京都今出川禅刹相国寺の僧万里の遺書梅花無尽蔵に、長享二年(1488)九月二十五日夜太田資康が敵軍と相対し、僧万里の為めに、平沢寺の鎮守白山廟前【嵐山町大字平沢】に詩歌会を催した。其の自注に
九月二十五日太田源六平沢寺ノ鎮守白山廟ニ於ケル詩歌会ハ敵塁ト相対シテ風雅ヲ講ス西俗ニ叶フモ此様ナシ
と記す。万里が其の時社頭之月と云ふ題で詠じた詩に
一戦乗勝尚加、白山古廟沢南涯皆知次第有神助、九月如春月自花
とある。万里は詩歌に巧な高僧で諸国を屢屢(しばしば)諸国を遊歴して同好の知人と交り世に知られた詩人であった。万里が平沢往復の前後を梅花無尽蔵の記事で見ると、長享二年八月十四日江戸城(扇谷定正居城)を出で、其の夜は白子に宿し、十五日川越の豊田武庸の弟に十五夜の月を観ながら詩を作り、十六日は越生の龍穏寺に宿り、十七日須賀谷の平沢に資康を訪れ、爰(ここ)に三十六日も滞在して、九月二十五日の夜白山廟前に詩歌会が催された。そして翌二十六日平沢の旅房を出でて鉢形に赴き上杉顕定を訪れたことになってゐる。其の頃乱世であったが連歌や作詩の会合が流行したのであった。梅花無尽蔵八月十七日自注に
須賀谷ノ北平沢山ニ入リ太田源六資康軍営ヲ明王堂畔ニ問フ二三十騎突出デ余ヲ迎フ又深泥ノ中鞍ヲ解イテ各其ノ面ヲ拝シ資康ノ恙(つつが)ナキヲ賀シ余已ニ暫ラク寓ス
として左の詩がある。
明王堂畔問君軍 雨後深泥以度雲
馬足未臨草吹血 細看要作戦場文
この詩に自注して「六月十八日須賀谷に両上杉戦死者七百余員馬亦数百疋」とある。万里が平沢訪問二ヶ月以前須賀谷に於て両上杉の接戦激闘が行はれ人馬の陣没が多かったことが察せられる。資康は扇谷上杉の軍勢と相対して平沢に陣を構へてゐたのである。
万里は資康の父道潅の知遇を得て屡々江戸城に道潅を訪れ連歌や作詩の会に列し頗(すこぶ)る親交があった。従て資康とは別懇の間柄である。資康は扇谷定正の為めに父道潅が鎌倉糟谷の館で殺害されたのを遺恨とし、扇谷の離脱して甲州に赴き兵を催し、山内顕定に属して父道潅の仇敵定正を討たんと須賀谷の平沢に布陣してゐたのである。定正の居城たる江戸城を訪れた万里は、資康の平沢布陣を知り、定正の引止むるを聞かず江戸城を辞して資康の陣営を訪れたのであった。万里が自注に江戸城を去るに臨み、定正は馬壹頭五貫文を餞別として贈り、且従者数騎を付して途中迄送って呉れたと記してゐる。万里は敵とか味方とか云ふことは超越して万人から尊敬された高僧で、滞在中は弘法に努め余暇には作歌や作詩に打興じ、陣中滞留月余に亘ったのである。万里の自注に
武ノ江戸ヲ去ッテ平沢太田源六資康ノ軍ニ寓スル凡三十六日
と記している。
資康が詩歌会を開いた場所であるが、夫れは比企郡菅谷村大字平沢の平沢寺裏山の中腹にある現在の村社白山神社の境内約三畝歩許りの平坦な展望の勝れた洵(まこと)に風景の好い地で、此処に陣将資康は詩歌同好の師友相会し、九月二十日月明の夜万里送別の為めに風雅の会を催したのである。この白山神社は、元平沢寺の鎮守として古来当所に鎮座したのであるが、明治維新神仏分離断行の結果、山麓の原野の一隅に遷したが、社地移転直後全村に悪疫流行して病勢頗る猖獗(しょうけつ)を極め、患者の出ない家は僅かに数戸に過ぎぬ状態に、村民は恐怖して之れ全く白山社を移転した祟りであると信じて、既に引裂上地となった旧社地一町七、八反歩を政府に嘆願して払下げを受け、之れを全村四十八戸の共有林となし、其の内壹反歩を区画して旧鎮座地であった現位置に遷し、村社白山神社を称へ、爾来村の鎮守として崇敬することとなったので、即ち維新前の寺鎮守が村の鎮守となった次第である。
太田存六郎資康は、贈従三位太田道潅の子で、道潅の在生中、父道潅に随従して戦乱の巷(ちまた)を馳駆し、大いに父道潅を輔(たす)け、其の功績を偉大ならしめた。夫れが資康の事蹟の大体であると思ふ。資康の父道潅は世人も知る如く扇谷上杉家の家老として能く主将定正を補佐し、賊徒を平定して善政を施した。資性極めて謹厳で敬神崇仏の念厚く軍学に達し築城法に長(た)け歌人としては夙に有名であった。戦国時代に於ける智勇兼備の料将として坂東の諸豪族孰(いずれ)も其の徳を慕って麾下(きか)に属したのであった。山内顕定は、道潅の武略を恐れ扇谷定正の暗愚なるに乗じ窃(ひそ)かに定正を讒(ざん)す。定正之れを信じ道潅を相州糟谷の館に殺害した。其の後定正は顕定の謀略なるを知って大に怒り両上杉の確執となった。定正は江戸に居り顕定は鉢形に在って南北相対峙し各軍勢を配置し遂に松山、須賀谷等の合戦となった。此等資康は顕定に属し鉢形の前衛として敵塁と相対して平沢寺に陣営を構へたのであった。平沢寺は頼朝の創建に係り七堂伽藍の大規模な上に三十六坊を有する古刹であった。今の平沢寺は昔の俤(おもかげ)を見る由も無いが、山麓の田畑に点在する礎石から見ても相当の大伽藍であったと思はれる。万里の詩社頭之月の一句に白山古廟沢南涯とある。その白山古廟は現在の白山神社で丁度平沢山の中腹南端に位置してゐる。文武に秀でた父を持った資康も亦文武両道の達人であった。万里送別の為め敵塁と相対して当所に詩歌会を催したことは如何にも余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)として当代武人の風格を偲ばしめるものがある。資康の祖父備中守資清は古書に越生の住人と記されてある。越生の龍穏寺(梅園村龍ヶ谷)は道真(資清)道潅(資長)父子協力して再建したものである。又隣村小杉の健康寺は道潅が創建した寺で傍には道真隠棲(いんせい)の遺蹟がある。道潅は堀越公方を擁し、江戸城に在って両上杉を協せ古河公方に対抗したのである。要するに資清、資長、資康は孰も武蔵に在って活躍した武人である。
『埼玉史談』第11巻第5号 1940年(昭和15)5月