嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

町の今昔 吉田宗心寺の複合塔婆について 長島喜平 1968年

2010年12月16日 | 吉田

 吉田の曹同宗三休山宗心寺(森下道隆禅師住職)に昭和三四年(1959)十一月二十日嵐山町より指定された文化財の青石塔婆(板碑)がある。
 これは最近まで宗心寺所管の専蔵院跡の草群の中に倒れていたものを、町の文化財保護委員会の協議により、町当局に保存を進言し宗心寺境内に運びこみ、風化を防ぐため覆いをしたものである。
 塔婆とは、梵語でスチューパ(stupa)という。塔というと五重塔のような高い建物をさし、これは仏舎利(お釈迦さまの骨つぼ)を安置するが、一般に塔婆と言うと、法要や施餓鬼のとき、細長い木板に梵字と造立の趣旨、造立者を記し墓におさめる。
 塔婆は、まだ卒塔婆ともいい、平家物語などには卒塔婆流しとして既にあらわれ、浄土宗発展と共に盛んに立てられるようになった。
 ここで言う塔婆とは青石塔婆または板碑(いたび)と呼び、木片でなく青石を使用している。
 青石とは正確には緑泥片岩といい、小川町下里から産出するので下里石と言ったり、秩父の野上付近より更に多く産出するので、秩父青石と言い、荒川を利用して関東一円に運ばれて利用された。
この石は板状にはがれる性状があるので、塔婆や記念碑・庚申塔・墓標などに利用され、現今では建築用に門や玄関の装飾などに利用されている。
青石塔婆は、要するに墓石ではなく、追善供養の法要や更に逆修という理由により造立され、逆修とは死後の冥福を生前に祈り、これには、自己および自分夫婦のために造立されたものが多い。
さて、この板碑を複合塔婆と称しているのは、文化財審議に提出された時、既に提出者がその名称を使用していたのが正式になった。
 一名弥陀三尊来迎板碑で、中央に阿弥陀様と、その両脇に向って右に観音、左に勢至が線刻され、更に上部サンスクリット(梵字)にてキリーク(阿弥陀)が刻され現物は欠損しているが、ほぼ察せられる。このように弥陀の種子(梵字)と図像を組合わせたので、複合塔婆とよんだのである。
 造立年は文永七年八月(1270)で鎌倉時代にて、所謂元寇と言って元の大軍が日本へ押し寄せてきた年より五年前の造立される。
 阿弥陀信仰は平安末期に法然の浄土宗によって盛んになり、時代が進むにつれ、浄土宗のみならず一般的に阿弥陀信仰は隆盛を極わめこうした板碑にまで、当時の信仰を物語っている。なお、この塔婆(板碑)高さは一三四センチ、幅四六センチあり阿弥陀様の線刻はすぐれ、あまり例がないので、工芸美術品としても価値が高い。
 更に付記するが、関東には板碑約一万枚残り、嵐山町としては一五七枚あげられている。
 また鎌倉時代頃より造立され、本県では、小原の大沼公園にある嘉禄二年(1226)のものが一番古く、嵐山町では、鎌形の簾藤甲子治氏蔵の弘長二年(1262)のものが一番古いとされ、この宗心寺板碑(1270)は、それより八年後のものである。
 最近文化財の消滅が宅地造成や工業団地等により甚だしい折から、嵐山町で宗心寺板碑の保存に保護の手をさしのべたのことは、まことに意義深いことであり、一般町民の方々にも、板碑と限らず、史蹟や民具等に至るまで、大切に保存することにつとめていただきたい。
(付記)「嵐山町の文化財と観光」(昭四二、四月町制施行記念)を、お持ちの方は、複合塔婆の項、泉蔵院、室町を鎌倉に訂正してください。(筆者:嵐山町観光協会理事)

   『嵐山町報道』187号 1968年(昭和43)8月25日


吉田-152 谷戸沼改修記念碑 1967年

2010年02月12日 | 吉田

番号:吉152
分類:改修記念碑
形態:
場所:字宝蔵谷、谷戸沼畔
年代:1967年(昭和42)
寸法:111×51×17
石質:
正面:昭和四十二年三月竣工/ 谷戸沼改修記念碑/ 総工費二〇九万七千円/ 内訳 県補助金八五万三千円/村補助金一九万七千円/地元負担金一〇四万七千円
左面:
右面:
裏面:沼下耕作者/ 世話人 島田忠治/ 仝 仝 仲助/ 仝 中島千代種/ 仝 前田宗次/ 仝 仝 一郎/ 仝 前井範/ 仝 藤野長助/   前田馬作/ 中島唯輔/ 横瀬弥太郎/ 島田善作/ 仝 茂明/ 仝 広次/馬場葆一 仝 清/栗原馬作/ 仝 作次郎/福島茂雄/ 藤野近吾 仝 定良/ 仝 央中/ 仝 邦夫/ 仝 小沢猪吉/福島海蔵 仝 勝次郎/藤野勘次/ 松本喜一/  工事施工者東松山市関中組/ 石工寄居町今市吉田石材店
台石:
備考:完形。