嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

小倉城址に登る 杉田一夫

2009年04月22日 | 小倉

  小倉城址に登る    杉田一夫
武蔵嵐山桜花鮮   武蔵嵐山桜花鮮やかなり
小倉山頂鶯声清   小倉山頂鶯声清し
忽我魂驚馬蹄響   忽ち我が魂は驚く馬蹄の響き
残碑没草暮烟深   残碑は草に没して暮烟(ぼいん)深し

   杉田一夫『折々の賦』(鵬和出版、1987年3月)30頁
※著者は1913年(大正2)4月、比企郡玉川村生まれ。松山中学校、埼玉師範学校本科二部卒業。その後、比企郡内の小中学校へ勤務。玉川村教育長。

 小倉城址は埼玉県比企郡玉川村田黒字小倉にある。海抜一四〇メートルの山頂から望むと、眼下に武蔵嵐山の景勝が指呼の間にあり、その向こうに菅谷館跡、国立婦人教育会館をはさんで渺茫(びょうぼう)たる関東平野が展開している。
 山頂にあった城は、細長いひさご型で、北西は断崖、西・北・東の三面を槻川がめぐって自然の要害を形づくっている。元亀(げんき)(1570-1573)・天正(てんしょう)(1573-1593)の頃、小田原北条氏に属し、遠山衛門大夫光景の居城であり、鎌倉街道の押さえとして重要な存在であった。天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原城攻めの時、松山城と共に落城したという。
 昭和十一年(1936)、県史跡指定のため、比企郡鳩山町故小鷹健吾先生、同郡都幾川村福田浜之先生などと共に奔走し、「二の丸後」の碑を書いて建てた。今唯一人山頂に立って、つわものどもの夢の跡を偲び、草に没した残碑を探してさまようこと数時間、日の暮れるのも忘れる思いであった。
 小倉城登り口にある延命山大福寺には、城主遠山衛門大夫光景夫人の位牌がある。高さ七六センチ、幅一三センチ、桐材で作られ、表に「華楽院殿妙香大禅定尼」、裏に「遠山衛門大夫光景室葦園」と記してある。
 なお、小倉城址に近接している嵐山町大字遠山の遠山寺は、光景が、父政景追善のため建立したといわれ、同寺の過去帳によると「桃雲宗見居士、天正十五年丁亥五月二十九日没遠山衛門大夫藤原光景事」とある。(同書30頁~32頁)


『粕川のほとり』17 編集後記 大塚基氏

2009年04月21日 | 七郷地区

 遠藤庄吉さんが七郷地区全体をとらえながら粕川沿いのことをまとめて見たいと私の所に見えられたのが4~5年前の頃であったと思います。
 その後、遠藤庄吉さんと権田恒治さんの努力によって集められた資料をもとに編集して欲しいといわれました。
 多様な資料と文面におののきながらも使えるものだけを抜出し、私の資料を差し挟んで生活の合間を縫ってまとめてみました。
 ひたむきに郷土を愛する遠藤さん、権田さんの労に報いられたならば、また、側面から応援していただいた田畑俊夫氏の嵐山町助役就任の記念となれば幸いです。
 なお、資料写真について東松山土木事務所の高橋康男氏にも御協力いただきました。感謝する次第です。
     大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)62頁


『粕川のほとり』16 七郷地区の土地改良事業 大塚基氏

2009年04月20日 | 七郷地区

  七郷地区の土地改良事業
 昭和4、5年(1929-1930)に始まった世界大恐慌のあおりで日本の農村も計り知れない程の打撃を受けていた。そして人口も、明治の始めに3480万人であったものが昭和七年(1932)には6930万人と倍増していた。
 そのような中で、昭和7年(1932)から農業土木事業は食糧の増産を伴い農村に於ける雇用機会を与える失業対策の側面も有しているということで救農土木事業として始まったが、第二次世界大戦の直前の頃には、失業対策的な色彩は影をひそめ、戦時対応策としての色合いを強めながらも食糧増産という本来の目的が鮮明になっていった。
 難しい時代の中で、古里、吉田に挟まれた17haの水田をもつ農民はこれといった排水路もない低湿田に苦労していた。小量の一時雨でも氾濫さし稲作に大きな被害を与えることも度々であったという。そして、農民はむなしい努力に終わるかも知れないと思いながらも永々として、こぶたと言われる小さな用排水堀をさらい、少しでも排水効率を高める努力をおこなっていた。
 それこそ、二毛作はまったく夢の夢であった。
 そんな状況の中、七郷村においても昭和七年から国の施策に基づいて農村振興土木事業が始まり地域の道水路等が次々と整備されていった。近年に改良された道水路幹線の原形はほぼこの時代に出来上がったといえよう。そして、この事業の一環として昭和15年(1940)に嵐山町吉田の小林政市氏、古里の荻山忠治氏等が中心となって、古里、吉田の総意を結集し、古里吉田耕地の中央に排水路を新設、湿田を二毛作田へ改良し生産の向上を図ることを計画した。
 幅8m、総延長750mの排水路の新設には当然60a余りもの用地が必要となり必然的に賛否両論の考え方が示され、初めから百パーセントの同意が得られる筈もなかった。何十回もの話合いが重ねられて排水路の新設が決定された。
 工事は人力によっておこなわれ、面積割に夫役された。しかし第二次世界大戦の直前、最も、人夫として頼るべき人々は徴兵され人夫は常にそこをついていた。そこで僅かな報酬で七郷村の女子青年団に招集がかかり人夫に狩りだされた。村をあげての事業となった。
 秋の取入れが住んだ11月に始まった工事も人夫不足等から工期の遅れをよぎなくされたが、翌年(1941)の田植えまでには人々の協力の甲斐あって素晴らしい排水路が実現した。
 秋の収穫が終わるとただ一面の湿地帯と化して作物も育たづひっそりと静まりかえっていた耕地に、麦を中心として菜の花、じゃがいもなど色々な作物が競い合う、夢にまで見た二毛作耕地が実現したのである。
 古里吉田耕地の湿地帯を解消し、見事な二毛作田に改良したその排水幹線は「新川」(しんかわ)若しくは「新堀」と呼ばれ滑川の源流となった。
 大きな戦争を挟んで牛歩の歩みを続けてきた七郷村の土地改良事業も昭和36年度から始まった農業構造改善事業において稚蚕飼育所、集乳所等農業近代化施設とともに各地区の農道、ため池改修が華々しく行われるようになった。
 そして、昭和45年度第一次農業構造改善事業において、かつて昭和15年度に七郷村中の人々を動員して鍬やもっこにて新設した新川を含んだ、古里の柏木沼の下から吉田の勝田境までの従前農地面積63.6haの耕地を対象とした圃場整備事業が藤田正作理事長を中心として行われ、この事業の成果をもとに次の表のように圃場整備事業の推進が図られ、七郷地区の殆どの農地が整備された。

  圃場整備事業推進状況
事業年度(面工事のみ)、地区名、受益面積(田、畑、計)、組織名
昭和45年度 七郷北部 田545ha 畑61ha 計606ha 七郷北部土地改良区
昭和55年度 勝田 田55ha 畑1ha 計56ha 滑川西部土地改良区
昭和56年度 吉田 田71ha 畑14ha 計85ha 七郷北部土地改良区
昭和58年度 藪谷 田24ha 畑5ha 計29ha 七郷北部土地改良区
昭和59年度~63年度 北田 田209ha 畑131ha 計340ha 北田土地改良区
昭和59年度~平成1年度 嵐山中部 田773ha 畑220ha 計993ha 嵐山中部土地改良区
昭和62年度 馬内 田22ha 畑11ha 計33ha 馬内土地改良区
昭和63年度 長沼下 田46ha 畑16ha 計62ha 長沼下土地改良区

 農道においても随時改修されてきたが昭和48年度の融資単独農道舗装事業をかわきりに地域の主要道路について各種の農道舗装事業を導入して今は殆どの道路の舗装を完了した。
 しかし、傾斜地に集団している農地を通過する農道を中心に道路の改良と舗装が今もなお続けられている。
 明治42年(1909)に戸数482戸、人口3157であった七郷地区は嵐山郷を除いて平成元年(1989)の今、戸数は1.6倍の773戸となったが人口は3101人と殆ど変わらない。しかし、多くの人々が積み重ねてきた努力によって農業の基盤は大きく変わり近代農業に対応できうる基礎が出来上がった。
 嵐山町の農業も、七郷地区の農業も、文明の進歩によって狭くなった世界の中で今までに類を見なかったほど難しい世界情勢の荒波にもまれている。
 しかし、昔から変わることなく一貫して人々の生活を支える農業の重要性が変わるものでもなく、人々の幸せの為に先人達がこの大地に流した土地改良事業の汗がむくわれる事を祈りたい。
     大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)56頁~61頁


『粕川のほとり』15 嵐山町の溜池 大塚基氏

2009年04月19日 | 七郷地区

  嵐山町の溜池
 嵐山町は比企丘陵地帯のちょうど中央部に位置し平坦部分が少なく、地勢は洪積層と一部第四紀層から形成されております。そしてこの地帯特有の低い丘の合間からは湧き水も少なく、井戸を掘ってもかっ水期には飲水までも事欠くことが多くありました。
 しかし、このような土壌条件の中で、米作りを基本とした当地方の先人達が、この地方に移り住んできて、生活の基盤を強力にするために地形をうまく利用し、丘陵の合間の細長い谷の奥に溜池を造り、溜池の水を利用した水田の開発を考えました。
 その結果、都幾川の石代堰から取水される鎌形、大蔵耕地の約40haを除く殆どの水田が溜池の水で賄われ、嵐山町の水稲作における利用度は全水田面積の78%にもおよぶこととなりました。
 しかし、溜池の老朽化が目立つ中でその実態は明らかなものでなく、溜池の実態を把握することは溜池の保全を考えるうえからも、また、稲作安定を図るうえからも急務であると感じました。
 そこで、嵐山町における溜池の実態を明らかにすべく溜池台帳の作成を計画、昭和50年(1975)から準備を始め、事務調査が一区切りついた昭和53年(1978)7月に各地区の区長さんを通じて各溜池責任者に管理等の実態調査を依頼しました。その回収率は極めて高く、溜池に対する関心の程が知れました。そして、今まで管理団体を持たず慣習だけをたよりに溜池を利用してきたところも沢山ありましたが、この調査を機会に指導がなされた結果、管理団体の結成や溜池改修計画の立案等、溜池の維持管理改善をはかる水利団体がめだちました。
 溜池台帳は、現場の実態踏査を含まない未完成なりに、昭和54年(1979)2月に作成を完成しました。溜池台帳の必要性を感じてから六年、現場の実態踏査を含んだ台帳に出来なかったことに対して個人的作業の限界を痛感しながらも、やっと出来たという実感が残りました。
 ことあるごとに、県の関係機関に対して、溜池の重要性、実態把握の必要性を嵐山町に於ける実態調査を踏まえて具申しておりました。そのことが効をそうしたのかどうか分りませんが、昭和54年度事業として埼玉県では、埼玉縣下の受益2ha以上の溜池について実態調査を実施することとなり、嵐山町に対しても80ヶ所を対象とした調査依頼がありました。
 現場調査を踏まえた溜池台帳の整備を希望していた折だけに、渡りに船とばかりに委託金を有効に使って調査対象以外の全部の溜池を実施することにしました。
 調査の結果、昭和33年(1958)当時の溜池数調べで193あった溜池も道路の改修、宅地等の開発によって169となっていました。そして溜池の状況を分析すると、堤搪の状態が極めてよく溜池としての機能を十分に果たしているものが58、堤搪状態が悪いが溜池としての機能を果たしているものが78、漏水がひどく溜池としての機能を果たしていないものが34もありました。
 嵐山町の農業も圃場整備の進展に伴い谷田の改良も進み、溜池に対する関心も高まってまいりましたが、長く続いた稲転作事業の後遺症として谷田の荒廃は促進され、谷田の奥深く築かれた溜池の中には管理する人もなく、寂しく雑木等におかされてしまったものも数多くみうけられます。
 そして今、平成元年(1989)1月現在の溜池の状態をチェックしてみますと、土地改良事業で四つ、開発等に伴い二つの溜池が無くなり、一つの溜池が沼下の開発に伴い農業用水としての機能を終えました。また、花見台工業団地の開発に伴い七つの溜池が長い間の農民の思いを胸に秘めながら静かに消えようとしています。
 昭和四五年度から始まった嵐山町の圃場整備事業によって、嵐山町農業振興地域内の農用区域内水田の73.5%の229ヘクタール、畑の38%の117haと圃場整備は、平成元年度に始まる市の川沿いの優良農地を除いたほとんどが完成しました。そして、千手堂の圃場整備事業で三つ、嵐山南部、中部の圃場整備事業で(パイプライン方式による用水機場へ)六つの新しい溜池も誕生しました。
 また、新しい農業への試みとして嵐山南部の県営土地改良事業により12haのかんすい畑が設置され畑地へのかんがいも始まりました。この計画の是非によっては今後の畑地へのかんがいが要求され益々溜池の必要性が高まると思われます。
 今日まで、嵐山町に於いての稲作栽培は常に水の確保との戦いでありました。
 そして、これからも嵐山町の農業の発展は水の確保がいかになされるかにかかっています。
 溜池の調査を通して溜池の実態を把握することができ、溜池の維持管理に対する指導がなされました。しかし、築沼技術の全てを尽くして作られた溜池も長い間の風雪と農業意欲の低下の中で、堤搪の破損が著しいものがみうけられます。
 それぞれの溜池は、それぞれの長い歴史の中に、水田への用水補給源とともに農村の重要な蛋白源としての魚類の飼育場所として、又、多くの信仰と言い伝えを携えて地域社会と深く関わってきました。
 そして今、圃場整備事業の進行にともなって農業用水として溜池の必要性が再認識される中で、あらためて地域社会と結びついた防火用水や、環境保全の場などの利用方法とも考え合せながら、溜池の保全維持のための努力を払うことが大きな課題となってきたと思われます。
     大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)51頁~55頁


『粕川のほとり』14 粕川沿いをあちらこちら散歩するとつきあたるものは(8) 権田恒治

2009年04月18日 | 七郷地区

  改修前の粕川の横顔
 嵐山町七郷地区南部中央を南北に縦断する粕川、巾も水深もない野川であるが、越畑、高倉、杉山、広野には、母なる川である。両岸の各の耕地、水田の潅、挑水には、大いに一役も二た役も担い、無くてはならない存在である。
 田舎の小川は、小学唱歌にある「春の小川はサラサラ流る、岸のスミレやレンゲの花が、姿やさしく色うつくしく、咲けよ咲けよと、ささやきながら」とは全然イメージが異り、この粕川は筆者が小学校に通うころ「春の小川」を唄いながら、度々この川端歩きをした。平な道より、道草喰いながらのジャングル道が好きで、草茫茫(ぼうぼう)が足にからまり、芦の角がわら草履(筆者が子供の頃は、下駄は余所行きで、平時は自家製のわら草履が主)を刺し足裏を痛め、血が出れば辺り一面にある血止め草を貼り「ホラ血が止まった」と腕白ざかりの学校帰りであった。
 ジャングルの中に、川があり、水が流れて魚や泥鰌がいたと思いますか。ところがこの川岸もアップはご覧のとほり柳が生い茂り、根は洗い出され、所どころ陽も射し込んで、魚類の住み処には格好の処、諺に「いつも柳の下にどじょうはいない」と言うが、泥鰌どころか、ウナギ、ナマズ、鯉までひそんでいるからおどろき、筆者も少年の頃、竹竿の先に大人の手の平程の鉄製のヤスをつけて、鯉をおどしに行ったり、置き針で鰻を捕って友達に見せびらかした事も、矢張り柳の根の垂れて水に浸っている所が仕掛の目安であった。はるか前方に、高速自動車道の鉄橋が見えるが、その辺に寺前堰があり、堰上、堰下の水溜りは水深もあり釣糸を垂れる格好の場所で、柳バヤ、金鮒が釣れ、田舎太公望の集る所であった。も少し下ると、竹の鼻堰(一名宮前堰)で取材に行った当時、ただ一つ昔の俤(おもかげ)が丈なす草の中で、手まねきして懐しく瞼の奥を熱くした。この下方に、水泳の場所太田坊、又その下方に馬の川のり場(馬の水浴び、馬の汗洗い)に土手が傾き馬を乗り入れ易くした杉山等、思出はつきない。堰があるが、取材の時は半ば取りこわされ、レンズの中には入らなかった。粕川の十ヶ所もあった堰は項を改めて紹介したい。 【写真掲載は準備中】
     大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)47頁~50頁


『粕川のほとり』13 粕川沿いをあちらこちら散歩するとつきあたるものは(7) 権田恒治

2009年04月17日 | 七郷地区

  寺前堰より 【写真掲載は準備中】
 撮影地点は関越自動車道粕川鉄橋の下、上流方面である。
 人の世の煩悩を濃縮したような、せせこましい音がひっきりなしに降ってくる。天空は青いし工人の影はなし、このチャンス逸すべからずとシャッターを切る。土手の標や篠藪の大物は伐り取られ、川の両岸の肌は荒らあらしく、わずか残った茅萱の影を映す水面に、みずすましがあといくばくの命も知らず平和な顔で浮いているのがあわれであった。
 まわれ右して下流方向をレンズに入れる。河川改修工事中であったが、作業は休みか、工人は見えない。左岸はノリも出来つつあり、測量の棒が所々立てられ、右岸はパワーシャベルで削られた川岸の肌が生まなまと黒い地肌が無惨であった。
 工事の進捗情況に興味を持ち、更に下方へと歩を伸す。左岸には基礎のブロックが二段ばかり整然とし、前方にはブルトーザーが二機稼動中で、川底をえぐっていた。右岸はまだ破かいの跡も生々しく、目も当てられない状態であった。
     大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)44頁~46頁


『粕川のほとり』12 粕川沿いをあちらこちら散歩するとつきあたるものは(6) 権田恒治

2009年04月16日 | 七郷地区

  河川改修前の粕川
 ここは、嵐山町大字広野字上郷地内より粕川右岸の嵐山町大字杉山への通称大正新道に架かる大正橋上より改修前の粕川下流を望むスナップ写真です。
 両岸には、見る通りの葦・茅等茫茫とした草原で両岸の草が川の中に垂れ込み、川水をせき止め少しの大雨降り時など、川水が氾濫し両岸端の水田耕地は水浸しとなり、田植直後の草苗は流され秋の稔り時は、稲は押し倒され稲穂が水浸しとなり豊作を夢みた秋の取り入れも水泡となった事は、しばしばでした。
 遠方にのぞめるは関越高速自動車道で粕川にかかる鉄道です・文明開化の井音を夜も昼も、ゴウゴウと立てています。
 これは前項改修前の粕川が一変して近代的粕川に様替りした姿です。矢張り大正新道大正橋より下流をのぞみ、広々とした耕地の中に一條の人工河川の竣工にてここより下流は、浜水に見舞われる心配がなく、両岸の稲作者も安堵の胸をなぜ下ろしていることでしょう。
 ちなみにこの地点の左岸には第二堰と申す電動式井堰が設けられ水田等の灌漑には自動給水が出来る仕組みになっています。
 はるか前方は高速道の鉄橋です。
     大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)41頁~43頁


『粕川のほとり』11 粕川沿いをあちらこちら散歩するとつきあたるものは(5) 権田恒治

2009年04月15日 | 七郷地区

  高倉一升ぼたもち日待
 「お日待」を「ひまち」「つきまち」といって各種の講仲間が、一所に集い身心をきよめ、邪念を去って一夜をあかし、日の出や月の出を待つ神事である。
 講人に共同の幸福をさづかろうというのであるが、この時には一同飲食を共にし、娯楽に興じ語りあかすのである。
 今のお日待は宴会、懇親会の意味である。
 昔から共同の飲食といっても、特色のあるものの一つに、高倉の一升牡丹餅がある。
 一升牡丹餅は、米七合に小豆三合、起源のわからないほど古いこの一升ぼたもちの行事で、未だ腹をこわした人はいない。このお日待には喧嘩がない。親達の親睦の行事に集っていただいた牡丹餅を頬ばりながら、子供たちの胸には、神に祈り、大地自然に感謝して共々に事にはげむ共同相助の精神がたくましく成長する。
     大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)39頁~40頁


『粕川のほとり』10 粕川沿いをあちらこちら散歩するとつきあたるものは(4) 権田恒治

2009年04月14日 | 七郷地区

  第二井堰左岸より粕川下流をのぞむ
 粕川改修成った右岸方面を、第二井堰左岸よりの展望です。川岸もブロック積みにて、白々とし今のところ草一本もない出来たてホヤホヤの川岸。何と素晴らしい眺めかな。
 芽立を待つばかりの桑樹もすがすがしく、養蚕を思わせ、桑樹につづく田莆も広々と、その向うの民家も布望の男の児誕生のお祝、五月の青空に勇ましく昇る象徴の鯉のぼりがのぞまれ、平和そのものの田園風景に、竣工成った粕川取材のカメラ子も、うっとりと夢心地で見惚れていた、一つときであった。
     大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)37頁~38頁


『粕川のほとり』9 『粕川のほとり』7 粕川沿いをあちらこちら散歩するとつきあたるものは(3) 権田恒治

2009年04月13日 | 七郷地区

  長屋門
所在地 嵐山町大字太郎丸 田幡家
  市野川勝進橋【精進橋】を渡り300メートル程の所、東側を県道月の輪本田線、前は広い町道に囲まれた所にあり、旧豪農にて、造り酒屋であった。今もって「酒屋んち」でとほっている。大正から昭和のはじめ頃は、子供のたまり場で、かくれんぼしたり、二階にのぼったりして遊んだものであった。
 おもしろい事にこの字の地番は、子(ね)の何番、丑(うし)の何番と十二支で数へられている。
     大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)36頁


『粕川のほとり』8 『粕川のほとり』7 粕川沿いをあちらこちら散歩するとつきあたるものは(2) 権田恒治

2009年04月12日 | 七郷地区

  ミニ絹の道
 今は舗装され近代的な県道となり、月の輪・本田線という。明治から大正にかけて砂利が敷かれ、七郷新道と面目一新する前の泥道時代、明治以前の事である。この道は南北に走れるが、これを高倉地内で東西に横断するのがミニ絹の道である。
 高倉村、吉田村(現嵐山町大字勝田字高倉、同町大字吉田)の境を東西に走る藤庚申道という峠道があり、その道が西に越畑村(現嵐山町大字越畑)から小川町方面に通じ、吉田村以東は和泉村【現・滑川町】)、小江川村【江南町、現熊谷市】をぬけ熊谷へ、つまり小川・熊谷間の泥道であったが、短距離すなわち近道なので、それ故明治初年には熊谷・小川間の県道として第一候補の話題にのぼる程、かなりの主要道路であった。沿道各で生産される現金収入の最たるものは繭・生糸・絹織物で、小川の生産地から越生、飯能、八王子方面への主要道路にして、誰言うとなく絹の道が通称となった。
 この石ぶみは、粕川の上流ミニ絹の道観音橋のたもとにあって、人通りのない野中の道端、川端にて行人の安全を守っていた。「奉遣立庚申供養塔 元文五年十一月吉日 施主敬白」とあり、元文五年は西暦1740年桜町天皇の時代で、今より二百五十余年も昔の事であった。この庚申塔の左右に一体づつの石仏があったが、粕川改修で500メートル許り西方の、越畑・杉山線の道辺に移された。
     大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)34頁~35頁


『粕川のほとり』7 粕川沿いをあちらこちら散歩するとつきあたるものは(1) 権田恒治

2009年04月11日 | 七郷地区

 権田恒治氏がふらりと粕川沿いをあちらこちらと散歩しながら心に触れた所をパチリパチリと撮った写真に説明を付けられたものを原文そのままの形で編集しました。【写真掲載は準備中】

  百庚申供養塔
所在地 嵐山町大字廣野中郷
 大字広野の鎮守、八宮神社の参道、鳥居前にあり、この近辺には見られぬ珍しい文化財である。
 庚申講の盛んな昔、村人が挙って寄進したもので、百基以上もあり通称百庚申という。一枚の板石に百庚申と三文字彫ったものもみかけるが百基もの板石庚申塔が並び立っているのは珍しい。

  嵐山町大字廣野下郷庚申塚
 現在は広い舗装道路であるが、もとは狭い砂利道の三本辻の小高い所にあって、庚申塔や馬頭観世音が立ち並び、往時の農村信仰の偲ばれる所であり、又、武刕比企郡松山領ともあり、村の歴史もほりおこせる。
 庚申塔には、庚申待に祭る庚申青面金剛像や、見ざる、聞かざる、話さざるの三猿の形を刻んだ石塔もあり、庚申(かのえさる)の夜、庚申待として寝ないで徹夜する習俗があり、その夜眠ると人身にいるという三尸(さんし)の虫が人の睡りに乗じて、その人の罪を上帝(天の神)に告げるとも、三尸が人の命を短くするともいう。中国の道教の守、庚申に由来する禁忌で、吾が国には、平安時代に伝わり、江戸時代に盛んになった。庚申は、カノエサルでエトのち十干十二支により六十日目に一回まわって来るので庚申待を営む仲間を作って講といい、石塔を建てて信心の証とし、健康と家内安全を願ったのである。
 この広野郷の鎮守八宮神社の参道には、百基もの供養石塔もあり、百庚申といい如何信仰の厚かったかを物語っている。

  阿弥陀一尊板石塔婆
所在地 嵐山町大字広野下郷
 通称アミダ様の供養塔である。青石塔婆ともいい、原石の産地は、近くは、小川町大字下里にて、下里石として知られている。県内では秩父郡野上村今の長瀞町である。
 碑面に彫ってあるのは梵字のキリークと読みアミダ様(尊)を現している。阿弥陀仏は皆様ご存知の通り、西方にある極楽世界を主宰する仏陀の名。信者は死後その世界に生れかえる。わが国では浄土宗、真宗などの本寺。阿弥陀教などで西方極楽浄土の様子を説き念仏唱名をすすめているものである。
 この石板塔婆の裏は、道祖神の供養塔も兼ねてをり又、右大山道、左松山道として道しるべともなっている。

  道祖神塔
所在地 嵐山町大字廣野下郷庚申塚前三叉路端
 道路の悪霊を防いで行人を守護する神の供養塔で、日本では、さいのかみ・さえのかみと集合されてきた。くなどの神、たむけの神、ともいい(伊弉諾尊が伊弉冉尊を、黄泉(よみ)の国に訪ね、逃げ戻った時、追いかけて来た黄泉醜女(よもつしこめ)を遮り止めるために投げた杖から成り出た神)道行く人を災難から守る神、みちのかみ、にて、道中安全を祈願するには、大きな藁草履わらじ、又は鉄板の草履、わらじ等を、たむけ捧げるので、ここにも昔は傍に大きな欅の木があり、枝に沢山吊して祈願したしるしがあった。
 この道祖神塔には、右大山道、左松山道と彫ってあり、石の道しるべも兼ねる。又この塔は、板碑の裏面を再使用したもので、表は阿弥陀如来の種子(梵字)が彫ってある。土地の人達が、阿弥陀様のご利益にあやかるべく、勿体ないが再使用したものと思われる。
 道しるべの右大山道とは…この辺りの郷(むら)では両隣の神社として有名な、相州大山阿夫利神社、大山講として石尊参りが盛んで、各には、夏の雨乞いを祈願して、八月中に、辻に立てたる灯籠に、家順にて夕方には灯を入れ、農作物の育成に必要な、夏の日照りにそなえ、雨を呼ぶお願いを、大山阿夫利神社に祈願するので、石尊講に代参する人のための道しるべである。代参する者は、そのの先達一人に連れられて、その、今年十六才になった男の子が当るならわしになって居り、代参がすめば、その子は一人前に大人のつき合いが出来る晴の儀式と言われているので、その子はお土産に木製のコマを講の仲間各戸に買ってくるのであった。
     大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)25頁~33頁


『粕川のほとり』6 沼と堀と堰 田畑俊夫

2009年04月10日 | 七郷地区

  沼と堀と堰
 沼(溜池)の水が田から堰、そして又田へと、ここ粕川畔水田のかんがい水路は走る。集落の水田開発のあゆみをこの堀が語りかける。今はそれを塗りかえるかのようにコンクリート水路に変わろうとしている。過去の痕跡は旧粕川にのこされている。
 沼の水は堀を通り上の田から下の田へと次々に潤してゆく。各々の水田が一杯になると堀の水は粕川へとそそぎ、そして下流の市野川に流れていくのである。
 沼のひとつひとつ、それ自体はおのおの独立した水源で、それぞれひとまとまりの水利単位戸成っている。こうなると水路が走り抜ける集落の協力なしには昔からの水路の維持が出来なくなり、水を通しての集落の人達との繋がりはこみ入ったものとなってくるであろう。
 また逆に耕作者とのつながりが広くなってゆく下地がなければ、広域にわたる水利施設は造り得ず、そこには結合したひとつの意思が必要である。
 沼周辺の背後の山はそこに住んでからの燃料、肥料の供給地である。そして谷づたいに形づけられた一つの生活領域ともいえる。
 いくすじもの谷の口を通り越して走る粕川の堰から見た集落の景観は素晴らしい領域である。
 水田とはそこに労力と荒れ地さえあれば、いかようにも拓くことが出来るというものではない。どこからどのようにして水を引くのか、そのことをぬきにしては開田は考えられない。
 だからこそ水のつながりはそのまま人との繋がりと重なっていく。
 水田にはその取水施設や手段に地域性や時代性が見受けられる。そして、水田の多くは一枚一枚に名前が付けられている。名前といってもそこを作っている家か、せいぜい集落のみに通用する呼称である。
 かっすい期には水を引く権利をもたぬ、後から割込む形で拓かれた田は後々まで不利な条件を背負っている。
 水利とは変わりにくいものであるが、沼の水から堰へといった取水施設全体の大もとからの変化があればそれを期にして大きく変わることがあるのも事実である。
     大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)23頁~24頁


『粕川のほとり』5 粕川の堰 権田恒治

2009年04月09日 | 七郷地区

  粕川の堰
 川はただ水の流れる道ではない。流域の人々にとって、それは「母なる川」であり地方文化は紛れもなく川の文化であった。
 粕川は嵐山町旧七郷村の西南部を流れる川、現流は越畑地区にふたすじあり、川越岩沼と十三間沼に始まり、杉山、広野、(一部吉田、勝田を含む)の水田地帯の真中を流れ、水田耕作には欠かせない用水路、排水路でもある。幅も深さもない。
 水源は右岸左岸1000メートルほどに連なる高さ100メートルそこそこの雑木林の山間の谷水を集めて流れる野川である。そして、やや大きな谷の出口には堤防を作り、それなりに大きな貯水装置を作って、沼または池と称し谷水を無駄には流さず、かんばつ時の備えにしている。
 粕川にはこの余り水を放流している沼や池が53個もある。粕川と沼とは堀りという粗末な用排水路によって繋がっており、53個の沼は粕川の水源地でもある。
 沼の水は、その谷津田の用水である。粕川には、それら上流地域の余り水や漏水を一時溜めて、かんがい用にすべく川の所々に堰をもうけてある。堰とは川を区切って貯水する装置であって、主に木の厚板を利用する。堰は稲作者のこうした体験から染みでた生活の知恵で、最も尊敬すべき貴重な遺産である。
 粕川の本流は約4キロメイトル程で、この中に10の堰があった。堰からの水を水田に利用できるのは、川岸の天水田が主で、天水田の大方は川の水面より耕作地が高いので、堰から直に水が水田に入るのは、堰がノッタ(満水)時で堰に附随してある用水路に流入するからである。雨天続きでどこの水田も水が有り余っており、そんな時は天水田も堰水は素通りである。かんてん時は堰水も少なく、同一堰利用者が相計り汲桶で各々の谷汲込むのである。この水汲も小桶で一人で行うものと、特殊な水汲桶で二人で行う場合とがある。この場合、二人の息がよほど良く合わないと桶に水が入らず、又、入った水も目的の場所まで届かず、途中にこぼれたり桶がもんどり打ったり、骨折り損のくたびれ儲ということがある。
 沼も堰もそれぞれ管理者がおり水の利用等も規則に従っている。沼も堰もその水を利用する者を、沼下、沼下耕作者と言い、堰普請、堀普請、沼普請等の史役も平等に行うものである。

地図 粕川の沼と堀と堰 【準備中】

     大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)16頁~18頁
※粕川の堰は上流から、観音堰、高倉前堰、大橋堰、岩鼻堰(寺前堰)、竹の花堰(宮前堰)、太田坊堰、杉山堰、うしろ堰、六丁堰、大下堰があった。


『粕川のほとり』4 水田かんがいとの戦い

2009年04月08日 | 七郷地区

  水田かんがいとの戦い
 かんがいの為の水利事業は地質、測量、数学に通ずる者にして、初めてなしえることで、今日その工事を、機械力の利用のない当時において完成したことは、農業土木的見地からすれば千金に値する。
 しかし更に私達が学問的に興味を感ずることは、かんがい用水の管理分配である。
 測量、掘削は技術的事業であり、水源地(ここでは沼、溜池をいう)や溝渠通過の管理、用益、用水の分配等は多くの関係者の協同一致と指揮者の統率よろしきを得るのでなければ、せっかく技術的に出来上がったものもこれを活かすことはできない。
 水利事業に二つの意義が有ることを知らなければならない。
 一つは技術的に溝渠を掘りかんがい水を通じること
 二つはかんがい水をどう管理分配するかということ
この二方面事業は集落の協同によって行われる場合が多いのである。時には、分業的に行われている場合もあり、また、一人(指揮者)によって行われる場合もある。
 例えば、関東郡代官伊奈忠治は種々の治水事業をおこなったが、その一環として、寛永六年(一六二九)自然のままになっていた見沼に大堤防を築いて締切り、見沼溜井として人工の沼をつくりあげ、この沼の水を下流地域の二、二一一の村にかんがい用水として利用させた。
 締切った場所は、足立郡附島村(現浦和市)と木曽呂村(現川口市)で堤は八丁(約九〇〇メートル)そこそこで、この堤は八丁つつみと呼ばれるようになった。
 名代官伊奈忠治は水利土木の技術家として名を成している。
 調査以前から川畔一帯の沼、溜池、水路(掘)堰について現況と経過を詳細に一万分の一の地図に、そして先ず堰を実地に調べた。次に水源(沼)を調査、流域の多くの掘を見た。枝状に入りこんで網目の如く形成している。
 掘の奥はそれぞれ水田かんがい用の沼、溜池が構築されてある。
 沼の構築の年代は明治九年の地籍地図から作成した小字名を見ると小字と沼の関係がよくわかる。また人名を付けたもの、無名なものもある。
 越畑という地名は天正十八年五月の前田利家禁制に「武州ならなしおっぱた」とある。旧家船戸治夫氏の先祖は文明年間以前にさかのぼるといわれ、また「越畑城跡」の発掘調査によれば一五世紀後半~一六世紀初頭にかけて越畑城が築城されたと推定されていることから、沼の構築年代は、後北条期、江戸期、そして明治に入ってから築造されたものであるとおもわれる。
 沼畔に碑も建ててあり先人の苦闘の後がしのばれる。
 川畔の田にしろ、丘の畑にしろ、拓けるところはひらかれたところである。
 もともと谷水を引くのに便利な所に湧水がでている水量に見合うだけの田が拓かれたのであったが溜池を造り水をたくわえることによって、その水量の分だけ更に田を拓き耕地拡張をおこなってきたのである。
 はじめから計画的に溜池を築くことによって田を拓いた場合と湧水を利用して少しづつ拓いた場合とでは田への水路(掘)のあり方が違って来ている。
 谷の田は一枚一枚段々になり水路を伸ばして整然とした形をもっているが、湧水(清水)を引いた田は拓いた当初の都合をそのまま受継いで畦ごしの田あり、水通しの田あり、小水路(小堀)ありで極めて不揃いになっている。
 粕川畔の水田を見るに開田するために苦難の時代が続いたことと感じられる。とりわけ堰を造り水を蓄えることは、自然との戦いであったと思う。延長五キロに亙って粕川には十ヶ所の堰があるが、目下、本流の改修工事で、その名(堰名)は後世に止どめることができなくなった。
 この地域は低地帯で、今から五〇〇年、いやもっと古い時代には丘陵の一部をのぞいては当然住む人もなく、タヌキやキツネが住んでいた荒野と聞いている。畠山重忠時代は領地として開拓し従者など定住させたこととうかがえる。鉢形城落城後にここに住みついた旧家が今も残っていると聞く。
 山裾づたいに水路を掘って低地一帯をかんがいすることは、近代的土木技術もない当時は夢に近かったといってよい。水が無くて一番苦しんだのは農民だ、きわめて水の少ない地域である。飲料水にも事欠いていた。かんがい、堰工事事業に費用と人足を使うことに、反対論もあったことと察しられる。堰名に人名があるがあるいは水利事業を推進した人々ではなかろうかと思える。昔のままの堰あとを踏査した時、洪水のたびごとに破損したであろう堰の古い杭に水を求めた苦闘が残っていた。
 農民の知恵と努力の結晶がこれらの堰であったのである。
 幾歳月を経て、目下改修工事により粕川の農業水利事業がやっとかなえられようとしている。今日の技術の設計は昔のそれと同じであるといわれる。堰の古い杭の跡は粕川の堰の水がいかに重要であったかを物語るものであろう。
 昔からよく「母なる川」といわれるが、粕川もまたこの地域の母なる川である。そしてまた嵐山の田園集落として永く残されるべきであることを提言するものである。
 他地域の大規模な農業水利、耕地整備事業をみると大半が機械力による省力化と生産性の向上をねらって、用排水分離とほ場の整備を合せ行う大規模事業が多くある。
 用排水を分離すれば水の需要が高まる。高まってくる水の需要に十分答えるものはこの地域にない。
 明治初期の頃、荒川からの取水工事の計画があったと聞くが実現されていればこの地域の水田を潤す大工事になったであろう。
 畑地かんがいを行う時代にはいっている今日、農業の近代化が進めば進むほど水はフルに活用されるであろうが粕川の水は決してその要望を満たすほどの水量がないものとみられる。
     大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)11頁~15頁