嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

小川町郷社八幡神社と江戸士民との交渉 大塚仲太郎 1940年

2009年03月20日 | 小川地域

 小川町大字大塚は、鎌倉時代の初期には隣接の増尾、飯田、角山と共に増尾郷の地で(仙覚律師は万葉風に麻師宇と書く)即ち源九郎義経の臣増尾氏の本貫くであった。一体此の地には古くから氏神として神明社があったのに、増尾氏に依って更に八幡宮が創建された。社伝では之を建治二年といっている。後鎌倉滅亡の砌守邦親王(もりくにしんのう)難を避けて当地に下向、梅王子と称して邸宅を構え、其処に鎌倉八幡宮を祀った。王は貞治二年(じょうじ)(1363)九月十九日薨去され、大梅寺の義翁圓了に由って同地坂下に葬られた。其の墓は今尚存して古く六面幢のあった形跡が残っている。里民は王の薨後二つの八幡宮を統一し、九月十九日を例祭日と定め、毎年流鏑馬を行った。又地主神たる神明社に対し、神幸の儀があり、氏子は久明親王以来伝ったという矢除守と矢除矢とを受けて神幸に扈従した。此の遺風は今も伝っている。
 家康入国江戸幕府開府の始めに在っては、当村は直轄地で関東郡代の支配下にあった。元禄十一年(1698)になって旗下金田能登守の知行所となり明治に及んだ。
 宝永二年御普請奉行で、江戸根津権現の普請を奉行した竹田政武及其一族から、流鏑馬用の武具を奉納され、之も一部が今も残っている。
 当時の権化帳によると、江戸の武士町民多数から金品の奉納があったことが記るされている。之は金田氏の知行となって江戸に紹介されたと考えず、当時八幡宮の名が江戸に聞えていたと考えたい。それに竹田氏の領地は同じ比企郡高坂村正代にあって、小川から江戸へ行くには自然正代をも通過する道筋なのであるから、何かの関係で竹田氏も大塚八幡宮の事を知り、崇敬したものだろうか。
 大塚八幡宮は古来子育八幡と称え、子供の無事息災健全成長を祈願する風があるから竹田氏も此の事で崇敬したものか。
 野州壬生の城主鳥居忠熹も、寛政中猩々緋の陣羽織を寄進して子孫繁栄を祈っている。口碑では当地村田太郎左衛門の娘との間に生れた男子の無事成長を祈ったのであるとも云ふ。
 拝殿の正面に掲けてある額も、三井親和の書で江戸殊に吉原との関係も伺われる。八幡宮の正面に古墳があって、一時之を八幡宮の奥の院で、彼の梅王子の塚と考えた時代があった。梅王子の塚は別に坂下に在るのだから、かゝる考の起る筈はないのに、古墳の所有権問題で長い間訴訟している間に、捏造した事が後人を誤らした結果であった。古墳は発掘され、その石槨内に祠を設け、穴八幡と唱えている。八幡宮別当勝道の記した由緒があるから之を掲げよう。

 増尾村穴八幡宮社地山林は千年より当院支配にありしといえども、空蒙として草木繁茂し、更無人跡、天明五年の頃東郷抱山亭瑟といえる宗匠此地に来りしとか、彼の石室を拝し奉りて
   石室や木葉衣を見るばかり
とよめる。其後文化夏東都鵬齋といえる儒道の博識、此地に遊歴したる時、亦石室を拝し奉りて
 文化四年丁夘夏游比企之小川驛。々後有山居山
 上有一石洞。洞皆以巨石作之實奇窟也。土人傳
 云守邦親王之潜居也中有小祠。祭親王之靈云
  嶮岈石洞俯孱顏  水滴雲昏苔作斑
  無限寃魂消不盡  凄風引雨撼千山
 其後文政十二年(1829)増尾村島田清左衛門といえる者弟半次郎十八歳にして俄成病に伏して医術は勿論祈願其外主々雖盡妙説更無霊験或ト者の曰く、其家乾方に古廟有べしと、其霊神を祭る時は必ず平癒すべしといえるに依りて、一家親族打寄て日夜其霊神を拝し奉りし時、不日に感応ありて乍ち平癒す、然して後に日々其霊験盛にして、近郷の里人は勿論、遠郷に至るまで其響益高し、然処同年霜月東都新吉原仲之町若水屋恒七と申せし仁、男衾郡鉢形之辺を通行の折柄土人其霊感あることを告るに依りて、幸に其神徳を拝し奉る。時に女房くめと云える腰下両足に至るまで悉く痛める事三年両手杖を以漸く家之内歩をなす故に其平癒を祈誓す。誠に時なる哉夫より数日に全快に赴きし事神妙不思議なる事行歩前の如くにして翌天保二年(1831)卯二月十八日右の女くめ此地に来りて彼石室を拝し奉りて心願成就を解ける折から。石室の内宮殿奉納致さん事を予に乞来る道其事尤幸なりといえるによりて忽東都に帰宅して同月末の八日に至りて夫恒七宮殿を三人の肩に負わせ並大旛一対共に奉納せし事大願成就なる者也云々。
            東都
一、再建石宮殿并拝石      若水屋恒七
            東都新吉原仲之町
一、大旛 壹對         若水屋恒七
 其旛の文字          同妻 くめ
  みやしろに捧げし      同娘 はる
    穴の仲の町深き惠の願ひぼときに
            東都新吉原
一、金燈籠 壹對        若水屋恒七
   并蓮幸香炉一器      同妻 くめ
                同娘 はる
一、金五两           若水屋くめ
(以上の外に隣国及び近郷の者からの奉納物多数あれど省く)

 これだけでは穴八幡と江戸若水屋だけの関係を知るに止まるが、前にも記した様に穴八幡を郷社八幡宮の奥の院と考える時の事であって、勿論八幡宮にも参詣し、又奉納もした。三井親和の額も同氏と吉原との関係を知る者には、吉原の人からの奉納である事は察知されるであろう。付信志と云ふ記録によると、元禄年中八幡宮再興の節、惣寄進江戸の分の内に次の名がある。

一、宮殿料金二百两       蒲井彦助
一、戸帳            越智下總守淸武
一、鉾             竹田丹波守
一、鳥居            間宮播磨守
一、神馬鞍覆紺地金襴      上遠野氏
一、神旗 白練         竹田丹波守
一、流鏑馬之馬具 一口     飯室氏 源昌貞
一、金三百疋          柴山氏 滿利
一、鉾貮振并并吹貫共      竹田氏 藤政貞
 金田能登守、朝比奈伊織、竹田源次郎、依田新五郎、竹田丹波守、遠藤二郎右衞門、永井半六郎、小笠原賴母、鎌倉屋伊兵衞、相模屋權平、遠州屋七郎右 衞門、伊勢屋市平、取次同伊平太、同左平次、同九郎次郎、同三河屋十内、此外武家方町方凡七百餘人。

 以上の付信志は寛延二年(1749)五月八幡宮別当梅岺寺にて記したものであるが、明治の初年まで東京崇敬者を有していた事実から考えると、八幡宮は穴八幡を通して江戸時代には江戸に相当聞えて居たことが想像される。従って近村に崇敬者の多かった事は云ふ迄もなく、今の小川町大河村及秩父郡大河原村の村々かたは、年々一定の金額を名主が取纏めて奉納した記録も残って居る。而して同社が古来事実上の郷社であった事を証している。
     『埼玉史談』12巻1号(1940年9月) 43頁~46頁
※参照:小川町大塚八幡神社