嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

花だより20 安養寺の桜 大蔵 1966年

2009年04月02日 | 大蔵

 安養寺は嘗(かつ)て小説家の今東光が住職となった寺である。今氏は二回程来たけれど、どうしたわけかやめてしまって、今度は平泉の中尊寺という大な寺の貫主となった。桜は寺をめぐって咲いているが、近くの飼育所の建物があまりに立派なので寂しげである。
     『菅谷村報道』167号 1966年(昭和41)4月30日

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嵐山町の石仏18 石造物の分類とその概要16 万霊塔・四十九院塔

2009年03月18日 | 大蔵

・万霊塔(ばんれいとう)
 万霊塔はこの世に存在する、生命あるもの全ての霊を集め、この塔を回向することで万霊を供養する目的で建てられたものである。万霊塔の塔型は一定ではなく、銘文も様々である。銘文の例としては、三界萬霊塔・三界萬霊等・無縁三界萬霊塔・有縁無縁三界萬霊塔・有縁無縁萬霊塔などが見られる。
 万霊塔は通常、寺院の境内や墓地に造立されている。嵐山町内において確認したものは計17基で造立年代は比較的新しく、初出は1857年(安政4)年で鎌形班渓寺墓地内にある。また最も新しい造立は1995年(平成7)で、年代不明のものも4基ある。材質は緑泥石片岩が大半で、他には安山岩、花崗岩が見られた。

・四十九院塔(しじゅうくいんとう)
 四十九院塔は弥勒信仰による造立である。弥勒菩薩が住むとされる兜率天にある美しい宮殿が四十九院である。弥勒菩薩は釈迦入滅の五十六億七千万年後にこの世へ下生して如来となり、釈迦如来の救いにもれた衆生を救済するという未来仏である。このことが「弥勒上生経」という経典に説かれており、現在弥勒は四十九院で強い誓いのもと、懸命に修行しているのだという。これにならって仏教の中には、死者が北方にある弥勒浄土に生まれ変わるよう願って、四十九本の塔婆に四十九の院名と種子を書いて墓石の周囲に立てる方法が葬儀に採り入れられた。さらに有力大名の間ではこれが変化し、四十九院堂を建てるようになった。こうした葬儀形式を受け継いで、室町末期から江戸初期には簡略化されたものが庶民にも広まった。これが石祠の四十九院塔である。石祠の正面には六本、左右面にそれぞれ十四本づつ、後面に十五本の合計四十九本の塔婆が彫刻され、真言宗と天台宗の寺院墓地に見られる。
 嵐山町には菅谷の個人墓地に1祠、大蔵の安養寺(天台宗)墓地に2祠があるが、いずれも摩滅が著しく、銘文や四十九の塔婆の彫刻は明確でない。
※嵐山町博物誌調査報告第8集『嵐山町の石造物1』(嵐山町教育委員会発行、2003年3月)掲載の島﨑守男「嵐山町の石仏造立の背景」22頁


嵐山町の石仏14 石造物の分類とその概要12 七福神

2009年03月14日 | 大蔵

・七福神(しちふくじん)
 弁財天・大黒天・毘沙門天・寿老人・福禄寿・布袋・恵比寿をまとめて「七福神」という。仏教の神や神道の神などが混在する、いわゆる神仏混成で日本独自の民間信仰である。嵐山町には石造物としてまとまった七福神は見当たらず、近世に造立されたものは仏教に由来する大黒天・弁財天・毘沙門天だけであったと考えられる。三天とも豊かな収穫と平和を維持するという観点から重要視されたものであろう。なお、これら三天についてはそれぞれ天部の部分でくわしく解説した。
 残る七福神のうち寿老人・福禄寿・布袋の三つは中国から移入したものである。福禄寿と寿老人はもともと中国の道教で信仰されていた仙人であり、布袋は運命と天候を予知する神で、もとは中国に実在した僧侶であるといわれている。大きな腹を突き出し、袋に寄りかかり笑う像容で、これは寛容な心を表わしている。嵐山町には菅谷の東昌寺に一基、比較的最近の造立と思われる年代不詳の布袋像があり、寿老人・福禄寿の石造物については確認されていない。
 七福神の中で、恵比寿だけは日本神話の神であり、正月や春と秋の「えびす講」で祀られている。福利を招き、商売繁盛の神として商人や漁民に信仰されてきた。その像容は釣り竿と鯛を手にしたものである。また恵比寿と大黒は七福神の中心的な存在で、常に筆頭に位置している。二神は一対となって信仰される場合が多く、かつては食の神として、小さな木像が台所の棚などに祀られていた。嵐山町には恵比寿の石造物は最近造立されたもので、大蔵の大行院に像塔が1基ある。

※嵐山町博物誌調査報告第8集『嵐山町の石造物1』(嵐山町教育委員会発行、2003年3月)掲載の島﨑守男「嵐山町の石仏造立の背景」20頁


都幾川の学校橋管理は大字大蔵で 金井示夫 1952年

2009年02月13日 | 大蔵

 皆様御承知の通り大蔵は都幾川の南に位し、学校橋の管理をして居ります。毎年村の補助を戴いて居りますが、大字は約百戸近い戸数で、これが、上(かみ)、下(しも)、堀(ほり。掘ノ内)、の三組に分かれ嵐の日には組に当たった人達は学校橋の心配で皆苦労して居るのです。悪日は河原に出動し、昼夜の別なく焚火(たきび)をして警備につくのです。
 万一流出の場合には係に当った組は弁当を腰に付け、一日中河の両岸を二組に別れて探すのですが組の者で見付からなかった場合は二日目は字中総出で見付けるのです。遠くは川越近在の釘奈司【現・川島町釘無】といふ約六里もある所まで行った事もありました。
 又橋を上げた方には多少の謝礼を致して居ります。村の補助を一万五千円戴いても字からも又相当なかかりがします。橋板一枚作るにも約二千円の金がかかります。橋板は二十数枚の準備がしてあります。以上は橋についてのあらましですが、村の皆様に当字の苦難をおしらせした次第です。
     『菅谷村報道』19号 1952年(昭和27)2月5日


大蔵・向徳寺 宝治三年銘の善光寺式三尊の発見 1931年

2009年02月08日 | 大蔵

   宝治三年銘の慈光寺式三尊の発見
 比企郡菅谷村【嵐山町】大字大蔵の遺る鎌倉時代館阯調査の為め、柴田顧問【柴田常恵】、稲村監事【稲村坦元】には四月二十四日同地へ出張調査せられる所あったが、其の際同地向徳寺(こうとくじ)に於て計らずも、鋳銅の善光寺式阿弥陀三尊を発見した。これは本堂の阿弥陀座像の胎内に蔵られていたもので、中の尊丈け一尺九寸、両脇の二尊丈け一尺三寸五分であって、阿弥陀の台座に「武州小代奉治鋳檀那、父栄尊、母西阿、息西文、宝治三乙酉(1249)二月八日」の銘文を刻し、此の種善光寺式三尊として既に知られたものの中ではもっとも古き銘記を有するものであって、軈(やが)ては国宝に列せらるべき名品である。
     『埼玉史談』2巻5号 1931年(昭和6)5月


国重要文化財 大蔵向徳寺の阿弥陀三尊 長島喜平 1977年

2009年02月04日 | 大蔵

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 長野の善光寺へ行ったことがありますか。
 善光寺の本尊は阿弥陀(あみだ)さまです。
 阿弥陀さまの両脇に二体の仏さまが立ち、合せて三体を、一般に「善光寺式阿弥陀三尊」と呼んでいます。写真の大蔵向徳寺の阿弥陀三尊は、善光寺の阿弥陀三尊の形式によるものです。(ただ善光寺の阿弥陀様は秘仏になっています。)
 この向徳寺の阿弥陀三尊は、形が非常によく整って、美しく立派なもので、更に紀念銘(宝治三年)が刻まれ、国では大切なものとして重要文化財に指定しています。
 三尊の中央が阿弥陀さまで、中央にいるので中尊といい、立っている仏像(向徳寺のもの)を立像といい、座っている仏像を座像といいます。
 両脇にいる仏を脇侍(わきじ)といい、左が観音菩薩で、右が勢至菩薩です。
 中央の阿弥陀様から話します。阿弥陀様の手を見てください。
 右の掌を胸のわきで開いて、そとを向けています。
 これは施無畏印(せむいいん)という印相(いんぞう)(手の形で)、仏さまで人間のいろいろな恐怖をこの手でとどめ、救うという手の形であります。
 左手をさげて小指と無名指(薬指)を曲げています。
 昔、飛鳥時代の頃には、この手の形式は釈迦如来(しゃかにょらい)であったのですが、どうもこの手の印相(手の形)を阿弥陀さまの手の形であるとは、はっきりきめられなかったのです。
 ところが、鎌倉時代以降に浄土教が発達し、善光寺の仏像のように、中尊を阿弥陀如来とし、両脇に観音と勢至をはべらせて阿弥陀三尊というようになってしまったのです。
 この向徳寺の阿弥陀さまの台座は、下の方のハスの花が下を向き、これを反花(はんげ)といい、その上はハスの花のしんの雄しべが細かく刻まれています。
 この台の反花に「武州小台奉治鋳檀那父栄尊母西阿息西文、宝治三乙酉二月八日」と刻まれています。
 小代とは、今の東松山市の正代(しょうだい)で、この地で宝治三年(1249)に造られたものです。
 檀那(檀家または奉納者)は、父、母、息子の三人で、来世のためにこの寺へ奉納したものと思われます。
 果して、納めた寺がこの向徳寺であったかどうかわかりません。
 ただ、向徳寺内の墓地に板碑(青石塔婆)が何枚もあります。……
 青石塔婆は今の板でつくる塔婆(とうば)と同じことで、その青石の塔婆に、梵字で阿弥陀三尊が刻まれ、また「南無阿弥陀仏」の六字が刻まれ、これから考え、この頃から浄土宗の寺が、ここにあったと思われます。
 向徳寺は時宗(じしゅう)で、時宗は浄土宗の一派で、六時往生宗などといい、一日ぢゅう(六時)「南無阿弥陀仏」と唱える宗派です。
 また、向徳寺は、火災にあったものか、この阿弥陀さまの頭部を見ると、ややとけています。
 ですから寺は建物も新しいし、昔のことは殆んどわかりません。
 まあ、このようなことから、多分、この阿弥陀三尊は、もともとこの寺にあったものでしょう。
 なお、つけ加えますが、左は観音さまで、多くの場合、頭の頂に小さな化仏(けぶつ・仏像)が、ほってあり、右者勢至さまで、これは宝瓶(ほうべい・とつくりのこと)がほってあります。
 機会がありましたら、この観音さまと勢至さまのことを書くことにします。
     『嵐山町報道』267号 1977年(昭和52)8月1日


大蔵館の通用門を発掘 1983

2008年12月25日 | 大蔵

   大蔵館跡 通用門を発掘
     町道 鎌倉街道裏付け

 嵐山町教育委員会は、県指定史跡の大蔵館跡東側約三百平方メートルを発掘、幅四メートルの切れ目がある土塁二か所と堀を発見した。この土塁の部分は、大蔵館の通用門だったと推測できるという。
 発掘は、現在ある農道が幅四メートル、長さ百五十メートルの町道に拡幅されることに伴って行われた。
 大蔵館は、都幾川沿いの丘陵地にあり、広さ約三・四ヘクタール。木曽義仲の父、源義賢の館と伝えられている。義賢は、平安時代末期の久寿二年(一一五五)に源義平に攻められて滅び、当時二歳だった木曽義仲は、斉藤別当実盛によって木曽へ逃れた。
 こうした、貴重な史跡のため、発掘調査して後世に残すことにしたものだが、大蔵館の表玄関の通用門が発見されたことで、同町教委では、国立婦人教育会館わきから鎌倉街道の笛吹峠を通って鳩山町へ抜ける町道が鎌倉街道だった、という見方を固めている。今後、調査を続け、報告書をまとめ裏付けることにしている。
     『読売新聞』1984年(昭和59)1月8日