あさやん通信

おいらの日記、徒然なるままに!

歎異抄

2011-02-02 01:13:30 | いい話
歎異抄(たんにしょう)は、親鸞聖人の言葉が書かれた書物ですが、書いたのは弟子の一人「唯円」だと言われています。

親鸞聖人の亡き後、教えと異なることを親鸞聖人の教えだと言う者が現れてきたことを歎いて書いたものだということで、「異」なるを「歎」く、「歎異抄」になりました。



有名な一節(悪人正機説)を読んでみましょう!

<原文>

善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。
しかるを世の人つねにいわく、「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」。
この条、一旦そのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣に背けり。
そのゆえは、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心欠けたる間、弥陀の本願にあらず。
しかれども、自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり。
煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。
よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せ候いき。

<訳>

善人ですら往生をとげるのです。まして悪人はなおさらのことでしょう。
ところが世間の人は、悪人ですら往生するのだから、まして善人はなおさらだ、といつています。この考え方は、一応もっともなようですが、阿弥陀仏の本願他力のおこころには背いています。
そのわけは、自分の力で善行功徳を積んで往生しようと思っている善人は、阿弥陀如来におまかせをするという気持ちのない人ですから、阿弥陀様のおこころにかないません。けれども、そういう人も、わが身の善をたのむ自力の心を改めて、阿弥陀仏の本願他力におまかせするならば、本願力の御はからいにより、真実の悟りの境界である浄土に往生させていただくことができます。
あらゆる煩悩を身にそなえている私どもは、どんな修行によっても、生死の迷いから離れることができないのです。そのような者を憐れんで、たすけようという願いをおこされたのが阿弥陀仏ですから、阿弥陀様にお任せするのが浄土往生の正しい道であって、自力の善をあてにする善人よりも、本願をたのみ、まかせきっている悪人こそがご本願の目当ての人になるのです。それゆえ、善人ですら往生をとげるのです。まして悪人はなおさらのことでしょうと、仰せられたことでした。 

<もっと簡単に解説すると・・>

ここで言う「悪人」とは、法律とか道徳に反するという一般的な意味ではありません。煩悩を自分自身の力では到底脱することのできない普通の人という意味です。「善人」とはお釈迦様の教えを守り、教え通りに善根功徳を積むことのできる人のことです。そういう善人は当然往生するのだから阿弥陀様の救いの対象ではありません。悪人だからこそ阿弥陀様に純粋におすがりして、阿弥陀様もこういう人を救うというのが本願であるということ。