1月である。 


道路行政を確立せよ 関根昭二 1965年

2009年02月27日 | 嵐山地域

   論壇 道路行政を確立せよ
 吾々が見知らぬ町や村を訪れた時そこに坦々と開けた新道を見ると、その町や村がいかにも建設の息吹きに燃えているような感じを受ける。道路は今日ただ単に交通のためのみならず、経済の発展や文化の発達、産業の伸展等に欠かすことのできない要素となってきている。市街地の形成にしても、まづ道路の整備が先決である。こうみてくると道路は極めて重要な政治的意義を持っていることになる。従って村としてもこの道路に対する基本的な考え方を明かにしておく必要がある。
 道路には国道、県道、村道、それに建設省の道路として村が維持管理している所謂(いわゆる)馬入(うまいれ)がある。このうち特に関係があるのは村道と馬入である。現在村道には殆ど村の境界杭が入っていない。馬入については尚更である。従って道幅が何メートルあるのか少しもはっきりしていない。それのみならず、道路になってをりながら登記してない所さへある。道路行政が如何にルーズで投げやりであるか、これだけでもわかる。
 まづ未登記の道路を速やかに登記すべきである。次に境界杭をはっきりと打ち込むべきである。その際、道幅を確定することが必要であるが、これには曲を直し道路が交差する地点を見通しのきくようにラッパ型にすることである。
 第三に道路の階級を設けて村内各に通ずる主要道路を一級道路とし、これはすべて幅員六メートルとする。これに要する費用は全額村負担とする。その他の道路は二級村道として四メートル道路とする。この費用は地元に若干の負担をしてもらう。この一級、二級村道の新設、拡張は地元の協力がなければできないが協力態勢の整った地区から予算を投入して実施してゆくようにすべきである。
 第四は馬入であるが、これはその名の通り昔馬で仕事をした時代そのままの道であり、耕うん機や軽四輪の発達した今日ではかなり狭い道となってしまった。まして市街地形成地区に於ては住宅が次々に建築されている現況であり、消防自動車は入ることができないし下排水も思うに任せない。然もこの馬入たるや六尺の道か九尺の道か少しもはっきりしていない。道路行政を確立する上において先づ基本的なことは道路計画を確立することである。未だに道路の予定線が明確に示されていないことは徒(いたず)らに混乱を来たすだけであり、然も時日が経過すれば困難な事態が惹起されることは明かである。ブロックの塀ができたり、石垣が築かれたりしている現状ではなかなかこれを取り除かせることは難しくなるばかりである。曲がり角や将来道を伸ばしたいと思う処に家が出来れば立退きも容易ではないし、道路も拡張できなくなる。
 従って道路問題についてはこれを総合的に検討する道路委員会なり道路行政審議会なりを特別に設ける必要がある。この委員会は村長の諮問機関とし、役職にとらわれない人選がなさるべきである。
 関根村政発足以来すでに一年となる。理想の田園都市を建設せんとする意欲に対して村長は大いなる期待と希望を寄せている。田園都市構想は先づ道路行政の確立が急務であり、道路に対する基本的考え方を明確に示すことを強く希望して止まない。(関根昭二)
     『菅谷村報道』163号 1965年(昭和40)9月30日 論壇

   村道境界の維持について
 皆様はすでにご承知のことと思いますが、本村内の道路のほとんどが建設省の所有であり、村長の管轄下にあります。道路は公共のものでありますので、関係者は次の事項をよく守りましょう。

  ◎無断で道路以外に使用しないこと
 あまり使用しない道路であるからといって、勝手に畑や宅地等に使用したり、又商品等道路に並べたりして他人に迷惑をかけぬようかならず占用許可を受けて下さい。

  ◎道路に接した土地の境界は勝手に一人ぎめしないこと
 農地や山林などを分割して第三者に売渡す場合、村の立合なくして分割した場合道路境界を村において調査した結果、その境界が道路敷に入りこんでいるときは直ちに境界の変更を地主立合の上することになります。そのために第三者に迷惑をかけぬよう、又ブロック塀並びに他の工作物等を境界に設置する場合も、立合人なくして設置した工作物が道路敷にありますと撤去していただくことになり、設置した者は大きな損害を被る結果になりますから、事前に公共用地境界査定願を提出して村の許可を受けてから実施して下さい。
 なおこのことについて不明な点がありましたら、遠慮なく役場にお問合せ下さい。(産業建設課)
     『菅谷村報道』163号 1965年(昭和40)9月30日


市野川改修記念碑建つ 1951年

2009年02月25日 | 川島

 朝な夕な照るにつけ曇るにつけ我々の念願してやまなかった市の川改修工事は地元民の熱意が県政を動かしたのか、県が積極的に之を取り上げたのか、何れにしても両々相俟って行はれたと言はねばならないのであるが、其の大事業が成って茲に十年、この大業を記念すべく幾度か記念碑建設のことが話題に上ったが、種々困難が伴ひ其の実現を見ることが出来なかったのは我々の最も痛惜に堪えない所であった。処が今度川島水房数名の発起人の努力と関係者一同の認識有る協力に依り、遂に立派なる記念碑が建立されたのである。そして初夏の風薫る五月十五日荘厳なる除幕式が挙行された。ここに於て我々の念願は達成され、この事業を永遠に記録し得ると共に後世人をして前人の労苦を偲ばせ益々農業に精進せしめ得ることとなったのである。
 碑は仙台石で巾二尺五寸、高さ八尺五寸、台石の高さを加へれば実に一丈余尺。「市の川改修記念碑」の天額は建設大臣の書で碑文の起草は小川伊三郎翁(川島)、吉野仁堂先生(水房)の合作になり松崎春川先生が之を揮毫し、彫刻は長沼石工(みずふさ)の手になったもので、治水事業の重大性を碑の全面に如実に表したものである。
 そして当日の参列者は改修当時の県会議員工営所長現在の土木工営所長関係地域の町村長村会議員技術者功労者等関係者全員であった。
 顧れば市の川九十九曲りの面影は何処へやら、今は絵のやうな美しい流れが淙々として流域をうるほしている。これを見る時、当時の関係者の労苦を偲びただ無量の感慨に打たれるのみである。そして今回の事業に努力された発起人並び関係者一同に満腔の謝意を表し、尚永遠に朽ちることなく流域の幸多かれと祈念して止まぬものである。(森田與資)
     『菅谷村報道』14号 1951年(昭和26)7月10日


越畑 新道開設記念碑 1919年

2009年02月23日 | 七郷地区

   新道紀念
 抑モ国家ノ発達ヲ謀ルニハ交通ノ
 便利ヲ以テ第一トス然ルニ吾カ地
 方ハ道路狭隘ニシテ通交最モ不便
 也依テ明治二十九年頃船戸熊吉久
 保三源次両氏及ヒ二三氏ノ発起ニ
 テ専ラ此開築ニ盡力セラレシモ時
 至ラスシテ止ム其後数年ヲ経テ市
 川兵蔵氏再ヒ此挙ヲ企テ越畑ノ衆
 議ニ謀リシ處悉ク其議ヲ賛成ス時
 恰モ明治三十一年一月一日ノ事也
 即チ道路ノ延長是ヨリ東参百余間
 工費貳百五拾余円也此経費悉ク越
 畑一同ノ寄付金ニヨリ幾ヶ月ニシ
 テ竣成ス然レハ其後明治四十年ニ
 至リ七郷村ニテ甲乙丙ノ三道路改
 築ノ議起リ仝四十二年ニ至リ開通
 式ヲ行フニ至リタルハ實ニ越畑道
 路改築カ動機タリト云フモ敢テ過
 言ニ非ラサルカ茲ニ一同ノ素心ヲ
 誌シテ後生ニ傳フル者也

 大正八年二月
  世話人
   船戸楫夫
   馬場房次郎
   青木平兵衛
   田嶋稲吉
   市川伊三郎
   田嶋瀧蔵
   強瀬周次郎
   青木卓三
   青木喜市郎
   馬場儀平次
   新井重太郎
   船戸小重郎
   船戸平左衛門
   久保三源次
  発起人
   市川兵蔵
          新道記念碑.pdf


越畑八宮神社合祀改築記念碑 1925年

2009年02月20日 | 越畑

 合祀
 改築
 記念
重修八宮神社及合祀碑
    埼玉県知事従四位勲三等斎藤守圀題額
八宮神社ト称シ比企郡中ニ鎮座スルモノ八ヲ以テ数フ
而シテ本社ハ則チ其一ナリ謹ミテ舊記ヲ按スルニ聖武
天皇御宇ノ創立ニ係リ其後承平中武蔵介源経基東征ノ
途次親ク戦勝ヲ祈リシト云明治四十年四月無格社浅間
神社雷電社明神社社宮司社山神社大天貘社八大社八幡
社ヲ合祀スルニ及ヒ其拝殿憔朽シテ敬虔ノ誠ヲ缺ンコ
トヲ恐レ大正八年一月氏子胥謀リ拝殿ノ改造及神楽殿
社務所ノ増築ニ決シ直チニ起工九年四月竣成工費九千
四百圓課役一千百餘人然リ而シテ其資實ニ越畑氏子一
同ノ献進ニシテ不足額ハ本字共有地ノ一分ヲ賣テ補充
セリ社殿臨奐ノ美無シト雖モ結構ノ荘ヲ極メ穆々乎ト
シテ神在スカ如シ尋テ十一年三月神饌幣帛料供進社ニ
指定セラル今茲氏子総代等重修及合祀ノ碑ヲ樹ント
来テ余ノ文ヲ徴ス因テ其梗概ヲ録シ以テ不朽ニ垂ル
 大正十四年十月
官幣中社金鑚神社宮司

【裏一段目】
一金七千六百七拾圓 原野賣却代
一金壱千七百参拾圓 氏子寄附
 内訳
金壹百五拾圓 市川藤三郎
金壹百圓    仝 兵蔵
仝       田島瀧蔵
仝       船戸楫夫
金八拾圓    仝 小重郎
金七拾圓    青木喜市郎
金六拾圓    馬場儀平次
仝       久保三源次
仝       新井重太郎
金五拾圓    馬場歌次郎
仝       仝 弥十郎
金四拾圓    市川伊三郎
仝       青木卓三
金三拾五圓     田島半次郎
仝       船戸平左衛門
金参拾圓    市川市太郎
仝       青木仲次郎
金貳拾五圓     市川鉄次郎
仝       田島栄助
仝       強瀬億次郎
金貳拾圓    中村忠輔
仝       長島仙五郎
仝       久保範三
仝       青木平兵衛
仝       仝 元治
金拾八圓    久保松之輔
金拾五圓    市川重太郎
仝       土橋政一
仝       福島文蔵
仝       強瀬周次郎
仝       小林常次郎
仝       青木平馬
【裏二段目】
金拾五圓    青木岩吉
仝       仝 清兵衛
金拾参圓    船戸柳作
金拾圓    馬場市平
仝       長島庄作
仝       強瀬國平
仝       青木薫次郎
金八圓    田島丑松
仝       強瀬冨五郎
金七圓    船戸角次郎
仝       仝 武夫
金六圓    馬場清馬
仝       田島民五郎
仝       青木才助
金五圓    市川徳治
仝       仝 與吉
仝       仝 本三
仝       馬場松太郎
仝       仝 清三郎
仝       田島九平
仝       仝 佐助
仝       仝 猪松
仝       中村利三郎
仝       久保五十松
仝       仝 幸太郎
仝       仝 善十
仝       真下新次郎
仝       眞戸啓助
仝       仝 角太郎
仝       仝 米三郎
仝       仝 喜市郎
仝       仝 政一
仝       強瀬近範
仝       仝 馬之助
仝       新井伊三郎
仝       松本浅次郎
【裏三段目】
金五圓    青木近祐
仝       仝 小次郎
仝       持田濱作
仝       仝 伊作
仝       三村丑五郎
仝       奥村新太郎
金四圓    田島連八
仝       福島平作
仝       宮本亀蔵
金参圓    馬場次郎吉
仝       仝 國太郎
仝       田島近義
仝       高橋米造
仝       強瀬時三郎
仝       市川丈輔
仝       大熊由五郎
金貳圓    市川嘉助
仝       仝 直次
仝       仝 田之助
仝       馬場源太郎
仝       仝 午次郎
仝       小林高吉
仝       船戸爲綱
仝       仝 善五郎
仝       仝 次郎
仝       福島丑五郎
仝       青木利三
仝       須永善五郎
金壹圓    市川國治
仝       馬場すみ
仝       福島清三郎
仝       仝 仙蔵
仝       船戸六助
仝       市川辰三
仝       強瀬 愈
金貳圓【誤刻の訂正か】  田嶋瀬之助
仝       馬場杢次
【裏四段目】
 棟梁
杉山     内田隆治
 后見
仝       内田愛三郎
 副棟梁
当所     馬場市平
木挽     持田伊作
土工     長島仙五郎
瓦       大熊由五郎
仝       奥村新太郎
鳶       築井榮助
石工     浅見寿一
仝       川島子之吉
彫刻     飯田祐太郎
仝       植原得一
左官     紫村幸四郎
 材料請負人
水房     吉野清五郎

改築委員
 船戸楫夫
 仝 小重郎
 市川兵蔵
 田島榮助
會計 仝 瀧蔵
 青木喜市郎
 仝 岩吉
 仝 卓三
 馬場儀平次
委員長
 久保三源次
副委員長
 市川藤三郎
會計主任
 新井重太郎
【裏五段目】
 篤志寄附
金拾圓    田島新八
仝       高橋俊道
金五圓    前田巨桂
仝       福島庄作
起工當時氏子総代人
 久保三源次
 市川藤三郎
 青木喜市郎
 新井重太郎
 田島稲吉
 青木岩吉

氏子総代人
 市川兵蔵
 市川藤三郎
 馬場儀平次
 田島瀧蔵
 久保三源次
 青木岩吉
 新井重太郎
 青木五三郎

社掌
 杉山大倉

    滑堂 田中長亮謹書
      熊谷
      石工

越畑八宮神社合祀改築記念.pdf


越畑城址之碑が建てられる 1944年

2009年02月18日 | 越畑

 1943年(昭和18)9月に越畑城跡【大字越畑(おっぱた)字城山(しろやま)】に建てられたが、関越自動車道建設にともない、1979年(昭和54)、城山東側の関越道側道横に移設されている。渡邊金造陸軍中将(1874-1965)は当時、埼玉県翼賛文化会の会長だった。
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  碑前面
 賛助
   比企郡翼賛文化協会
   大政翼賛会七郷村支部
   七郷村越畑青木五三郎
越畑城址之碑
   陸軍中将渡邉金造書

  碑裏面
越畑城阯の記            埼玉縣史編纂嘱託 稲村担元撰並書
本城は荘山城守秀俊の築く所西鎌倉街道に臨み北高見を経て鉢形深谷に達志
南菅谷を過ぎ松山川越に到るべ志城地高峻にして険阻空湟塁阯歴々として存
し実に北武乃要害たり荘氏は武蔵七黨児玉氏に出で庄權守弘高庄太郎家長等
源義朝頼朝に仕へ功名ある家長五代の孫四郎泰家五郎為久泰家の子太郎弘長
等亦建武中興の際新田義貞に従ひ勲功ありしも南風競はず即ち新座郡槁戸に
退きて郷士となる戦国乃世に及びて弘長三代の裔秀俊山城守と称し永享十年
管領上杉憲實に分倍河原の戦に従比軍功に依り地を比企郡内に賜はり当城を
築いて居住す其子左近将監秀政越畑乃南杉山に支城を営み城阯今尚在り爾後
秀光弘忠等相継いで居を山内上杉北条氏に属し屡戦場に馳す行秀に至って式
部少輔と稱志北條家宰たり太平に及びて子孫橋戸及び足立郡新曾に居り専ら
地を拓きて祖先の祭祀を断たず子曩に嘱により庄家系譜を編纂志今茲建碑乃
擧あるに際し当所青木義夫氏の後援に依り城阯伐踏査し此記を作る
 昭和十八年九月 東京板橋 荘寛 同大泉 荘園太 建碑
                              越畑城址碑.pdf
     『嵐山町史』(1983年9月発行)288頁~295頁参照。「越畑城址之略記」(莊寛・莊國太)
※「越畑城阯の記」が誌されたのが1943年9月、写真の除幕式は1944年1月に行われた。


都幾川の学校橋管理は大字大蔵で 金井示夫 1952年

2009年02月13日 | 大蔵

 皆様御承知の通り大蔵は都幾川の南に位し、学校橋の管理をして居ります。毎年村の補助を戴いて居りますが、大字は約百戸近い戸数で、これが、上(かみ)、下(しも)、堀(ほり。掘ノ内)、の三組に分かれ嵐の日には組に当たった人達は学校橋の心配で皆苦労して居るのです。悪日は河原に出動し、昼夜の別なく焚火(たきび)をして警備につくのです。
 万一流出の場合には係に当った組は弁当を腰に付け、一日中河の両岸を二組に別れて探すのですが組の者で見付からなかった場合は二日目は字中総出で見付けるのです。遠くは川越近在の釘奈司【現・川島町釘無】といふ約六里もある所まで行った事もありました。
 又橋を上げた方には多少の謝礼を致して居ります。村の補助を一万五千円戴いても字からも又相当なかかりがします。橋板一枚作るにも約二千円の金がかかります。橋板は二十数枚の準備がしてあります。以上は橋についてのあらましですが、村の皆様に当字の苦難をおしらせした次第です。
     『菅谷村報道』19号 1952年(昭和27)2月5日


武蔵武士の風格と白山神社前詩歌会の遺跡 浮城生 1940年

2009年02月11日 | 平沢

 京都今出川禅刹相国寺の僧万里の遺書梅花無尽蔵に、長享二年(1488)九月二十五日夜太田資康が敵軍と相対し、僧万里の為めに、平沢寺の鎮守白山廟前【嵐山町大字平沢】に詩歌会を催した。其の自注に

  九月二十五日太田源六平沢寺ノ鎮守白山廟ニ於ケル詩歌会ハ敵塁ト相対シテ風雅ヲ講ス西俗ニ叶フモ此様ナシ

と記す。万里が其の時社頭之月と云ふ題で詠じた詩に

  一戦乗勝尚加、白山古廟沢南涯皆知次第有神助、九月如春月自花

とある。万里は詩歌に巧な高僧で諸国を屢屢(しばしば)諸国を遊歴して同好の知人と交り世に知られた詩人であった。万里が平沢往復の前後を梅花無尽蔵の記事で見ると、長享二年八月十四日江戸城(扇谷定正居城)を出で、其の夜は白子に宿し、十五日川越の豊田武庸の弟に十五夜の月を観ながら詩を作り、十六日は越生の龍穏寺に宿り、十七日須賀谷の平沢に資康を訪れ、爰(ここ)に三十六日も滞在して、九月二十五日の夜白山廟前に詩歌会が催された。そして翌二十六日平沢の旅房を出でて鉢形に赴き上杉顕定を訪れたことになってゐる。其の頃乱世であったが連歌や作詩の会合が流行したのであった。梅花無尽蔵八月十七日自注に

  須賀谷ノ北平沢山ニ入リ太田源六資康軍営ヲ明王堂畔ニ問フ二三十騎突出デ余ヲ迎フ又深泥ノ中鞍ヲ解イテ各其ノ面ヲ拝シ資康ノ恙(つつが)ナキヲ賀シ余已ニ暫ラク寓ス

として左の詩がある。

  明王堂畔問君軍 雨後深泥以度雲
  馬足未臨草吹血 細看要作戦場文

 この詩に自注して「六月十八日須賀谷に両上杉戦死者七百余員馬亦数百疋」とある。万里が平沢訪問二ヶ月以前須賀谷に於て両上杉の接戦激闘が行はれ人馬の陣没が多かったことが察せられる。資康は扇谷上杉の軍勢と相対して平沢に陣を構へてゐたのである。
 万里は資康の父道潅の知遇を得て屡々江戸城に道潅を訪れ連歌や作詩の会に列し頗(すこぶ)る親交があった。従て資康とは別懇の間柄である。資康は扇谷定正の為めに父道潅が鎌倉糟谷の館で殺害されたのを遺恨とし、扇谷の離脱して甲州に赴き兵を催し、山内顕定に属して父道潅の仇敵定正を討たんと須賀谷の平沢に布陣してゐたのである。定正の居城たる江戸城を訪れた万里は、資康の平沢布陣を知り、定正の引止むるを聞かず江戸城を辞して資康の陣営を訪れたのであった。万里が自注に江戸城を去るに臨み、定正は馬壹頭五貫文を餞別として贈り、且従者数騎を付して途中迄送って呉れたと記してゐる。万里は敵とか味方とか云ふことは超越して万人から尊敬された高僧で、滞在中は弘法に努め余暇には作歌や作詩に打興じ、陣中滞留月余に亘ったのである。万里の自注に

  武ノ江戸ヲ去ッテ平沢太田源六資康ノ軍ニ寓スル凡三十六日

と記している。
 資康が詩歌会を開いた場所であるが、夫れは比企郡菅谷村大字平沢の平沢寺裏山の中腹にある現在の村社白山神社の境内約三畝歩許りの平坦な展望の勝れた洵(まこと)に風景の好い地で、此処に陣将資康は詩歌同好の師友相会し、九月二十日月明の夜万里送別の為めに風雅の会を催したのである。この白山神社は、元平沢寺の鎮守として古来当所に鎮座したのであるが、明治維新神仏分離断行の結果、山麓の原野の一隅に遷したが、社地移転直後全村に悪疫流行して病勢頗る猖獗(しょうけつ)を極め、患者の出ない家は僅かに数戸に過ぎぬ状態に、村民は恐怖して之れ全く白山社を移転した祟りであると信じて、既に引裂上地となった旧社地一町七、八反歩を政府に嘆願して払下げを受け、之れを全村四十八戸の共有林となし、其の内壹反歩を区画して旧鎮座地であった現位置に遷し、村社白山神社を称へ、爾来村の鎮守として崇敬することとなったので、即ち維新前の寺鎮守が村の鎮守となった次第である。
 太田存六郎資康は、贈従三位太田道潅の子で、道潅の在生中、父道潅に随従して戦乱の巷(ちまた)を馳駆し、大いに父道潅を輔(たす)け、其の功績を偉大ならしめた。夫れが資康の事蹟の大体であると思ふ。資康の父道潅は世人も知る如く扇谷上杉家の家老として能く主将定正を補佐し、賊徒を平定して善政を施した。資性極めて謹厳で敬神崇仏の念厚く軍学に達し築城法に長(た)け歌人としては夙に有名であった。戦国時代に於ける智勇兼備の料将として坂東の諸豪族孰(いずれ)も其の徳を慕って麾下(きか)に属したのであった。山内顕定は、道潅の武略を恐れ扇谷定正の暗愚なるに乗じ窃(ひそ)かに定正を讒(ざん)す。定正之れを信じ道潅を相州糟谷の館に殺害した。其の後定正は顕定の謀略なるを知って大に怒り両上杉の確執となった。定正は江戸に居り顕定は鉢形に在って南北相対峙し各軍勢を配置し遂に松山、須賀谷等の合戦となった。此等資康は顕定に属し鉢形の前衛として敵塁と相対して平沢寺に陣営を構へたのであった。平沢寺は頼朝の創建に係り七堂伽藍の大規模な上に三十六坊を有する古刹であった。今の平沢寺は昔の俤(おもかげ)を見る由も無いが、山麓の田畑に点在する礎石から見ても相当の大伽藍であったと思はれる。万里の詩社頭之月の一句に白山古廟沢南涯とある。その白山古廟は現在の白山神社で丁度平沢山の中腹南端に位置してゐる。文武に秀でた父を持った資康も亦文武両道の達人であった。万里送別の為め敵塁と相対して当所に詩歌会を催したことは如何にも余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)として当代武人の風格を偲ばしめるものがある。資康の祖父備中守資清は古書に越生の住人と記されてある。越生の龍穏寺(梅園村龍ヶ谷)は道真(資清)道潅(資長)父子協力して再建したものである。又隣村小杉の健康寺は道潅が創建した寺で傍には道真隠棲(いんせい)の遺蹟がある。道潅は堀越公方を擁し、江戸城に在って両上杉を協せ古河公方に対抗したのである。要するに資清、資長、資康は孰も武蔵に在って活躍した武人である。
     『埼玉史談』第11巻第5号 1940年(昭和15)5月


大蔵・向徳寺 宝治三年銘の善光寺式三尊の発見 1931年

2009年02月08日 | 大蔵

   宝治三年銘の慈光寺式三尊の発見
 比企郡菅谷村【嵐山町】大字大蔵の遺る鎌倉時代館阯調査の為め、柴田顧問【柴田常恵】、稲村監事【稲村坦元】には四月二十四日同地へ出張調査せられる所あったが、其の際同地向徳寺(こうとくじ)に於て計らずも、鋳銅の善光寺式阿弥陀三尊を発見した。これは本堂の阿弥陀座像の胎内に蔵られていたもので、中の尊丈け一尺九寸、両脇の二尊丈け一尺三寸五分であって、阿弥陀の台座に「武州小代奉治鋳檀那、父栄尊、母西阿、息西文、宝治三乙酉(1249)二月八日」の銘文を刻し、此の種善光寺式三尊として既に知られたものの中ではもっとも古き銘記を有するものであって、軈(やが)ては国宝に列せらるべき名品である。
     『埼玉史談』2巻5号 1931年(昭和6)5月


国重要文化財 大蔵向徳寺の阿弥陀三尊 長島喜平 1977年

2009年02月04日 | 大蔵

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 長野の善光寺へ行ったことがありますか。
 善光寺の本尊は阿弥陀(あみだ)さまです。
 阿弥陀さまの両脇に二体の仏さまが立ち、合せて三体を、一般に「善光寺式阿弥陀三尊」と呼んでいます。写真の大蔵向徳寺の阿弥陀三尊は、善光寺の阿弥陀三尊の形式によるものです。(ただ善光寺の阿弥陀様は秘仏になっています。)
 この向徳寺の阿弥陀三尊は、形が非常によく整って、美しく立派なもので、更に紀念銘(宝治三年)が刻まれ、国では大切なものとして重要文化財に指定しています。
 三尊の中央が阿弥陀さまで、中央にいるので中尊といい、立っている仏像(向徳寺のもの)を立像といい、座っている仏像を座像といいます。
 両脇にいる仏を脇侍(わきじ)といい、左が観音菩薩で、右が勢至菩薩です。
 中央の阿弥陀様から話します。阿弥陀様の手を見てください。
 右の掌を胸のわきで開いて、そとを向けています。
 これは施無畏印(せむいいん)という印相(いんぞう)(手の形で)、仏さまで人間のいろいろな恐怖をこの手でとどめ、救うという手の形であります。
 左手をさげて小指と無名指(薬指)を曲げています。
 昔、飛鳥時代の頃には、この手の形式は釈迦如来(しゃかにょらい)であったのですが、どうもこの手の印相(手の形)を阿弥陀さまの手の形であるとは、はっきりきめられなかったのです。
 ところが、鎌倉時代以降に浄土教が発達し、善光寺の仏像のように、中尊を阿弥陀如来とし、両脇に観音と勢至をはべらせて阿弥陀三尊というようになってしまったのです。
 この向徳寺の阿弥陀さまの台座は、下の方のハスの花が下を向き、これを反花(はんげ)といい、その上はハスの花のしんの雄しべが細かく刻まれています。
 この台の反花に「武州小台奉治鋳檀那父栄尊母西阿息西文、宝治三乙酉二月八日」と刻まれています。
 小代とは、今の東松山市の正代(しょうだい)で、この地で宝治三年(1249)に造られたものです。
 檀那(檀家または奉納者)は、父、母、息子の三人で、来世のためにこの寺へ奉納したものと思われます。
 果して、納めた寺がこの向徳寺であったかどうかわかりません。
 ただ、向徳寺内の墓地に板碑(青石塔婆)が何枚もあります。……
 青石塔婆は今の板でつくる塔婆(とうば)と同じことで、その青石の塔婆に、梵字で阿弥陀三尊が刻まれ、また「南無阿弥陀仏」の六字が刻まれ、これから考え、この頃から浄土宗の寺が、ここにあったと思われます。
 向徳寺は時宗(じしゅう)で、時宗は浄土宗の一派で、六時往生宗などといい、一日ぢゅう(六時)「南無阿弥陀仏」と唱える宗派です。
 また、向徳寺は、火災にあったものか、この阿弥陀さまの頭部を見ると、ややとけています。
 ですから寺は建物も新しいし、昔のことは殆んどわかりません。
 まあ、このようなことから、多分、この阿弥陀三尊は、もともとこの寺にあったものでしょう。
 なお、つけ加えますが、左は観音さまで、多くの場合、頭の頂に小さな化仏(けぶつ・仏像)が、ほってあり、右者勢至さまで、これは宝瓶(ほうべい・とつくりのこと)がほってあります。
 機会がありましたら、この観音さまと勢至さまのことを書くことにします。
     『嵐山町報道』267号 1977年(昭和52)8月1日


嵐山町川島 鬼鎮神社の祭神は賽神 簾藤惣次郎 1984年

2009年02月01日 | 川島

   きじんさま 祭神は賽神(さいのかみ)
           縁結びの道祖神
 鬼鎮神社 大字志賀第一川島区に在り、元七郷村大字広野の飛地であった当時の民有祠であったが明治二十二年(1889)本地【菅谷村】に属し村社として遠く都鄙(とひ)に鳴りわたる名社である。
 由来鬼神又は近くの林に雉子(きじ)の多く群棲(ぐんせい)しているので雉子之宮(きじのみや)と称号していたが、改革の際、ここに奉仕した社掌並びに敬神有力の人々等相謀り相賛けて現称の尊号を奉上した。
 祭神は賽神(さいのかみ)で、神域の風光は清美の上に大きな松、高く伸びた杉、春は桜、秋は楓も美しく、社頭森厳宏壮にして、春秋の大祭、毎月の例祭は勿論、平日でも遠近よりの参拝者の絶え間がない。
 世間に伝えられる当社は「畠山重忠公が菅谷城の鬼門鎮護の神として崇(あが)め奉斎したが、重忠亡び後、世力を尽して主祭する者が無かった為に長い間さびれていた」と言われていたが、今では重忠時代のように盛大に復しつつある。(稲村坦元先生埼玉県史の菅谷村原稿要旨*)
 鬼鎮神社の祭神については、賽神(さいのかみ)又は衝立久那止神(つきたつくなとのかみ)・八衢彦命(やちまたひこのみこと)・八衢姫命(やちまたひめのみこと)とも書かれている。これらの神々について調べて見ると
◎さいのかみ(賽神・塞神・幸神・道祖神・さえのかみに同じ)
◎さえのかみ(障神・賽神・道祖神・みちのかみに同じ)道行く人を災難から守る神、道路、旅行の安全をつかさどる神。
◎道祖神 道路の悪霊を防いで、行人を守護する神。神話の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が伊弉冉尊(いざなみのみこと)を黄泉の国(よみのくに)(死後の国)に訪ね逃げもどった時、追いかけて来た黄泉醜女(よもつしこめ)(死後の国の悪女…鬼女)をさいぎり止めるために投げた杖(つえ)から成り出た神。
 邪悪の侵入を防ぐ神。日本ではさいのかみ、さえのかみと習合(神仏習合)されて同じ神となった。などのかみ、たむけのかみと同じ。
◎くなどのかみ(久那土神・岐神・ふなどのかみと同じ)
◎ふなどのかみ(岐神) 神話の伊弉諾尊が黄泉国から逃避の後、禊祓(みそぎはらへ、みそぎ)の時、投げ捨てた杖から化生(かせい)した神で聚落(しゅうらく)の入口や道の分岐点に祀(まつ)られたから、道路及び旅行の安全守護の神とされた。くなどのかみ、ちまたのかみ、道祖神、道陸神と同じ。
◎たむけのかみ(手向神) 旅人が道中の安全を祈るために、幣物を手向ける峠など村境に祀る神。
◎ちまたのかみ(岐神) ちまた(道股)【道路の分れるところ、分れ道。辻、町の中の道路、街路、繁華な通り】を守って邪悪の侵入を阻止する神。【古事記】神代記下に衢神とあり、天孫降臨(てんそんこうりん)の時、衢(ちまた)に迎えて先導したから「ちまたのかみ」と言う。猿田彦命(さるたひこのみこと)の異様。
◎八衢比古命(やちまたひこのみこと) 道が八つに分かれた所、道がいくつにも分かれた所。八衢比古命・比売命(ひめのみこと)は道路がいくつにも分れた辻に祀られた男女の神で道路を守り、旅人の安全を守護する神で、道祖神と同じ神である。旅に出たなら必ず無事安全に帰り来る事を祈った。
 路傍にある道祖神で男女両神の彫られた石碓(せきたい)【ママ】もあるが、それは八衢比古命(やちまたひこのみこと)・八衢比売命(やちまたひめのみこと)の両神の幸神で、道路を守り旅の安全を祈ると共に、縁結び、結婚の神として祀られ崇敬されている所もある。
 かく調べて見ると、賽神・塞神・障神・幸神・道祖神・道陸神・道神・久那土神・岐神・手向神・八衢比古命・八衢比売命と神の御名は多くあるけれど、同神異名で時代と信仰のうつり変りにより変化したあとがうかがえる。
 鬼鎮神社の御尊号の由来についても、雉子之宮(きじのみや)・鬼神社(きじんじゃ)・鬼鎮神社(きぢんじんじゃ)と時代の信仰と共に変っている。文政四年(1821)調査の新編武蔵風土記稿には鬼神明神社とあり、徳川期に水房村との間の「鬼神宮別当に関する云々」の文書にも鬼神と記されている**。鬼鎮神社と称されるようになったのは明治三十年(1898)以後と思われる***。
     『嵐山町報道』320号 1984年(昭和59)3月30日

*稲村坦元先生埼玉県史の菅谷村原稿については、「稲村坦元先生菅谷村誌原稿 志賀志 ルビ・注」を参照。
**水房村(滑川町水房)放光寺との争いについては、「鬼神宮(鬼鎮神社)をめぐる帰属争い」を参照。
***鬼鎮神社の名称変更については、「鬼鎮神社の名称の変遷」 を参照。