木曽義仲が産湯に使ったという木曾殿清水は、今の班渓寺の後方、竹藪の中の湧水らしい。義仲が生まれた場所はこの竹藪一帯の地域いはゆる木曾殿屋敷であると伝えられているから、七ヶ所の清水の宗家は、さしづめ、木曾殿清水となるわけである。然し今では、八幡神社境内の清水が産湯清水の名を独占し、他の清水は忘れられた形になっている。
この産湯清水が八幡神社手水舎の水である。神域に相応しい、清泉がこんこんとして、四季につきない。舎内に備えた、手水鉢の由来について、一つの伝説がある。これを長島美太郎さんにきいた。手水鉢は大体縦五尺横2尺五寸高さ三尺程の立方体の巨石をくり抜いて、水を貯えている。さて、昔、この巨石を川越に運搬しようとして、大八車を引いて、八幡様の南側の道路を通りかゝった一行があった。この石は玉川村田黒の八木原某氏の裏山から採ったものらしい。切り出したあとが、、現在も、手水鉢の形に残っているという。田黒を出た大八車は、宗信寺前の今の県道から山下良作氏の裏を通り、山下由次氏の裏の坂道を下って古い宮下橋の辺を渡り、川越に向ふ予定であったようである。現在この道路は、狭小な村道となって、人車の往来も希であるが、当時はこれが鎌形の南北を結ぶ幹線道路であったらしい。
さて、車が山下由次さんの裏の坂道にかゝると、不思議が起った。今まで動いていた車がピタリと止まって動かない。下り坂であるから一層不思議である。ここは丁度八幡神社社殿南側に当る。車を前にして、人々は考えた。「これは多分八幡様がこの石を欲しいといふことであらう。この石は八幡様に献納しようではないか」といふことに評議が決した。斯くして八幡神社の手水鉢が供えられたのだという。石の表側に「享保十五歳庚戌正月吉日、川越南町西村多右門」に文字が刻まれている外、一切の説明がない。川越の西村というふ人物が何者であるかこれも不明、苗字を名乗っているところを見れば、士分に属する者であらうか。奉献奉納、願主等の文字も見えない。成程前述のような伝説の生まれる条件は揃っているのである。
然し、石の表に刻まれた年代は、徳川吉宗の享保十五年(1730)である。二百三〇年の昔に当るが、このような神怪な伝説を生むにはこれでは時代が新しすぎる。これは草木もことごとくものを言い神々も人間と同じような生活をしていると考へた神人未分の時代の説話の類型に属する。太古の世には、神々が、一人の女性を、又一つの宝を争って闘はれたと伝える説話がしばしば存するが、これに似ている。思うに何処かに存するこの種の古い伝説が、何かの動機でこの手水鉢に結びついたものではなからうか。つまり神様が、それが欲しくそれを手に入れるため不思議を起こしたという伝説が他にあって、それが何かの動機でこの手水鉢に結びつきその由来として語られるようになったと思う。何かの動機それは想像に苦しむが、要するに域埋に存する個々の事物はすべて、神の所属であり、従って神の支配に相応しいような古い歴史や伝統を持っていることが当然であると人々は考えていた。その人々の心、期待に投じてこの伝説がおこったと考えることはさして無理ではないと思う。長島美太郎氏の話は如上の推論を裏書きする。大八車が動かなくなったことは事実であらう。特に宮下橋の附近、都幾川を徒歩渡りすることは難事である。巨石の運搬は、この附近で手に余ったであろう。
長島家の伝えでは、同氏の祖先が実はこの石を、時の金額五両で買いとって、これを八幡神社に奉納したのだという。そのため、その後毎年九月十三日例祭の前日には必ず長島家でこの手水鉢を掃除し桶を新しくとり替えて来た。この古い慣例は近年になって、青年団の奉仕に移り、更に今はお庭草の当番の仕事に変った。
長島家が鎌形村領主金田氏の代官として、この地を支配していたことは史上に明らかである。従って長島家の伝えはおそらく正確な事実であらう。よってこれに基いて、手水鉢伝説の起原を考えてみたのである。
<写真・鎌形八幡神社の手水鉢>
『菅谷村報道』142号(1963年4月25日)