ぱにぽん

徒然なる言いたい放題

佐竹藩邸 メモ

2018年11月19日 23時08分41秒 | Weblog
大手町に引っ越して、江戸の街を広く見渡せるビルに入ったある日、ふと、
「そういえばこの大手町周辺ってどんな屋敷があったんだろうな。久保田藩の藩邸ってどこにあったんだろ???」
という疑問を持った。


「稲荷神社」って、藩邸跡地にある場合が多いという通説があるので、各地の稲荷神社の由来なんかを調べるとひっこりと出会えたりするかもね。

とりあえず、久保田藩を調べてみよう。

(参照URL)
秋田市の観光振興課のページ

とか見ながらも、とりあえずWIKIを下敷きに漁ってみる。

久保田藩:wiki
wikiから「藩邸」のところを抜粋してみると、
「江戸藩邸は宝永年間当時は上屋敷が下谷七軒町(現在の台東区台東、佐竹商店街周辺[14][15])、中屋敷が鳥越、下屋敷が深川にあった。幕末には下谷七軒町に上屋敷、神田佐久間町と本所十間川に中屋敷が、鳥越、本所中之郷、日暮里に下屋敷があった。また、大坂布屋町に大坂藩邸、京都柳馬場通四条上ルに京都藩邸を持つ。」

との事。
※ 宝永年間=1704年から1711年までの期間
あれ?その前は?

うーん。とりあえず上屋敷についてのみ見てみると、どうやらこういうこと↓らしい。


天和2年(1682年)ごろまでの上屋敷があったあたり: google map
内神田2丁目から3丁目あたり。現在の、神田駅西口にある佐竹稲荷神社から神田西口商店街のあたりらしい。
佐竹稲荷は藩邸の鬼門除けだったらしい。
天和2年(1682年)12月28日の八百屋お七の放火による江戸の大火で焼失


天和3年(1683年)以降の上屋敷があったあたり: google map
現在は、御徒町・佐竹商店街のあたり。(「佐竹商店街は日本で二番目に古い商店街」??ほんとか?)
入口に佐竹家上屋敷・佐竹っ原跡の碑がある??
佐竹商店街の入口を南東の角として、そこから、台東区台東四丁目にある竹町公園及び平成小学校、竹町幼稚園あたりを含み、おそらく現在の春日通り(新御徒町駅あたり)までを敷地として「下谷七軒町上屋敷」があったのでしょうね。

明治2年(1869年)には、火災により建物はすべて焼失。
以下、その後。上記参照URLからのコピー
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屋敷内は荒れるにまかされ、草ぼうぼうと生い茂り佐竹っ原といわれるに至ります。明治5年(1872年)には国に上納されて大蔵省の所管となり、一時は陸軍省用地として使用されていたこともあるようです。そのころは戸数68戸、住民数は268名。周辺に比べ最も閑静な場所でありました。しかしながら明治17年(1884年)頃から民間に貸し下げられ、次々と民家が建ち並び、店舗が軒を連ねるようになり、竹町の街、佐竹の商店街の萌芽が形成されたのです。年を経るごとに盛り場娯楽街として充実発展してゆきます。
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さてさて、上屋敷以外だと、

宝永年間当時
中屋敷:鳥越(上屋敷のすぐ近くの街区だね)
下屋敷:深川

幕末
中屋敷:神田佐久間町(藩邸は秋葉駅じゃないの?って聞いたことがあった。中屋敷だったのか。。。)
本所十間川(桶門の北側かなぁ)
下屋敷:鳥越(幕末には中屋敷が下屋敷になったのかな?)
本所中之郷(火事で十間川から移ったとかそういうのだろうな。)
日暮里
??
日暮里のどこかわからんなぁ。困ったときの稲荷神社だのみ。「日暮里 稲荷神社」とかググってみると、
おぉ。荒川区のサイトに、手がかり。
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向陵稲荷神社
更新日:2010年3月19日
 この辺りにあった秋田藩主佐竹氏の抱屋敷内に江戸時代初期より祀られていましたが、その後町の鎮守となり、大正15(1926)年に現在地に移りました。
 近年、受験合格祈願の参拝者が増えています。

所在地: 荒川区西日暮里四丁目7番34号
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だそうだ。抱屋敷(かかえやしき)=下屋敷 と思っていいでしょう。

大坂藩邸:大坂布屋町(現 大阪市中島?)wikiの西淀川区を参照
京都藩邸:京都柳馬場通四条上ル







Webであちこち調べるのも限界があるので、これらを手がかりに、
後は暇が出来たら現地に行ってみて、よくある「旧町名案内板」なんかにどこまで書かれているか見てみるってのも楽しいか。
古地図で裏をとらないとほんとかどうかよくわからんわね。
いつの事になるやら。


メモ:
江戸藩邸:wiki
「藩邸の神々」