嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

花だより21 明光寺の桜 将軍沢 1966年

2009年04月02日 | 将軍沢

 無住の寺に桜だけが花やかに咲いている。たった一本の桜である。
 このお寺の庭で昔からささらが行はれたのだったが、今では後を継ぐ者がなく絶えてしまった。お寺だけがしょんぼりとたった一人で桜の花を眺めて、遠い昔をかみしめているような寂しい風景である。
     『菅谷村報道』167号 1966年(昭和41)4月30日

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峠のロマン “論争”尾を引く笛吹峠 1978年

2009年01月12日 | 将軍沢

 奥田地区の雑木林と田んぼにはさまれた道を、嵐山町に向かって登ると笛吹峠に出る、この道は、畠山重忠の菅谷館に向かう鎌倉街道の本道とされ、当時の面影を残している道。峠からは山間に東松山市が見え、後を振り返ると鳩山村を見渡せる。県内の鎌倉街道の実態調査をしている埼大福島正義教授が「あの景色のよさは何ともいえない」という峠だ。
 名前の由来は、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷(えぞ)地平定のためこの地を通ったとき、村人を苦しめている大蛇(じゃ)を退治し、笛を吹いて一休みしたため、とされている。このほかでは、後醍醐天皇の皇子の宗良親王が笛を吹いたためという説や「林を吹き抜ける風の音が笛をふいているように聞こえたため」という現実的な説もある。
 峠近くのはぐれ堂には、歯を黒く染めた大将首が埋めてあるとか、田村麻呂が悪竜を追いかけてきて、ここではぐれてしまった、という言い伝えが残っている。また、はぐれ堂と峠の中間にある十一人塚には、雨夜に人ダマが出るというので、驚いた村人が塚ごとに地蔵を建てて供養した-など、笛吹峠にはロマンと伝説が多い。
 この中でも圧巻は、南北朝時代の正平七年(1352)二月二十八日、峠をめぐって展開された宗良親王・新田義宗軍と足利尊氏軍の合戦だろう。すでに人見金井原(東京都府中、小金井市)の戦いで敗れている義宗軍は、峠を最後の防衛戦として、“鳥雲の陣”をもって尊氏軍と小手指原(所沢市)で激突した。昼から夕方までの約五時間にわたる激戦だったが、四倍もある尊氏軍にはかなわず、義宗軍は峠に軍を引く。夜になって義宗が敵陣を見るとかがり火が銀河のように列をなしている。峠の自軍を振り返る、月明りに見える螢(ほたる)火のようであったと(太平記)に記されている。
 宗良親王と義宗は、この峠の様子を見て最後の決戦をあきらめて落ちのびた。
 だが、太平記の作者は、ここで罪づくりなことをした。峠の名前を「笛吹」と書きながら、わざわざ「ウスイ」と送りがなを付けた【笛吹峠軍事うすひがたうげいくさのこと】。このため、峠をめぐって「笛吹峠」(ふえふきとうげ)と群馬県碓氷郡松井田町の「碓氷峠」(うすいとうげ)との地名論争が展開される。
 最初は碓氷説だった。新編武蔵風土記稿も、「武蔵国を前に越後信濃を後に」という太平記の記述をもとに碓氷峠と断定している。ところが、江戸末期地誌研究家斎藤鶴磯(さいとうかっき)が著書の武蔵野夜話で、「比企郡の笛吹峠」と主張、本格的な論争となった。鶴磯は地誌学者らしく距離による時間の面から「小手指原の戦いの行われたその日の夜に陣をしけるのは笛吹峠」とした。その後も何人もの学者や郷土史家がこの論争に参加、決着がつかないまま百五十年以上もたっている。
 亀井小学校長などを務めた小鷹健吾さんも「笛吹説」に挑戦した一人だ。小鷹さんは村の小字の地名と“鳥雲の陣”を結びつけるというユニークな方法をとった。
 大橋地区の御所谷は本陣、村名にもなった鳩山は旗山の転化、夜一山(石坂)、夜討久保(大豆戸)は夜討山、夜討窪の転化で戦いのあったところと推理した。これをまとめたのが郷土史家の清水四与次さん。寝たり起きたりの小鷹さんと何時間でも話し合ってはまとめたという。
 小鷹さんは、五十一年(1976)一月、脳いっ血のため八十一歳で亡くなった。清水さんの完成した原稿に目を通してから二十日ほど経ったころだった。
 この論争、小鷹さんの執念のような研究で現在のところ笛吹峠が有利といわれるが、碓氷峠の地元でも「ここであることは間違いなく、旧碓氷峠といわれる入山峠ではないかと研究されている」(松井田町教委)と、いうから決着が付くまでまだかなり時間がかかりそう。どちらに軍配が上がるにしても、この論争も、峠をめぐるロマンの一つといえそうだ。

メモ:笛吹峠を中心とする鎌倉街道は、約二キロにわたって当時の面影を残している。道幅は約五メートル。今年一月、測量を実施した福島教授は「鎌倉街道は、二メートルぐらいの幅とされていたが、実際は意外に広い」と驚く。実測はこのほか、嵐山町の重忠館跡西側の雑木林と小川町伊勢根の三か所を行った。福島教授はこの資料をもとに、発掘したい意向を持っている。調査や発掘はあくまでも、「江戸時代以前の物資や文化の流れに重要な役割を果たしたのに記録がない」ための学術的な記録保存が目的。が、「掘れば何か遺物が出てくるはず」というロマンもあるようだ。
     『読売新聞』1978年(昭和53)4月9日 まちかど風土記85 鎌倉街道・鳩山

参照:「雪見峠は笛吹峠」(http://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/rekisibukai/2008/08/post_e97f.html)。
「古老に聞く 笛吹峠の記念碑 福島愛作」(http://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/weblog/2008/08/post_552b.html)。
「古老に聞く 鎌倉街道記念碑 関根茂良」(http://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/weblog/2008/09/post_5651_1.html)。
「菅谷館跡西側の鎌倉街道跡に疑問符 1982年」(http://blog.goo.ne.jp/sekizoubutu/d/20081217)。
「発掘調査で菅谷館跡西側の鎌倉街道跡は堀跡と判明 1983年」(http://blog.goo.ne.jp/sekizoubutu/d/20081218)。