嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

古老に聞く 八幡神社の手水鉢 長島美太郎

2008年11月02日 | 鎌形

 木曽義仲が産湯に使ったという木曾殿清水は、今の班渓寺の後方、竹藪の中の湧水らしい。義仲が生まれた場所はこの竹藪一帯の地域いはゆる木曾殿屋敷であると伝えられているから、七ヶ所の清水の宗家は、さしづめ、木曾殿清水となるわけである。然し今では、八幡神社境内の清水が産湯清水の名を独占し、他の清水は忘れられた形になっている。
 この産湯清水が八幡神社手水舎の水である。神域に相応しい、清泉がこんこんとして、四季につきない。舎内に備えた、手水鉢の由来について、一つの伝説がある。これを長島美太郎さんにきいた。手水鉢は大体縦五尺横2尺五寸高さ三尺程の立方体の巨石をくり抜いて、水を貯えている。さて、昔、この巨石を川越に運搬しようとして、大八車を引いて、八幡様の南側の道路を通りかゝった一行があった。この石は玉川村田黒の八木原某氏の裏山から採ったものらしい。切り出したあとが、、現在も、手水鉢の形に残っているという。田黒を出た大八車は、宗信寺前の今の県道から山下良作氏の裏を通り、山下由次氏の裏の坂道を下って古い宮下橋の辺を渡り、川越に向ふ予定であったようである。現在この道路は、狭小な村道となって、人車の往来も希であるが、当時はこれが鎌形の南北を結ぶ幹線道路であったらしい。
 さて、車が山下由次さんの裏の坂道にかゝると、不思議が起った。今まで動いていた車がピタリと止まって動かない。下り坂であるから一層不思議である。ここは丁度八幡神社社殿南側に当る。車を前にして、人々は考えた。「これは多分八幡様がこの石を欲しいといふことであらう。この石は八幡様に献納しようではないか」といふことに評議が決した。斯くして八幡神社の手水鉢が供えられたのだという。石の表側に「享保十五歳庚戌正月吉日、川越南町西村多右門」に文字が刻まれている外、一切の説明がない。川越の西村というふ人物が何者であるかこれも不明、苗字を名乗っているところを見れば、士分に属する者であらうか。奉献奉納、願主等の文字も見えない。成程前述のような伝説の生まれる条件は揃っているのである。
 然し、石の表に刻まれた年代は、徳川吉宗の享保十五年(1730)である。二百三〇年の昔に当るが、このような神怪な伝説を生むにはこれでは時代が新しすぎる。これは草木もことごとくものを言い神々も人間と同じような生活をしていると考へた神人未分の時代の説話の類型に属する。太古の世には、神々が、一人の女性を、又一つの宝を争って闘はれたと伝える説話がしばしば存するが、これに似ている。思うに何処かに存するこの種の古い伝説が、何かの動機でこの手水鉢に結びついたものではなからうか。つまり神様が、それが欲しくそれを手に入れるため不思議を起こしたという伝説が他にあって、それが何かの動機でこの手水鉢に結びつきその由来として語られるようになったと思う。何かの動機それは想像に苦しむが、要するに域埋に存する個々の事物はすべて、神の所属であり、従って神の支配に相応しいような古い歴史や伝統を持っていることが当然であると人々は考えていた。その人々の心、期待に投じてこの伝説がおこったと考えることはさして無理ではないと思う。長島美太郎氏の話は如上の推論を裏書きする。大八車が動かなくなったことは事実であらう。特に宮下橋の附近、都幾川を徒歩渡りすることは難事である。巨石の運搬は、この附近で手に余ったであろう。
 長島家の伝えでは、同氏の祖先が実はこの石を、時の金額五両で買いとって、これを八幡神社に奉納したのだという。そのため、その後毎年九月十三日例祭の前日には必ず長島家でこの手水鉢を掃除し桶を新しくとり替えて来た。この古い慣例は近年になって、青年団の奉仕に移り、更に今はお庭草の当番の仕事に変った。
 長島家が鎌形村領主金田氏の代官として、この地を支配していたことは史上に明らかである。従って長島家の伝えはおそらく正確な事実であらう。よってこれに基いて、手水鉢伝説の起原を考えてみたのである。

         <写真・鎌形八幡神社の手水鉢>

     『菅谷村報道』142号(1963年4月25日)


古老に聞く 平地蔵 中島和一郎

2008年11月02日 | 鎌形

 千手堂から槻川橋を渡り鎌形地内に入ると、県道、武蔵嵐山駅玉川線が、紆余曲折して蜿(えん)々二粁玉川村境に続いている。曲りくねった道路は改良工事からとり残された昔ながらの古い姿である。
 そしてその路傍には、古い時代の遺物、遺跡――廃寺址、供養塚、榎の古木、墓地、灯籠、講碑、地蔵尊――が数多く存在して、往来人士の懐古的興味をそそる。平地蔵は、その遺物の一つである。二百五十余年昔からこの路傍に佇んで、世の変転をよそに、ひたすら衆生救済の菩薩道を行じてござるのである。この地蔵さまは今、鎌形山際組十八軒の人達で管理している。一ヶ月交替で、二人一組が当番となり毎月二十三日の御縁日には、当番が、堂の内外を清掃し、扉を開いて、参拝者を迎える。中島和一郎さんは、鎌形老人会の会長で、村の古老である。中島さんに、平地蔵の由来をきいた。何時の頃、誰が安置したもののかよく分らないが平地蔵というのは、仏体が平たい下里石で出来ているからで、比羅地蔵とも書き又、ベッタラ地蔵ともいったという。刻んでいる中に二つに割れたのだと伝えられている。古くから毎年旧六月二十三日、地蔵会を営み山際組で団子を作って尊前に供へ、お日待をした。堂の敷地六坪は、簾藤国平氏の所有地になっているので、簾藤氏からも必ず白米一升宛の寄進があったといふ。然しこの古い行事も終戦と共に絶えた。この話をきいた翌朝、中島さんがわざわざ訪れて、丁度当番で鍵を与いっている。扉を開けてやるから、よく見たらよい。次藤様の後の方に何か書いてあるから、由緒が判るかもしれない、といって呉れた。厚意を謝して早速、開扉を願い中島さんと一緒に背後の文字を読んだ。曰く、「毎日最朝入諸定、入諸地獄令難苦、無仏世界度衆生今世後世能引導」の七言の偈が四行に刻まれている。何のことか素人には分らない。千手院浅見和尚に読解して貰った。これは地蔵さまの功徳を礼讃したものだという。この偈の下方に「干時宝永六己丑天初冬吉日、愛宕信心施主二拾三人合力奉造立之、武州比企郡鎌形村」とある。これによって始めて建立の年が今から二百五十五年前の宝永六年(1709)(五代将軍綱吉死去の年。富士山の噴火は宝永四年)であったこと、建立したのは鎌形の愛宕信者二十三名であることが明かとなった。
 愛宕信仰は、愛宕の神の信仰で、これは火の守護神として、諸国に多く祀られている。「かぐつちのかみ」又は「火産霊神」のことでいざなみの尊がこの神を生み、体を焼かれて神さりましたと古事記に伝へている。それで仇子(あだご)熱子(あたご)といったという。愛宕信心二十三人と明記してあるから、この地蔵さまが始め火災除けの目的で建立されたことは明かである。然しその後、子育地蔵、いぼとり地蔵等各種災疫の救済者として尊信されるようになった。これは、「地蔵本願経」中に説かれている地蔵の十益に基くもので、その御利益は、(一)土地を豊饒にし、(二)家宅を永安にし、(三)先亡者は天に生れ、(四)現存者は寿を益し、(五)要求を満足させ、(六)水火の災をなくし、(七)虚妄をとり除き、(八)悪い夢を見ないようにし、(九)出入を守護し、(十)よいことの原因に沢山逢えるようにする。
 このような功徳があるのであるから、この地蔵さまが多方面からの信仰をうけるようになったのは、自然のなり行きである。ことに、地蔵さまは、もとある小国の王様で、「若し先ず罪苦を度して是をして安楽ならしめ、菩提に至ることを得しめずんば、我れ終に未だ成仏を願はず」と発願したという。つまり、まず自ら仏になって、それから衆生を救ってやるというのではなく、衆生を救うまでは、自分は仏にならぬ、衆生と一つになって衆生を救いあげるのだという意味である。衆生から言うなら実に有難い民衆的な菩薩である。衆生に親しまれるのは当然である。
 大きな母親が、あどけない子供と一緒になって、本気で、怒ったり泣いたり笑ったりしている。父親から見ると馬鹿々々しい。その馬鹿々々ことを本気でやっている母親の方が子供にはなつかしい。衆生と共に一緒に救われようとする地蔵さまはこの母親のようななつかしさで民衆から親しまれた。昔の人達は地蔵さまを建てゝこれを拝しこれを信じて社会の秩序と平穏を保たうと考えたのに違いない。吾々の祖先のこの母になつかしみ地蔵さまに親しむ純真な素朴の心情を今の世に生かしたい。
     『菅谷村報道』141号(1963年4月20日)