要約できない人生のあれこれ

気ままに日々のこと
いきづらさを抱えて。なんでもない日常のこと。ごみ捨て場。届かない。

いつか誰かに届くかな

2016-01-22 13:17:08 | 日記





むかし、「つれづれ日記」という名前のブログを

書いていたような気がする

中学生か、高校生のころ。

、、高校生のときはもうこのタイトルだったような気もするけれど








私は精神疾患にしっかりとした名前はないと思っていて

特に私の場合、BPDだと診断されたのは過去一度だけだし

今の先生にはそうじゃないと、と言われている









高校生の頃からBPDだと、思っていた

BPDのあるひとが書いていたブログを読んで励まされたりしていた

その頃は、まったく自分のことがわからなかった

だから、似たような不安、症状、困ったことを抱えるひとを見つけて

きっと安心していたんだと思う。

私だけじゃなかったんだな、って。




病院では不安障害と言われていたけれど、

私はBPDの本を読みふけた。

誰にも言わなかった。

言っても、しょうがないと思っていた











それからやっとBPDという診断名にて入院し、

ああ私はやっぱりそうだったよ、

という気持ちになっていた。

その頃からか、ブログも真剣に書くようになっていた





あのときの私のように、

自分という怪物に怯えていた私のように

自分がわからず泣いている子が、

みつけやすいように

カテゴリーを境界性人格障害にして。



高校生の頃の私と同じようにくるしんでいる子に、

安心してもらいたかった



なんとかかんとか、やってるよ


そういうようなことを

それとなくなんとなく、伝えたかったのです。



いつか届くように、

海に手紙を入れた小瓶を流すように

そんな気持ちで書いていました。





そんなに意識していたわけじゃないけれど、

くるしいときにはくるしい気持ちを

うれしいときにはうれしいことを

見たもの感じたもの、私にとって大事なものを

書いていた、



病名があるなしに関わらず、

考えなくてはいけないのは症状とどう向き合うかであって

その生きづらさというものは、一人ひとり、違うもので

何でも測れないものだと思うから


たとえ同じ診断名を受けたひとにも、

それぞれの人生があって、人格があって、すきなことやきらいなことがある

思いがあって、やさしさもあって、そのひとなりの善や悪もある


だから私はいまはBPDという診断名にこだわりがないです。



その診断を受けたひとも、それにこだわりすぎずに生きたらいいと思う

やりたいことを、やれる範囲でして、生きてゆけばいいと思う

そんなものに囚われて、病名一言であなたを決めつける人の話なんて

きかなくていいし見なくていい

そうする権利がある




自分のこころにはそういう似たような

傾向があるんだなあ、


そのくらいの軽い気持ちで

症状と付き合っていけばいいと思う。






診断名があることで安心する気持ちもわかる

一つの目安になって、対処法や方向性がわかるし、

自分を納得、安心させてあげることができる





でも、それをしぬまでつづけるとなると

人生はかなり融通がきかなくなってしまうと思う

私はBPDだから、、

それがいつも言い訳のように響いたら

いつのまにかその病名に取り憑かれる気がする

本当はもっと、いろんな可能性があるし

マイナスな面だけを見る必要はない

なんせずっと昔には、そんな言葉すらなかった




ある程度安心して、自分のことがすこしわかったなら


そらに放っていいと思う。










植物や動物を見ていたら、どうでもよくなる



私は私だし、私でしかないし、私だけの想いは

からだの病気があったからってこころの病気があったからって

決して冒されることのないと思うから。













カテゴリーの配分を変更しました

病気のことについてあまり書いてないので。

それでもいつか誰かに届くように、すこしだけここに置いておきます。






ここでの冬を大事にしよう

羽休みの坂のまち。

四季はなんどかしか見れないから