嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

吉見町の元巣神社近況 1985年

2009年01月31日 | 吉見地域

   どうか円満に別れさせて “離婚の神様”繁盛記
     ひっそりと祈る姿哀れ 全員女性、宮司も戸惑い顔
 いよいよ結婚シーズン。出雲神様は、日本全国駆けずり回ってカップルの縁結びに大忙し。だがその陰で、一度結んだ縁(えにし)の糸をほぐす神様が、このところちょっとした評判になっている。「離婚」は、社会の価値観や意識の変化を色濃く反映し、このところ増加の一途をたどっているが、世間の目をのがれ、「どうか別れさせて下さい」と神に祈る姿は、いかにも哀れ。この離婚の神様繁盛記は、当の神様も複雑な思いでいることだろう。

 ▼祭神は女の神様
 話題の神様は、比企郡吉見町江綱一五〇一の元巣神社。創立は明らかではない。というのは今から二百四十余年前の寛保二年(1742)夏の大洪水で神社に伝わる古記録がすべて流失してしまったからだ。
 したがって言い伝えによるしかないが、大和の畝傍山の社(橿原神宮)から遷霊奉斎したのに始まり、室町時代の天文元年(1532)に藤原重清がこの地に下向し、当時、同地域はしばしば水害に見舞われ、庶民が難儀していたのをあわれんで、もろもろの災厄防除を祈願したという話が残っている。
 祭神は、啼沢女命(なきさわめのみこと)という女の神様。では、この神様が、今、なぜ離婚の神様として脚光を浴びているのだろうか。
 同神社の宮司である馬場福治さんは、「元巣という神社の名前に大いに関係があるのだと思います。このあたりには古くから、“元巣”を元の巣に戻ると解釈し、心に悩むことすべてが、元のいい状態に戻りますようにと祈願する“元巣信仰”があったようです。離婚は正にお互いが元の巣に戻ることですから…」という。元巣神社は、現在、ここにあるほか、奈良、静岡にある。いずれも離婚祈願が増えているのだろうか-。
 神社のわきで酒、プロパンガス、雑貨の販売をしている氏子総代の間下治男さんは「この地域の人たちは、結婚式に行く際は、元巣様の前を通りません。元に戻って夫婦別れしてしまうという言い伝えがある空です」という。昔は新婦が新郎の家へ行列を組んで嫁いで行った。どの行列も「元に戻っては大変」と神社の前をよけて、わざわざ遠回りをして行ったという。「いまも結婚式に行く際は、神社の前を通りませんよ」と間下さん。今なお地域の人たちの間には、“元巣信仰”が根強く生きている。

 ▼増える離婚件数
 こうした言い伝え、習慣が、いつの間にか元巣神社を“離婚の神様”の座に祭り上げてしまったのだろうか。
 馬場宮司は「どのくらいの祈願者があるか分かりません。一年に十人程度ですが、はっきりと離婚祈願にくる人がいます。世相の反映ですかね」という。それもここ数年のことという。
 県の人口動態調査では、昨年一年間に七千八百九十三組の夫婦が離婚した。これは一日に二一・六組、一時間六分四十六秒に一組の割合で夫婦が別れたことになる。五年前に比べると二五%、二十年前に比べると実に四・四倍に急増している。
 離婚件数が増えれば、トラブルも増える道理。昨年、浦和家庭裁判所に持ち込まれた離婚調停は千九百件、こちらも確実の増えている。いってみれば、話し合いがこじれ、ニッチもサッチもいかなくなり、やむを得ず裁判所へというケースだ。財産分与、慰謝料、離婚後の養育費問題など、そこにはさまざまな難問がある。
 県教育委員、弁護士で家裁の調停委員として数多くの離婚事件を扱っている伊藤政子さんは「さまざまな離婚を扱いながら賢い離婚の選択の難しさを痛感します。離婚の現実は予想外に厳しい」という。俗ないい方をすれば、確たる見通しも設計もなく、ひっつくのも早ければ、別れるのも早い-そんな風潮を反映して、離婚は増える一方だが、一つ一つのケースに足を踏み込めば、ドロドロしたものがあるのが当然のことだ。そこで神様の袖(そで)にすがることになる。

 ▼再び幸せの道を
 「この間も川越の人でしたが、円満に別れることができました、とお礼に来られた人がいました。離婚祈願といっても、お互いが再び幸せな道を歩むことができるようにというのが祈願の目的です。それにしても世相ですかね…」と馬場宮司は、元巣神社に祈願すれば、離婚できるという評判に戸惑い顔だ。
 祈願に来る人は、今のところ全員女性。家裁の調停申し立ても七四%強が妻からのもの。この数字は何を意味するのだろうか-。
     『埼玉新聞』1985年(昭和60)9月23日


坂東11番札所・岩殿山安楽寺 吉見観音

2009年01月27日 | 吉見地域

 『朝日新聞』(夕刊)2009年1月26日「街・メガロポリス・ひと」に「恋愛運アップ」若い女性殺到/埼玉・吉見観音/モデル紹介きっかけ 元日200メートルの列という見出しの記事がある。女性モデルの「御利益発言」をきっかけにインターネットで広まり、初詣の参拝客は例年の1.5倍にというもの。吉見観音は坂東11番の札所。1978年頃の巡礼の記事があったので以下紹介する。

   坂東札所 素通り“バス巡礼”
        一時は20軒近い茶店も

 秋の秩父路にお遍路さんの姿が目立つ。今年の秩父の札所は、十二年に一度の午歳(うまどし)総開帳が行われており、どこも例年にないにぎわいだ。庶民信仰の対象として人気を集めてきた札所巡りだが、県内には、この秩父の札所をはじめ、十四の霊場がある。
 この中の“名門コース”と言ったら坂東三十三カ所霊場だろう。最古の歴史を誇り、西国三十三カ所と並び称せられる伝統と格式はピカ一。県内にはこの札所が四カ所ある。このうち二カ所が比企郡内だ。拠点の十一番・岩殿山安楽寺を吉見町御所に訪ね、巡礼たちの足音に耳を傾けてみよう。
 吉見の観音さまとして知られる安楽寺は、なだらかに比企丘陵の中腹にあり、どっしりとした山門をくぐると、三メートルの露座の大仏と十八メートルの朱の三重塔(県重要文化財)を従えるように寄せ棟造りの本堂がデーンを構える。付近一帯は、御所の名の通り、かつて平治の乱で追われた頼朝の弟源範頼(のりより)が館を構えた由緒ある土地柄で、この本堂と三重塔も稚児僧(ちごそう)として同寺に入った範頼が後に建てたもの。「坂東札所は、一番の鎌倉の杉本寺から神奈川を上り、埼玉を回ると十三番が浅草の観音様で知られる金竜山浅草寺。埼玉の札所で足慣らしをした後、意気揚々と江戸に上ったのでしょう。当山の昔のにぎわいもたいしたものだったそうです」と同寺の二十二世住職、島本虔栄(けんえい)さん。
 三十三カ所の札所は、観音が庶民の願いにこたえて三十三通りに姿を変え難儀を救うという言い伝えから始まったと言われているが、江戸時代あたりから慰安旅行の性格が強まり、お伊勢参り同様、八っあん、熊さんタイプの“花よりダンゴ”型巡礼が大挙して繰り出すようになった。安楽寺の門前にも、こうした巡礼相手の店が軒を連ねるようになり、一時は二十軒近くにも達したという。山門のすぐそばに住む同所、自動車販売業小川和男さんは「家にある位牌(いはい)だけでもざっと十五代。中にはいかがわしい店もあったようですが、これも観音さまの引き合わせというもんでしょう。みんな商売熱心だったようです」という。毎年六月十八日のだんご祭りに、一軒の店で五、六俵のだんごを売りつくしたという。
 その門前のにぎわいも、明治に入るとぱったり。世相があわただしくなるにつれ、巡礼巡りどころの騒ぎではなくなってしまったのだろう。明治の末、最後まで残っていた一軒の茶店が店をたたむと、かつての門前町もただの郊外の農村に変わってしまった。現在、同所、国島喜一さんが昔のままの「どびん屋」の屋号で休憩所を開いているが、古寺巡礼ブームの昨今でもバスを連ねてのかけ足巡礼がほとんどとあって、門前は素通り。「昔は村の集まりでも、観音さまの世話の順に席順も決まっていたというほど、何事によらず観音さま中心の生活だったようですが、今はもう時々行事の手助けをする程度の付き合いで」と小川さん。かつて大仏を造るため、住民総出で黄銅鉱を掘り出した裏山では、銅に代わって土砂採りのショベルカーがうなりを上げている。

メモ:坂東札所は鎌倉時代、尼将軍政子が西国札所をまねて関東地方に設けたもので、鎌倉を中心にした中世の交通路に沿って、神奈川九、埼玉四、東京一、群馬二、栃木四、茨城六、千葉七と一都六県に分布している。県内の札所は、九番・都幾山慈光寺(都幾川村)【現・ときがわ町】、十番巌殿山正法寺(東松山市)、十一番安楽寺、十二番・華林山慈恩寺(岩槻市)【現・さいたま市岩槻区】の四カ所。
 比企地方には源氏関係の遺跡が多いが、これは範頼(のりより)から義世(よしよ)まで五代にわたり居住し、吉見氏を名乗ったため。義世は源氏を滅ぼした鎌倉幕府に反抗、永仁四年(1296)に執権・北条貞宗に殺された。
     『読売新聞』1978年(昭和53)9月24日 まちかど風土記106 鎌倉街道・吉見町


越畑の伊勢神宮参拝旅行 1941年

2009年01月22日 | 越畑

   伊勢神宮参拝旅行記
     団長:市川武市 副団長:久保賢三・船戸紋平
     期間:昭和十六年(1941)三月二日より十六日まで
 三月二日午后四時、東京駅で鳥羽行に乗車。三日朝、豊橋駅下車して電車に乗替、豊川稲荷に参拝。名古屋に行き名古屋城、熱田神宮に参拝し辨天閣に宿泊す。
Web1242_2 
 四日、名古屋より汽車で伊勢山田駅に下車し、外宮に参拝し猿田彦神社を経て電車で内宮に参拝し神楽を奉納し、二見ヶ浦の夫婦岩を見物し松島館に泊まる。
Web1241
 五日、奈良市に至り、春日神社、東大寺大仏殿に参拝し、橿原神宮に参拝。電車で高野に向い、ケーブルカーで山頂に登り、奥の院、弘法大師の霊廟に参拝して四国に向ふ。七日、多度津にて下船し、善通寺に参拝。琴平神社の六百六十五段の石段を登り、岡山市で泊まる。
Web1244
 八日、汽車で広島を経て厳島神社に参拝し記念写真を撮り宿泊す。九日、船で広島に戻り、周防錦帯橋を見学し、湯田湯泉で宿泊す。
Web1243
 十日、出雲大社、御崎神社に参拝し、出雲で泊まる。十一日、天の橋立見物、宿泊。十二日、京都着。二時、琵琶湖の近江八景を見物し、京都で泊り。十三日、市内の寺々を参拝。夜の十二時、京都駅で乗車、永平寺に向かふ。十四日、福井より電車で永平寺行に糊、本山参拝し、金沢市で兼六公園を見物して宿泊す。十五日、善光寺参詣。戸倉湯泉で旅の汗を流し泊る。十六日十二時乗車。五時、熊谷駅に着し、八時、帰宅。十五日間の伊勢参り旅行も無事に終る。(市川武市記)


小倉城阯 大塚仲太郎 1935年

2009年01月17日 | 小倉

 比企郡菅谷村なる武藏嵐山から西方を望むと、槻川を隔てゝ小がある。此處は玉川村大字田黑の小名小倉で、後方の丘陵に城阯がある。田黑は玉川と鎌形との間に介在してゐる地で、谷間の田の畔に民家が散在してゐるから田畔であつたらしく、墓碑に『杉田三右衞門姓法名實相院宗淸、産武州田畔村□於江州膳所城歳僅廿七、寛永十一年(1634)甲戌冬十二月十六日夜也』と記したのがある。
 城阯は新篇武藏風土記稿に『城蹟、北の方にて小名小倉の内にあり、遠山右衞門大夫光景が居城の蹟なりと云、四方二町許の地にして、東北の二方は都幾川・槻川の二流に臨み、西南は山に添ひて頗る要害の地なり。光景は隣村遠山村の遠山寺の開基檀越にして、天正十五年(1587)五月卒せし人なれば、爰に住せしも元龜天正の頃なるべし。』とあつて都幾川に臨んでゐるといふ説明は誤ってゐる。
 又土地では單に城山と呼んでゐるだけであるが、假りに小倉に在る故に小倉城城阯と名づけることゝした。
 城蹟のある丘陵は字城山で、小川町大字下里との境界にある。北は斷崖でその麓に槻川が廻つて居り、東に至つて鹽山太平山を刻んで鹽澤をなして東流し、菅谷館址附近で都幾川を合せて平野部を流れる。南は田黑の道現平と鹽山との間の隘路によつて鎌形に通じ、都幾川は更に其南方を劃して城の第一防禦線をなしてゐる。西は下里の寒澤德壽割谷のを眼下に眺め、丘陵續きなる靑山砦即ち割谷の城は指呼の間にあつて、相呼應してゐる。此の兩城間は山脈と川流との関係で、自らなる數箇の曲輪をなして背後の守備は容易である。略圖について説明すると、一・二・三・四・五・六は内曲輪で、七・八は外輪といへようと思ふ。
 繩張について見るに、丘陵の自然を利用しての築城であるから、後世發達した平城の樣に整つた形はして居ない。多角形的に曲輪が突出するが、曲輪の配列は同心圓的と見られる。地形に制せられ中央部は狹くなり、形状の上からは二部に分れてゐる。されど巨細に構造を觀察すると矢張り同一中心である。他との聯絡を斷つために穴堀を設けてある。穴堀には二種あつて一は行き貫けるもの一は行きつまるもので、敵をなやますに適う樣な構造である。而して凹部を設けてある所があり、犬走りのついてゐる所もある。小ながら虎口の發生も見え即ち桝形といふべきものである。中部なる狹隘部の緩斜面には一小城郭樣のものを築造して、守備の手薄を補つたかの如く見える。此の壘は江戸澤に臨んでゐる。江戸澤は井戸澤で山城にとつては、用水の多少が城の生命に深い關係があるので、その大切なる用水の井戸を見張り守備する役をつとめた壘であらう。
 城主は前に掲げた如く遠山光景と傳へる。風土記稿の遠山寺の條を見ると(前略)開山は遠山右衞門大夫光景と云。過去帳を見るに、當寺開基無外宗關居士此父政景也、天正八年(1580)三月廿三日開基桃雲宗見大居士遠山右衞門大夫藤原光景、天正十五年(1587)五月廿九日とあり。按に此二人ともに開基とのせ、宗關居士の下に此の父政景也とあるによれば、其實光景が父政景の追福のため當寺を草創して父を開基とせしを合せて二人共開基と記せるに似たり。』云々とある。小倉の大福寺には現に
  華樂院殿妙高大禪定尼 遠山衞門大夫藤原光影室華園
と記す位牌があるけれ共、遠山寺にも大福寺にも遠山氏の墳墓はない。只双方に寶篋印塔の頭部らしい破片があつて、何れも同質石材である。
 遠山氏は風土記のいふが如く甲斐守綱景の一族で北條氏に屬した人だらう。北條氏の武將で大永の頃、江戸城二の丸に遠山四郎兵衞と云ふ者があり、天文廿三年(1555)十月古河御所攻の先手として遠山丹波守直景が見え、永祿六年に遠山丹波同隼人、同九年北条氏政川越までの出陣の時遠山なる者、天正十年(1582)八月北條氏直甲州若御子出馬の砌遠山丹波守なるものが從つてゐる。氏政の將と親じゃ四郎左衞門が秩父橫瀬瀨白谷に居ることが秩父志に見え、政景光景の歿後天正十八年(1590)小田原攻の時、遠山左衞門佐景政は小田原に詰め、弟中村某甥遠山丹波守を留守せしめたが、遠山丹波守は江戸城を開いて豊臣方に降つてゐる。當時の戰記に政景・光景の名は出て來ないが、北條氏の家臣である事は小倉城の位置と名に景字を用ふる事とで想像出來る。
 當時松山城も鉢形城も北条氏に屬してゐる。此の二城をつなぐ中間に腰越・靑山の二砦があつた。關東古戰録に
「永祿五年(1562)小田原より松山には上田安礫齋同上重介朝廣を置き靑山腰越の砦と共に守らしむ」
とある。靑山の砦とは割谷城のことで、今でも靑山と下里との境にあつて、靑山に屬してゐる。けれ共風土記には下里の條にあつて、『山の上にて廻り三四丁許の地を云、古へ何人の住せしと云ふことを傳へず、』とある。此所は彼の地震から世界的に知られた仙元山の峰つゞきに築城したもので、玉川より小川を經て鉢形に通ずる道路を脚下に見下し、腰越砦を望み東に小倉城を眺め得る地で、一の連絡線上のものと考へられる。
 里人の傳説に、時代も人名も不明、或る時鹽山から石火矢を放たれ、城は燒かれて陥つたといふ。深谷記に是は御城燒れ遠山丹波殿とあるのを當てゝ考へると一致してゐるらしいが、實査したところでは燒かれた形跡は見當らない。地名陣場山は陣を布いた所と傳へる。長塚・菩提・佛原等は戰の痛ましい跡を語るに充分の名である。
 矢の口から矢崎に矢を射て戰つたとも云ふはたの澤は端の澤と書くが、實は旗の澤で旗を立てた地であり、矢尻からは鎧の小札が出たといふ、千騎澤は多數の兵の屯した處、おはやしは鬨をあげた所、鍛冶屋々敷は兵器製作所であつたといふ。
 天正十八年(1590)五月前田利家から玉川村の光明寺下した制札があることから考へて、此邊一體の城砦は松山・鉢形と共に落ちたものと思へる。當時の小倉城主は光景の子かと思ふが名は知れない。遠山にも小倉にも遠山氏の者がないところを見ると、落城の時他へ移つたものか又は姓を變へて土着したものか、遠山寺の鐘銘を見ると光景の家臣杉田吉兼といふ者大檀那として鑄造せし由が見える。杉田氏は今も遠山を始め鎌形・下里等にあるけれ共、光景の子孫の事は判らない。
 とにかく小倉城址は原形に近く、嵐山てふ遊覽地にも接してゐるから、保存して學術上の參考資料に供する値は十分あると思ふ。
 小倉城には關係はないが、小川から槻川に沿ふて小倉に至り、それから鎌形で都幾川を橫ぎり笛吹峠方面に行く道を鎌倉裏街道といつた口碑が殘つてゐる。彼の宗良親王の笛吹峠から退却せられた道は之によつたもので、太平記の上田山は植木山の誤だといふ。植木山は鎌形八幡の後方臺地の事である。眞僞は別として此の沿道には當時の靑石塔婆が相當多く殘つてゐる。
 小川から水境を經て菅谷に至る今の小川松山道も、小川から矢の口を通つて玉川村に入る小川越生道も、正保元祿两圖にはない、却つて奈良梨から小川に入る者が腰越に至つて、一方日影から古寺を經て安戸に行く道と連結してゐる。古老に聞いても小川から入間郡方面に出る者は、昔は下里から或は割谷を越え、或は小倉尾根を越えて玉川に出たのだといふ。是等を綜合して考へると宗良親王新田義宗等の通過説も一蹴出來ないと思ふ。
 (因に本研究は玉川小學校小鷹訓導の研究に俟つ所多きを謝す。)(昭和一〇・六・五)


町の今昔 嵐山町の円空仏 長島喜平

2009年01月14日 | 嵐山地域

   嵐山に円空仏三体 町文化財級の価値(『毎日新聞』1982年9月8日)

   おや珍しい円空仏 前鬼と後鬼お供 役行者
      嵐山の農家から発見(『読売新聞』〃9月8日)

   珍しい三体の円空仏 嵐山町の農家で発見
      前鬼と後鬼を従えた役行者 全国でもまれと評価(『埼玉新聞』〃9月9日)

   嵐山町の円空仏=役行者の三体仏=   長島喜平
 「円空仏ってなんですか」「役行者(えんのぎょうじゃ)とは、前鬼・後鬼とは、なんですか」とたびたび聞かれる。
 それは、九月八日と九日の新聞に、鎌形の簾藤甲子治さん宅にある円空仏が報道されたので、町の人々から尋ねられる。
 この仏像は三体が一組になり、役の行者の脇侍として、前鬼・後鬼を従えている。

  まず、円空とは?
 円空は何であるか、いつ、どこで生まれたのか、はっきりしない。
 元和か寛永の頃(1620年~1630年頃)の江戸時代初期に、美濃国中島郡中村(今の岐阜県羽島市)に生まれたという。
 二三歳で出家し、法隆寺や園城寺に学び、尾張国高田寺で密教をおさめ、修験道を行うじ、大峰山や白山などを修行して歩いた。
 円空は仏像を十二万体刻むことを発願し、中部・関東・東北へと遍歴の旅をしながら、仏像を刻んで歩いた。この円空が刻んだ仏像を円空仏という。
 円空仏の特徴は、一本の丸太の木を二つ割りが、四つ割りにしてナタやノミで、そのままの材に切り込みを入れる方法で刻み、仏像の鼻や胸・合掌・台座などは、素木の突起部などを、うまく利用して刻んだ。
 刻んだ仏像の背中(後側)は、割ったままになっているのが多いまことに素朴な仏像彫刻である。
 この円空が刻んだ、役の行者の三体像が、簾藤さん宅にある。
 それでは、役の行者とは、どんな人なのか。
 役の行者は、役の小角(おずぬ)といい、舒明天皇六年(634)に生まれたというが、はっきりしない。役の行者については、伝説的なことが、まことに多い。
 ただ続日本紀(しょくにほんぎ)によれば、大和の葛城山にこもって修行した呪術家であるという。役の行者が死んで約千年も後の江戸時代に、修験道がおおいに発展した頃、修験の始祖としてあがめられ、寛政十一年(1799)には、神変大菩薩という尊号を賜っている。
 山にこもり孔雀明王の呪法を行じ、鬼神を駆使したといい、更に多くの仏典を読み通じ、生駒山・熊野・大峰山・金峰山などの山野を歩き、神験をあらわしたという。
 こうして、役の行者が呪術に通じたので妬(ねた)まれ、ざん言により罪になったが、空中を飛びまわって捕らえることが出来なかったという。
 そこで、役の行者の母を捕らえて行者をおびきだし自首させ、伊豆の大島に流したという。
 しかし夜になると富士山まで飛んでいって修行したり、母のもとに行って孝養をつくしたという。
 こうしたことは、あまりに役の行者が修行してこの道をきわめたことが、伝説となったのであろう。
 役の行者の姿は、多くの場合、頭巾をかむり短い法衣を着、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に経巻を持ち、また腰をおろした形の像や絵が多い。
 なお、前鬼・後鬼を従えているが、前鬼は行者の左側にいて斧(おの)を持ち、後鬼は右にいて徳利を持っているのが普通であるが、この簾藤さん宅のものは、後鬼は何も持っていない。
 この二つの鬼は、もと生駒山の麓に住んでいた悪い夫婦鬼であったが、役の行者が捕らえて大峰山において使ったというが、どちらも改心して善い鬼になったという。
 円空は多くの仏像や、いろいろな像を刻んだ。
 埼玉県下では、春日部市・大宮市を中心に百三十二体、簾藤さん宅の三体を合わせて、百三十五体発見されているが、まだまだ発見されるかも知れない。
 円空仏という円空の刻んだ像は観音・薬師・阿弥陀・不動明王などが多く、役の行者もいくつかあるが、前鬼・後鬼を従えて三体そろったものは、恐らく全国でも簾藤さん宅のものだけだろう。
 それでは、なぜ簾藤さん宅にこの円空仏があるかというと、鎌形には一院二坊の修験(山伏)の家があった。
 一院とは、大行院の斎藤家、二坊とは桜井坊の簾藤家と石橋坊の矢野家があって、この三家にて鎌形八幡宮の別当をしていた。この三家は非常に古い家柄で、江戸時代以前にさかのぼると思われる。
 明治以前は、神官が神社の祭りをしていたとは限らない。修験者が神社を支配して、のりとではなく般若心経(はんにゃしんぎょう)をあげていた神社も多くあった。まさに神と仏がいっしょの神仏混淆(こんこう)の時代であった。
 この大行院と二坊は、今の春日部市、当時幸手領小淵村の不動院(現在はない)の霞下(配下)であった。(霞とはなわばりと考えたほうがよい。)
 この不動院は修験寺であって、京都聖護院直々の配下で、大先達といい、大行院はその下で準年行事職にあって、連絡などで度々不動院まで出向き、また桜井坊や石橋坊は、大行院の代りとして、小淵の不動院に出向いたことであろう。
 その時、桜井坊の当時の主が、手に入れて帰ったものであろう。
 新聞には、ひょっとすると桜井坊の当時の主が、円空に直接会って戴いてきたのかも知れないとあったが、そういう可能性は多分にあると思う。
 円空仏は相当発見されているがこの三体仏のようなものは、全国でも現在のところ類例がないと思うので、ぜひとも嵐山町の文化財に指定したいものである。
     『嵐山町報道』310号 1982年(昭和57)10月30日


峠のロマン “論争”尾を引く笛吹峠 1978年

2009年01月12日 | 将軍沢

 奥田地区の雑木林と田んぼにはさまれた道を、嵐山町に向かって登ると笛吹峠に出る、この道は、畠山重忠の菅谷館に向かう鎌倉街道の本道とされ、当時の面影を残している道。峠からは山間に東松山市が見え、後を振り返ると鳩山村を見渡せる。県内の鎌倉街道の実態調査をしている埼大福島正義教授が「あの景色のよさは何ともいえない」という峠だ。
 名前の由来は、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷(えぞ)地平定のためこの地を通ったとき、村人を苦しめている大蛇(じゃ)を退治し、笛を吹いて一休みしたため、とされている。このほかでは、後醍醐天皇の皇子の宗良親王が笛を吹いたためという説や「林を吹き抜ける風の音が笛をふいているように聞こえたため」という現実的な説もある。
 峠近くのはぐれ堂には、歯を黒く染めた大将首が埋めてあるとか、田村麻呂が悪竜を追いかけてきて、ここではぐれてしまった、という言い伝えが残っている。また、はぐれ堂と峠の中間にある十一人塚には、雨夜に人ダマが出るというので、驚いた村人が塚ごとに地蔵を建てて供養した-など、笛吹峠にはロマンと伝説が多い。
 この中でも圧巻は、南北朝時代の正平七年(1352)二月二十八日、峠をめぐって展開された宗良親王・新田義宗軍と足利尊氏軍の合戦だろう。すでに人見金井原(東京都府中、小金井市)の戦いで敗れている義宗軍は、峠を最後の防衛戦として、“鳥雲の陣”をもって尊氏軍と小手指原(所沢市)で激突した。昼から夕方までの約五時間にわたる激戦だったが、四倍もある尊氏軍にはかなわず、義宗軍は峠に軍を引く。夜になって義宗が敵陣を見るとかがり火が銀河のように列をなしている。峠の自軍を振り返る、月明りに見える螢(ほたる)火のようであったと(太平記)に記されている。
 宗良親王と義宗は、この峠の様子を見て最後の決戦をあきらめて落ちのびた。
 だが、太平記の作者は、ここで罪づくりなことをした。峠の名前を「笛吹」と書きながら、わざわざ「ウスイ」と送りがなを付けた【笛吹峠軍事うすひがたうげいくさのこと】。このため、峠をめぐって「笛吹峠」(ふえふきとうげ)と群馬県碓氷郡松井田町の「碓氷峠」(うすいとうげ)との地名論争が展開される。
 最初は碓氷説だった。新編武蔵風土記稿も、「武蔵国を前に越後信濃を後に」という太平記の記述をもとに碓氷峠と断定している。ところが、江戸末期地誌研究家斎藤鶴磯(さいとうかっき)が著書の武蔵野夜話で、「比企郡の笛吹峠」と主張、本格的な論争となった。鶴磯は地誌学者らしく距離による時間の面から「小手指原の戦いの行われたその日の夜に陣をしけるのは笛吹峠」とした。その後も何人もの学者や郷土史家がこの論争に参加、決着がつかないまま百五十年以上もたっている。
 亀井小学校長などを務めた小鷹健吾さんも「笛吹説」に挑戦した一人だ。小鷹さんは村の小字の地名と“鳥雲の陣”を結びつけるというユニークな方法をとった。
 大橋地区の御所谷は本陣、村名にもなった鳩山は旗山の転化、夜一山(石坂)、夜討久保(大豆戸)は夜討山、夜討窪の転化で戦いのあったところと推理した。これをまとめたのが郷土史家の清水四与次さん。寝たり起きたりの小鷹さんと何時間でも話し合ってはまとめたという。
 小鷹さんは、五十一年(1976)一月、脳いっ血のため八十一歳で亡くなった。清水さんの完成した原稿に目を通してから二十日ほど経ったころだった。
 この論争、小鷹さんの執念のような研究で現在のところ笛吹峠が有利といわれるが、碓氷峠の地元でも「ここであることは間違いなく、旧碓氷峠といわれる入山峠ではないかと研究されている」(松井田町教委)と、いうから決着が付くまでまだかなり時間がかかりそう。どちらに軍配が上がるにしても、この論争も、峠をめぐるロマンの一つといえそうだ。

メモ:笛吹峠を中心とする鎌倉街道は、約二キロにわたって当時の面影を残している。道幅は約五メートル。今年一月、測量を実施した福島教授は「鎌倉街道は、二メートルぐらいの幅とされていたが、実際は意外に広い」と驚く。実測はこのほか、嵐山町の重忠館跡西側の雑木林と小川町伊勢根の三か所を行った。福島教授はこの資料をもとに、発掘したい意向を持っている。調査や発掘はあくまでも、「江戸時代以前の物資や文化の流れに重要な役割を果たしたのに記録がない」ための学術的な記録保存が目的。が、「掘れば何か遺物が出てくるはず」というロマンもあるようだ。
     『読売新聞』1978年(昭和53)4月9日 まちかど風土記85 鎌倉街道・鳩山

参照:「雪見峠は笛吹峠」(http://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/rekisibukai/2008/08/post_e97f.html)。
「古老に聞く 笛吹峠の記念碑 福島愛作」(http://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/weblog/2008/08/post_552b.html)。
「古老に聞く 鎌倉街道記念碑 関根茂良」(http://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/weblog/2008/09/post_5651_1.html)。
「菅谷館跡西側の鎌倉街道跡に疑問符 1982年」(http://blog.goo.ne.jp/sekizoubutu/d/20081217)。
「発掘調査で菅谷館跡西側の鎌倉街道跡は堀跡と判明 1983年」(http://blog.goo.ne.jp/sekizoubutu/d/20081218)。


陳情書 埼玉県史蹟杉山城址を比企の行楽地に 1953年

2009年01月08日 | 七郷地区

   陳情書
 杉山城址は比企郡七郷村字杉山にありまして東上線武蔵嵐山驛の西北約二粁徒歩行程約三十分のところ川越児玉間の県道に近く標高九〇米の丘陵上二萬三千余坪の地域に土壘、空湟、歴然として儼存し、戦国時代山城の築城形式を完全に今日に遺すものとして学問上の價値を認められ昭和二十一年四月(1946)県の史蹟として指定されました。更に昨年度に於て施設費の一部を県より交附せられ村及地元有志の協力により示標・傍示標・説明碑其の他県の指示による施設を致したのであります
 當城址に関する史實を学問上明確ならしむべき権威ある史料はいまだ遺憾ながら発見せられて居りませんが近郷の私人宅に襲蔵せる系譜古記録や当所積善寺椽起或は当地に存する口碑、傳説、地名等によりおぼろげながら推定するところによりますと、その起源は遠く奈良時代に比企十郎重成の居城たり平安時代には將門記にある武蔵介経基の比企郡狭服山の城に擬する説一部にあり更にこれに関する傳説はふるくより当地に存し治承の頃小高隼人貞次というものゝ居城たりしことは古記録に見え積善寺椽起にも比企小高両氏の名が記されて居ります。 又他には金子十郎家忠の築城説もあり戦国時代に入りて杉山主水(松山城上田闇独斉の家臣)の居城説があります。惟うに当城の位置は西南市野川を隔てゝ鎌倉街道を瞰下する形勝要害の地を占め、松山、菅谷、鉢形、各城の間にあり、小規模ながら古来各時代に於て重要なる一據点たりしことは想像に難くありません。從って■其の主を替えながら時代相應の改修整備が施され今日に遺存せられたものでありましょう。
 今は城址は殆んど雑木林に蔽われ木丸阯に金刀比羅祠を祀り又傳説のある井戸阯がるのみでありますが、その眺望は極めてよろしく婦人児童にても容易に登ることが出来ます。
 又附近にかの徳川時代の狂歌師として有名な元の杢阿弥の生家があり城址東方四百米のところには薬師堂があってその天井には元の杢阿弥の雄渾なる筆による八方睨の竜もあります。又城址の東南につゞく丘陵上には十三塚と呼ばれる処があり其の下の溪間には三十三枚田の奇景もあります。改修工事の成った市野川がこの丘陵の裾を洗うところは或はすみれ咲くなだらかな野原がひらけ、或は河幅廣く流れゆるやかに魚族を追うに適するところもあり、或は数十米の断崖の下急端に或は深渊の景色も又捨てられません。これは一日のコースとして平凡のようですが、地形は変化に富み森林原野田園河原等の景趣豊かに史蹟の探究、動植物の採集、或は家族づれの静かな一日の行楽地としてはまことに好適の地であると思われます。
 今回松山町を中心とする比企観光地区設定の挙あると承りまして是非当杉山城址をもこれに包含せしむるよう御配慮を懇願いたす次第であるます。
  昭和二十八年十月一日
               比企郡七郷村長   杉田政之助
          埼玉県史蹟杉山城址保存会々長 初雁不二彦


関越自動車道東松山-花園間インターチェンジ新設促進期成同盟会発足 1985年

2009年01月02日 | 嵐山地域

   関越道に新インタを
     小川町など九市町村 来月にも本格陳情

 今秋にも全線開通する関越自動車道(練馬-新潟)の東松山-花園インタ間に、新たなインタ建設を求める期成同盟会が発足、五月にも日本道路公団、建設省などへの本格的陳情を始める。
 期成同盟会には、比企郡小川町、嵐山町、熊谷市など近隣九市町村が加盟、小川町の松本繁夫町長が会長になっている。インタ建設地は、小川、嵐山境で、県道熊谷小川秩父線との交差する地点。東松山-花園間は十六・七キロあり、練馬-前橋間では最長。近隣市町村では東松山、花園両インタへ通じる道路が不便なため、熱望している。熊谷市でも、荒川対岸の南部開発構想にとってプラスと判断して加わった。
 しかし、花園インタへの連絡道建設を長期構想としている深谷市は、工業団地への工場誘致で便利になる熊谷市に後れを取ることになるなどから難色を示し、同盟会には加わらなかった。
 今年度は九市町村で二十七万五千円の予算を計上。額は少ないが、食事代などは自前で持つことにして誘致運動を展開していく。
     『朝日新聞』1985年(昭和60)4月18日。嵐山小川インターチェンジは2004年(平成16)3月27日に供用開始。


杉山・大野良如翁墓誌 1931年

2009年01月01日 | 杉山

 市野川に沿って越畑に北上する町道端に「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」のヒゲ題目(だいもく)の七文字が刻まれた大きな石碑がある。この題目塔の裏に池上本門寺78世日暉上人が書いた「大野良如翁略伝」がある。上人は妙法山蓮花寺22世でもある。この題目塔については、大野良如翁略伝(http://blog.livedoor.jp/rekisibukai/archives/230914.html)参照。
 大野良如翁は大里郡御正新田(江南町、現熊谷市)に1844年(弘化元)に生まれ、幼名は利三郎、後に太郎兵衛と称した。1865年(慶応元)、杉山村(現嵐山町杉山)の大野卯之吉の養子となる。長じて失明、法華経の教を信じ、忍町(現行田市)の妙法山蓮花寺の21世日教上人の弟子となる。日教上人は祈祷をやっていたので、祈願の人々が参籠(おこもり)等もしていた。
 1924年(大正13)、自宅に日蓮上人像を納めた祖師堂を建てる。旧暦10月12日の「おそっさま」の祭典は、お店が出るほどの賑わいであったという。養子のふくさん(福三郎)・はつさん夫婦が熱心で「なんみょうさん」と呼ばれていた。大野太郎兵衛の墓石は、1926年(大正15)3月、福三郎が建てている。その墓誌には、次のようにある。

       灋蓮院華臺心如居士
     居士幼名利三郎後太郎兵衛ト称ス大里郡御正村新田秋山礒
     五郎次男也弘化元年四月ヲ以テ生ル慶應元年二月大野夘之
     吉養子トナリ家名相続ス居士壮年失明ノ結果深ク法華ノ教
     ヲ信シ明治十五年三月北埼玉郡忍町蓮華寺日教上人ニ随テ
     薙髪シ良如ト号ス尓来日夜修行ノ功徳弘大ニシテ崇拜ノ信
     徒雲集シ声望隆 遠近ニ聞ユ大正十三年四月祖師堂ヲ建立
     シ立正大師ノ尊像ヲ安置ス抑此尊像ハ日蓮宗管長身延山七
     十四世日鑑上人ノ開眼祈願スル所也嗚呼大ナル哉居士ノ徳
     仰ケハ蒼空ノ如ク俯セハ大海ノ如シ窮マル事ナク又尽クル
     事ナシ矣     昭和六年一月吉晨 琴城関廣壽撰并書