労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

30万人は“政治的数字”

2010-09-25 01:24:57 | Weblog
 前にも書いたが、署名がどれだけ集まっているのかを正確に知っているのは当事者だけだ。

 本当の数字は名簿が選管に提出されてはじめて分かるのだが、それでも30万人という数字は非常に微妙な数字である。

 それはどちらにころんでもおかしくない数字であり、そうだからこそこういう数字が出てくるのだろうが、どちらにころんでも(リコールが成立してもしなくても)われわれの態度ははっきりとしている。

 われわれが何度も述べているように、“名古屋のリコール問題”は全国の地方自治体へ、中央政界へ波及する性質を持っている。ブルジョア民主主義を一種の“独裁政治”もしくは、自立化した執行(行政)権力に置きかえようという傾向は日本においてはすでに時代の趨勢であり、資本主義的生産様式がそうであるようにブルジョア民主主義も制度疲労を起こしているのである。

 階級間の利害がするどく対立するなかで、支配階級は、階級間の和解、もしくは、懐柔策をとるだけの余裕をなくしはじめている。、これこそが、総資本があれやこれらの独裁政治を希求する根源なのだが、このような独裁政治を求めるブルジョアジーに没落の危機に喘いでいる小ブルジョアが合流して、“乞食の王様”を本当の“君主”にしようといういかにも奇異な政治的潮流を生みだしているのである。

 したがって現在のブルジョア民主主義の危機は、資本主義の危機に対応しているだけに、根源的であり、根の深いものがある。

 しかし、この運動がいかに歴史的な必然性を持とうとも、この運動に恐怖し、助けを求める人々がいるのであれば、あえて歴史的必然に逆らい続けることも必要であろう。

 ブルジョア民主主義よりもファシズムの方が相手として闘いやすいというのは、単なる理屈に過ぎない。古い民主主義(ブルジョア民主主義)のために闘わずして、新しい民主主義(労働者の民主主義)の旗手となることはできない。人々の信頼を得ることもできない。

 この過程が、肯定(ブルジョア民主主義)→否定(ファシズム)→否定の否定(生産手段の共有に基づく実質的な民主主義)という弁証法的な過程をたどるというのであればなおさらそうだ。「否定の否定」が肯定的なものを保持した止揚、もしくは揚棄であるのであれば、われわれは危機に瀕しているブルジョア民主主義を歓迎する立場にはない。


 そうである以上、結果のいかんに関わらず、われわれの“名古屋の闘い”は続く。